3.性犯事件、なめんなよ③ 四年前の少女
「千年……いや、あれは万年に一度っすね」
「はあ?」
「被害の女の子ですよ。正直、たまげました」
中学生に頬を染める相棒は正視に耐えない。
「まさか調べ室に入った途端、ハルクみたいな女でも出てくるのか」
古田の雑な右折に、身体が大きく振られる。
「ちがいますよ! またと見ない美少女だって言ってるんです!」
「万年ってお前な、人類の歴史塗り替えんなよ。クレオパトラが泣くぞ」
「いやほんとに。楊貴妃も小野小町も、たぶん敵わないっすよ。ハシカンですら霞みますって」
興奮気味にまくし立てる古田を、新見は横目で見た。
「で? その万年に一度が、スタンガンと結束バンドで男を縛り付けたってか」
低く落とした声に、古田の口がぴたりと止まる。
「……でも、協力者がいたわけでしょ」
「まだ疑惑、な。古田、捜査は決め打ちで進めるなよ。相手の球種や癖を頭に叩きこんでから、はじめてバッターボックスに立つもんだ」
古田に言っている体で、そのまま自分に突きつける。
堀が黙秘を貫いているせいで、まだ一方の主張しか見えてこない。
通常あり得ないような状況の連続で、少女にいらぬ疑惑を持っているが、例え協力者がいたとしても、少女は圧倒的な被害者だ。
よくぞ無事に切り抜けたと賞賛こそすれ、責める理由はない筈だ。
そうに決まっている。
視線を窓の外へ逃がす。
白金の高台を下り、景色が庶民的な街並みに変わっていく。
色褪せた看板の並ぶ通りを流し見て、ふと引っかかった。
「そこ右折しろ」
「えっ、署は反対ですよ」
「いいから」
古田がぶつくさ言いながらハンドルを切る。
やや膨らんだ不格好な右折。
交番勤務で叩き込まれたはずの運転も、こいつはどうにも雑だ。
住宅街を縫う狭い一車線に、既視感がよぎる。
四年前、新見は雨に濡れたアスファルトを蹴り、ここを走った。
〈……男が少女の手を引き連れ去ったとの通報。……付近の警ら車、現場確認願います〉
ざらついた無線の声が、今も耳の奥に残っている。
別件の聞き込みで、当時すぐ近辺にいた新見は即座に現場に急行した。
斜線を描き打ち付ける雨の影響で周囲に人影はなく、通報者もすでに現場を去っていた。連れ去られた方角だけを頼りに出鱈目に走り回った。
十字路に差しかかった時、角から飛び出してきた人影とぶつかった。
まだ幼い、学生服を着た男の子だった。
傘も差さず、長く雨に打たれたのか唇はチアノーゼを起こしかけていた。
「君、この辺の子か? 女の子を連れた男、見なかったか」
少年を抱き起し、息を荒げながら新見は訊ねた。
弾かれたように顔を上げた少年は、真っ青な顔とは対象に、目は充血し、瞳を爛々と光らせていたのが妙に印象に残った。
「し、知りません」
これじゃ自分が不審者か。
そう思い、反射的に警察手帳を取り出して見せる。
少年はますます顔を青くさせ、首を横に振った。
「……そうか。危ない男がいるかもしれない。君も早く帰れ」
少年は無言で頷き、新見が来た道を走り去った。
濡れた袖と、ぶかぶかのズボンの裾が手足にまとわりついている。
中学上がりたてか。
そんなことを、新見は漫然と考えた。
ふいに、少年が飛び出てきた道の奥に目が止まる。
突き当りの暗がりに、アパートが佇んでいる。
錆びたトタン屋根。外壁にはツタが絡みつき、明かりは一つも点いていない。
廃墟だ。
トタンを打つ雨が、音を塗りつぶしていく。
心臓が脈打つ。考えるより先に、身体が距離を詰めていた。
雨音に紛れてコンクリートの廊下を進み、一室ごとに木製の扉に耳を寄せる。
ささくれだった木片が頬を刺す。
一番奥の部屋の扉に耳をつけた、その時だった。
「……めて……おねが……」
すすり泣く声。
高く、まだあどけなさを残す、子供の声だった。
視界の縁が熱を帯びる。
焼け付く息が、喉の奥から込み上げた。
ジャケットの裾を押さえ、腰の警棒の位置確かめる。
続けて、脇のホルスターの留め具に指をかけ、スミス&ウェッソンM37をいつでも抜ける位置に寄せた。
相手が凶器を所持しているのかも不明。本来なら応援を呼び待機するのが鉄則だ。
だが、通報から一体何分経った?
無意味に走り回った時間、そしていまこの瞬間にも少女は危険に曝されている。
もはや猶予はないと思えた。
ドアノブをゆっくりと回すと、扉は抵抗なく開いた。
施錠がされていないことを確認すると、元に戻す。
新見はドアから離れ建物の裏側へ回った。
壁に背をつけ、掃き出し窓からそっと中の様子を伺う。
窓ガラスは土埃が澱となって張り付き、残置物のカーテンがだらりと片側に垂れ下っている。
暗闇の中、遠くの街灯の明かりを拾って、白いものがぼんやりと浮かび上がる。
毛羽立った畳に投げ出された細く白い手脚。
近くには衣服が点々と落ちている。
暗い室内のさらに奥に、黒い、大きな影。
獣だ。
新見の全身が総毛だつ。
濡れ固まった髪の間から、糸のように細い目が濁った光を放っていた。
男の体は、まるで空気がパンパンに詰まったタイヤのように膨らんでいる。
その凶暴なまでにぶ厚い図体が、少女に覆いかぶさろうとしていた。
まずい。
新見は急いで玄関に戻ると、音を潜めることも忘れ勢いよく突入した。
狭い1K。扉を開けると、すぐに男の背中が見えた。
「警察だ!」
無意識に名乗りを上げながら、男が振り向く前にその背中に飛びつく。
視界の端にかすめる少女を避け、首に腕を回して後ろに倒れ込もうとする。
しかし男は低く唸りながら凄まじい力で藻掻いた。
男の腰が右に沈んだ瞬間、すかさず逆側に足を滑り込ませ、体を密着させた。
「てめぇ……! 糞野郎、離せ!」
地の底を這う低音が狭い室内を揺らす。
思わず怯みそうになる体を叱咤し、男の膝裏に自分の膝を当て込む。
ぐらりと男の腰が落ちた。
そのまま壁へと押しつけ、暴れる腕を肩で封じ込め後ろ手に捻る。
男は止まらない。
捻り上げた腕の痛みを物ともせず、壁が崩れるかと思うほどの力で自らの体を壁に打ち付け、新見を引き剝がそうとする。
駄目だ。もう、締め落とすしかない。
暴れる男の背後にしがみついたまま、右腕を喉元へと滑り込ませた。
指先を反対側の肘の内側に叩き込み、左手を男の後頭部に回す。
頸動脈を左右から断つ、裸締め(リアネイキッドチョーク)。
だが、男の首は想像を絶する太さだった。
硬く張り詰めた筋肉が、新見の腕を容赦なく押し返してくる。
「が、あ……ッ!」
男は獣のような咆哮を上げる。
新見の肘に指が食い込み、骨が軋む。
それでも全身の筋力を右腕の一点に集中させた。
肺から空気が絞り出される。
数秒後、男の動きに変化が訪れる。
あがき回っていた手脚から鋭さが失われ、喉の奥から不気味な音が漏れた。
顔面がどす黒く充血し、白目を剥く。
腕の中で筋肉の張りが溶けていく。
——早く、落ちろ!
新見は指の感覚が消えるほど、男の首の奥へと腕をめり込ませた。
次の瞬間、男の体が畳へと崩れ落ちた。
ドサリ、と鈍い音が湿った空気に響く。
身の内に響く自分の心音をどこか遠くに聞きながら、固まった指を一本ずつ引き剥がして腕を抜く。
力を失った男の腕を後ろ手にひねり、手錠をかけた。
「……確保」
やけに掠れた声が雨音に沈む。
刑事になって初めて引導を渡す相手が、これか。
新見は腰が抜け、畳の上で胡坐をかくと大きく息を吐いた。
カタン、
部屋の隅からの物音。
はっとして振り返る。
少女は壁際にうずくまり、ピンクのトレーナーを必死に胸元に抱え、ガチガチと歯を鳴らしていた。
雨に濡れてほつれた髪が顔に張り付き、その隙間から覗く瞳には底知れない恐怖が浮かんでいた。
新見は膝をついたまま、這うようにして少女へ近づく。
「大丈夫だ……もう、大丈夫だから」
自分でも驚くほど声が震えていた。
少女が下着すら身に着けてないことに気づくと、視線を逸らしジャケットを脱いでそっと被せる。
「ごめんな、濡れてて冷たいだろ。すぐ、家に帰れるからな」
部屋に散らばる少女の衣服を集め、横に置いてやる。
少女は新見のジャケットを掻き寄せると、濡れた瞳を倒れた男に張りつけ、決して視線を剥がそうとしなかった。
再び動き出すのを恐れているのだろう。
「……お、おじさん、だれ?」
少女は男を見たまま、震える声で尋ねる。
「警察官だよ。ああ、警察手帳はそのジャケットだな。左のポッケだ」
固定した視線を動かさずに少女がポケットを漁る。
開いた警察手帳に一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「しん、み……さん」
「にいみ、だよ。新見智也。あと、おじさんじゃなくてお兄さんな。俺はまだ26だ」
わざとおどけて肩をすくめる。
少女がやっとこちらに視線を向ける。
殊更、得意でもない笑顔を浮かべてみせた。
すると少女の瞳の輪郭が途端にぼやけ、目の縁にみるみる涙が溜まる。
新見は喉を詰まらせた。
「新見、さん。あり、ありがとう」
ぼとぼとと零れ落ちる雫を手首で擦るたび、すだれのように顔に張りついた少女の髪が剥がれ、その容貌が顕わになった。
新見は息を呑んだ。
——あれこそ、万年に一度だろ。
「せんぱーい、どこまで走らせるんすか」
気づけば、フロントガラスの向こうはあの時の十字路に差しかかろうとしていた。
「そこ、曲がって。左」
「ええ? この先、行き止まりっすよ」
無言で促して左折させる。
車がゆっくりと停車する。廃墟のアパートは時が止まったまま、そこに静かに佇んでいた。
「ボロいアパートですね。先輩、忘れ物ですか?」
「アホか、住んでねえよ。……4年前、あいつ——堀はここで少女を襲ったんだ」
車内の空気が一段下がり、古田は顔を強張らせた。
「当時まだ十一歳の女の子だ。男の俺でも怖気づいちまうくらいの獰猛な大男に、小さい体を好きにされた。抵抗なんてあってないようなもんだ」
古田は窓から身を乗り出し、恐々とアパートを仰ぎみる。
リアルな想像でもしたのか、細く長い息を吐き出した。
「あいつの罪状、強制性交等未遂、でしたっけ」
「未遂でも既遂でも関係ねぇよ。そこにあったのは恐怖だ。想像を絶する、な」
アパートの窓や扉は薄い合板で打ち付けられている。
事件後、近隣住民からの苦情もあったのだろう。
防犯上の理由で地主が急ごしらえの対策をしたのが見て取れた。
外界から遮断されたその室内は、あの時の空気も、恐怖も、叫びも、すべてを閉じ込めたまま、ただそこに残り続けている。
「古田。お前、人死にが関わってない事件だと途端にやる気なくすの、やめろ」
古田の肩がびくりと震えた。
「そんなこと、」
「ないって言えるのか? 今日も思ってただろ。〝なんだ性犯か〟って。透けてんだよ」
古田は口を開きかけ、閉じた。ハンドルの上で指が落ち着きなく動く。
「……すんません。軽く見てたつもりはないんすけど」
「つもり、じゃねえよ。被害者の人生がどうなるか、想像したことあるか?」
古田は答えられなかった。
新見は窓の外に視線を戻す。
薄い合板の向こうに、少女の泣き声がまだ残っている気がした。
「人は死ななくても、壊れる。そのまんま生きていくしかない。……そういうのが一番きついんだよ」
新見は事件から一年後、とある事件で被害少女と再び関わることになった。
一年の時を経てもまだ、少女の傷は癒えず、心は固く閉ざされたままだった。
いま、あの子はどうしているのか。
折に触れては、あの暗く沈んだ瞳を思い出し、 新見は胸の奥を締めつけられるような苦々しさに苛まれる。
「先輩、俺、刑事向いてないですかね」
珍しく殊勝な顔で俯く古田に、新見は眉を上げた。
「別に、お前の刑事としての資質を疑ったわけじゃない」
「でも俺に灸をすえるために、ここに連れてきたんでしょ?」
それもある。
だが、本当の理由は別にあった。
新見は再確認したかったのだ。堀は加害者で、絶対的な悪であると。
今日の事件の裏に、確かな違和感があった。
女子中学生が日常的に携行するには不自然な拘束道具。
危険な暗がりを自ら選んだかのような帰宅ルート。
そして、秘匿された協力者の存在——。
今回の堀は、受動的に操られた加害者なのではないか?
そんな疑念が、頭の片隅にこびりついて離れなかった。
だからこそ、ここに来た。
堀が何をしたのか、少女がどれほどの恐怖に晒されたのか。
あの時の〝絶対悪〟に、手心を加えないために。
黙り込んだ新見に、古田がぷるぷると震え始めた。
チワワか。
「そうしょげんな。お前はフットワークも軽いし、息の抜き方も心得てる。相手の懐に飛び込むのが上手いのも……まあ、評価してなくもないような、気がする」
「はっきりしないですね」
古田が天を仰ぐ。
「でも中学生に熱上げんのは頂けねえな。職質かけてやろうか」
「ちょ、違いますよ! あれは推し活みたいなもんで、」
「へいへい、もういい。車出せ」
後進する車のフロントガラス越しに、廃墟がゆっくりと遠ざかっていく。
高輪は古い地主が多い。
相続や権利関係で揉めれば、この先何十年も放置されることもざらだ。
ここに刻まれた忌まわしい記憶は、この街の片隅でひっそりと残り続けるのだろう。
それが良いことなのか、それとも悪いことなのか。新見には分からなかった。




