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第11話 流行り風邪と「健康の知恵」

アルデバラン伯爵領に、長く厳しい冬が居座り続けていました。

空は鉛色に重く沈み、容赦なく吹き付ける北風が、街路樹の裸の枝をヒューヒューと悲鳴のように鳴らしています。石畳には前日に降った雪が薄く凍りつき、道を行く人々は首をすくめ、吐く息を白く染めながら足早に家路を急いでいました。


そんな凍てつく冬の夜。

水路沿いの路地にひっそりと佇む小料理屋「こいと」の店内も、いつもとは違う寂しい空気に包まれていました。


「……はぁ。今日も、お客さんが少ないわね」

厨房の中央に立つ小糸は、ピカピカに磨き上げられた琥珀色のカウンターを見渡し、小さくため息をつきました。

普段のこの時間であれば、仕事帰りの商人や職人たちで十席のカウンターは満席になり、小糸の作る温かい料理と楽しい話し声で、店は熱気に溢れているはずです。しかし今夜、店にいるのは、隅の席でどんよりとした顔をして鼻をすする若い職人のルカと、手持ち無沙汰にエールを舐めている冒険者のザックの二人だけでした。


「ルカさん、また鼻をすすって。温かいお茶を淹れましょうか」

小糸が声をかけると、ルカは「ズズッ」と盛大に鼻を鳴らし、申し訳なさそうに頭を下げました。

「ごめん、おかみさん……。親方も風邪で寝込んじゃって、工房は休みなんだ。クロエちゃんのお店も、パンを買いに来る人が減って大変みたいで……なんだか、街全体が元気ないよね」


ザックも、ジョッキを置いて深くため息をつきました。

「全くだ。相棒のカイルの奴も、昨日の商談の帰りに熱を出して寝込みやがった。この寒さのせいで、街中に嫌な流行り風邪が蔓延(まんえん)しているらしい。自警団の詰め所でも、半分くらいが休んでやがる」


ザックの言う通り、数日前からアルデバラン伯爵領では、質の悪い流行り風邪が猛威を振るっていました。

熱はそれほど高くないものの、鼻水と激しい喉の痛みを伴い、何より身体の芯から気力を奪っていく厄介な風邪です。冬の寒さに加えて、長引く自粛生活で心まで塞ぎ込み、街全体が重く冷たい空気に沈み込んでしまっていました。


「カイルさんも、ルカさんの親方さんも……それは心配ね」

小糸は腕を組み、静かに考え込みました。

この異世界にも、治癒魔法を使う聖職者や、薬草を調合する薬師(くすし)は存在します。しかし、魔法は高価で一般の領民には手が届きにくく、薬師の作る薬も、風邪の症状を劇的に治すような特効薬ではありませんでした。


「お父さん。私に、何かできることはないかしら」

小糸は厨房の奥に置かれた健三の湯呑みに視線を向けました。

病気そのものを治すことは、料理人の仕事ではありません。しかし、病気を跳ね返すための「体力」を作り、沈んだ「心」を温めてあげることならできるはずです。


『いいか小糸。医食同源(いしょくどうげん)って言葉がある。毎日の食いもんが、一番の薬なんだ。風邪を引いたからって、美味くもない薬草ばかり齧(かじ)らせるな。身体が本当に欲しがっている栄養を、一番美味くて、胃に優しい形で食わせてやれ。それが料理人の仕事だ』


亡き夫の不器用で力強い言葉が、小糸の背筋をピンと伸ばしてくれました。

「そうね。お薬を作ることはできないけれど、お薬よりも元気が出る、美味しいご飯を作ることはできるわね」


小糸が気合を入れ直した、その瞬間でした。


『ピロン』


澄み切った鈴のような音が、小糸の頭の中に響きました。

目の前の空間に、淡い光を帯びた半透明の文字がフワリと浮かび上がります。


『スキル「おばあちゃんの知恵」がレベルアップしました』

『「健康の知恵レベル1」が解放されました』


「あら……。健康の知恵、ですか」

小糸が呟いた瞬間、まるで春の陽だまりのような温かい光が、足先から頭のてっぺんへとゆっくりと昇っていくのを感じました。

冬の寒さで少しだけ強張っていた関節が滑らかにほぐれ、呼吸が深くなり、内臓の奥底から尽きることのない生命力がこんこんと湧き出してくる感覚。ステータス画面の「体力」の数値が、また一つ大きく跳ね上がっていました。


それと同時に、小糸の脳内に、かつて日本で実践していた様々な「民間療法」の知識が、異世界の食材と完璧にリンクした「理論」として鮮明に組み上がっていきました。

喉の炎症を抑える成分を持つ根菜、身体を芯から温めるスパイスの調合比率、弱った胃腸に負担をかけずに栄養を吸収させる調理法。

長年の経験が、「健康の知恵」というスキルによって研ぎ澄まされ、明確なレシピとなって小糸の目の前に光の道筋を示したのです。


「ふふっ……すごいわ。これなら、街のみんなの風邪を吹き飛ばせるお料理が作れるわね」

小糸は割烹着の袖をまくり上げ、厨房の食材棚へと向かいました。


「ルカさん、ザックさん。少し待っていてくださいね。今から、身体の芯から元気が出る、とびきりのお料理を作りますから」

小糸の弾むような声に、二人は不思議そうに顔を見合わせました。


小糸が手に取ったのは、数日前に八百屋のリリアから仕入れていた、見慣れない食材たちでした。

まずは、大根に似た白い根菜。ただし、日本の大根よりも水分が少なく、辛味が強い品種です。

次に、生姜に似たゴツゴツとした黄金色の根っこ。これは「炎の根」と呼ばれるスパイスで、少し齧るだけで舌がピリピリと痺れるほど強い発汗作用があります。

そして、蜂蜜によく似た、甘い樹液。


「風邪を引いた時は、まずは喉の炎症を抑えて、身体の奥にこもった寒気を汗と一緒に外に追い出すのよ」

小糸は白い根菜をおろし金で丁寧にすりおろしました。おろすことで細胞が壊れ、辛味成分と殺菌成分が最大限に引き出されます。そこへ、黄金色の「炎の根」をごくわずか、隠し味程度にすり下ろして加えます。入れすぎると胃を荒らすため、絶妙な加減が必要です。


次に、小鍋に「鉄の実」と乾燥キノコで引いた自慢の黄金出汁を張り、そこへすりおろした根菜とスパイスをたっぷりと投入しました。

さらに、喉を優しく保護するための甘い樹液を加え、極限まで弱火にして、ゆっくりと、ゆっくりと成分を出汁に溶け込ませていきます。

コトコトと煮込むうちに、厨房の中には、出汁の深い香りと、スパイスの爽やかで刺激的な香り、そして樹液の甘い匂いが混じり合った、何とも言えない薬膳のような芳醇な香りが漂い始めました。


「うわぁ……。なんだか、匂いを嗅いだだけで、鼻の奥がスッと通るみたいだ」

ルカが鼻をクンクンと鳴らしながら、驚いたようにカウンターから身を乗り出しました。

「本当だな。胃袋の底がカッと熱くなるような、不思議な匂いだぜ」

ザックも喉をゴクリと鳴らします。


「仕上げに、これを加えますよ」

小糸が最後に取り出したのは、葛粉(くずこ)に似た、植物の根からとれたデンプン粉でした。これを少量の水で溶き、鍋の中に回し入れます。

すると、サラサラだったスープに、とろりとした美しいとろみがつきました。

「とろみをつけることで、スープが冷めにくくなって、喉をゆっくりと通りながら粘膜を保護してくれるのよ」


「お待たせしました。『特製・みぞれ薬膳スープ』ですよ」

小糸は、深みのある素焼きの器に熱々のスープを注ぎ、二人の前に置きました。

琥珀色の出汁の中に、すりおろした純白の根菜が雪のように浮かび、湯気と共にスパイスの香りが立ち上っています。


「いただきます……!」

ルカが木のスプーンでスープをすくい、フーフーと息を吹きかけてから口に含みました。

その瞬間。

「……っ!」

ルカの目が大きく見開かれました。

「なんだこれ……! すっごく美味しい! お出汁の旨味と、樹液の優しい甘さが口いっぱいに広がるのに、後からスッとした辛味が喉の奥を温めていく……!」


ザックも夢中でスープをすすり、ハァーッと熱い息を吐き出しました。

「うおおおっ……! 身体が、芯から燃えるように熱い! なのに嫌な汗じゃない。どんよりと重かった頭が、信じられないくらいスッキリしてきたぞ!」


二人は無言でスプーンを動かし続け、あっという間に器を空にしてしまいました。

ルカの額にはうっすらと汗が滲み、先ほどまでの血の気のない顔色が、嘘のようにほんのりと赤く染まっています。ズズッと鳴っていた鼻水もピタリと止まり、呼吸が深く楽になっているのが分かりました。

ザックもまた、外套を脱ぎ捨てて「暑いくらいだ!」と豪快に笑っています。


「すごいよ、おかみさん! このスープ、魔法の薬みたいだ! 身体の中から、元気な力が湧いてくるのが分かるよ!」

ルカが感動のあまり身を乗り出して言うと、小糸は嬉しそうに目を細めました。

「ふふっ、魔法じゃありませんよ。お野菜とスパイスが持っている力を、一番吸収しやすい形にしてあげただけです。……ルカさん、もしよかったら、このスープ、お鍋に入れてお渡ししましょうか? 親方さんにも飲ませてあげてくださいな」


「えっ、いいの!? ありがとう、おかみさん! 親方、きっと喜ぶよ!」


さらに小糸は、ザックにも竹筒にスープを詰め、「これ、カイルさんのお見舞いに持っていってあげてね」と手渡しました。

「恩に着るぜ、おかみさん。あいつ、飯も食わずに寝込んでたから、これなら絶対に喜ぶはずだ」


翌日。

「こいと」の噂は、風邪の流行を上回る速さで街中に広がりました。

「こいとのおかみさんが作る『みぞれ薬膳スープ』を飲めば、どんな流行り風邪も一晩で治っちまうらしいぞ!」

「あそこの飯は、美味いだけじゃなくて、薬師の薬より効くんだ!」


夕暮れ時。

「こいと」の藍色の暖簾をくぐって、次々と客が押し寄せてきました。

その中には、前日まで寝込んでいたはずのカイルや、ルカの親方の姿もありました。


「おかみさん! 昨日はザックにスープを持たせてくれて、本当にありがとう! あのスープを飲んで一晩ぐっすり寝たら、熱が嘘みたいに下がって、身体が羽のように軽くなったんだ!」

カイルが満面の笑みでカウンターに身を乗り出しました。

「おかみさん、うちのルカが世話になったな。あのスープのおかげで、俺も今日から仕事に復帰できた。本当に助かったよ」

強面(こわもて)のルカの親方も、深く頭を下げて感謝を伝えてくれました。


「皆さんが元気になって、本当に良かったわ」

小糸は柔らかな笑顔で応えながら、今日も大鍋いっぱいに仕込んだ薬膳スープを次々と振る舞っていきました。

病み上がりの身体に負担をかけないよう、具材は柔らかく煮込んだ葉野菜と、少しの白身魚だけ。しかし、出汁とスパイスの完璧なバランスが生み出すそのスープは、訪れるすべての客の身体を芯から温め、笑顔を取り戻させていきました。


店の中は、数日ぶりの活気と熱気に包まれています。

「掃除の知恵」で磨き上げられた清浄な空間に、「健康の知恵」が生み出した薬膳スープの香りが満ちる。それは、どんな高名な聖職者の治癒魔法よりも、確実に街の人々の心と身体を癒やしていく力でした。


営業が終わった深夜。

小糸は厨房の隅に置かれた健三の湯呑みに、温かいほうじ茶に似た香草茶を注ぎました。

「お父さん。私、お父さんの教えの通り、美味しいお料理でみんなの身体を元気にすることができましたよ。医食同源、ですね」


湯呑みから立ち上る白い湯気を見つめながら、小糸は自分の身体に満ち溢れる活力に静かに感謝しました。

「健康の知恵」によって引き出された若々しい生命力。それは、小糸自身を健康に保つだけでなく、彼女の作る料理を通して、この見知らぬ異世界の人々の命と暮らしを根底から支える、強大な「力」となりつつありました。


「さあ、明日は風邪予防に、少しお肉を使った栄養満点のお料理を考えましょうかね」

小糸は軽やかな足取りで片付けを終え、ランプの火を吹き消しました。

冬の寒さはまだまだ続きますが、「こいと」の小さな温もりは、アルデバラン伯爵領の人々の心に、決して消えることのない春の陽だまりのような安心感を灯し続けていました。



第11話、お読みいただきありがとうございます!

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次回も小糸の活躍をお届けしますので、どうぞお楽しみに!

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