16.マスク星人の正体
新しい父ができてから、はじめての春だった。
赤坂御所に隣接する名門私立に通っていた正義は、初等部4学年に上がると同時に、転校を余儀なくされた。
新しく通う事になった高輪清真学園初等部は、都内の喧騒のただ中に、ビル型の校舎が無機質にそびえる。
緑地も少なく、校庭も驚くほど狭い。
走ればすぐ端にぶつかるような場所だった。
ちょうどその頃、新型コロナウイルスの流行が始まり、正義の世界は一気に縮んだ。齢9歳にして、正義は急に人生がつまらなく感じ、くさくさとしていた時期だった。
時の政権が全国一斉休校を要請し、正義は転校の案内時に一度校内を見学したきり、学校から締め出されることとなった。
退屈なオンライン授業。
分割された小さな枠に収まる、知らないクラスメイト達の顔。
友達などできるはずもなく、家に閉じこもる日々。
唯一の救いは、新しい父がほとんど家にいないことだった。
緊急事態宣言下での危機対応の指揮をとる父とは、朝食の時に短く顔を合わせる程度。停滞した日常の中で、新しい会話など生まれるはずもない。
食器の音とニュースの音声だけが鳴り響く、気まずい食卓だった。
六月に入り、分散登校が始まった。
三つに分けられたクラスで登校日をずらし、少人数で授業が行われた。
間隔の空けられた机は、過疎地の閉校寸前の学校に似ていた。
感染予防の為に設置された透明の仕切り板は、どこかよそよそしいクラスメート達の、心の壁のように感じられた。
隣の席の織部茉莉奈は、マスクがいつも異様にデカい。
目までかかるほどにぶかぶかのマスクをつけるから、顔が判然としなかった。
この子の親も、子供用のマスクを買い与えてやればいいのに。
そう思ったが、マスク不足はまだ深刻だ。仕方ないのかもしれないと納得した。
ある日父が、何かの伝手で運よく確保できた、子供用のマスクを渡してきた。
「学校でみんなに配ってやれ」
そう言うと勉強机に箱だけ置いて出ていった。
机の上に残されたマスクをみて、正義は心のどこかがくすぐったくなった。
翌日、先生にマスクを預けた。
感染予防のため配布物は先生が配るからだ。
ホームルームが始まると、正義は落ち着かなくなる。
「今日は五百旗頭くんが、みんなにマスクを持ってきてくれました」
先生が配り始めると、ちらほらと周囲からお礼を言われる。
ふいに、織部茉莉奈が隣の席から手を伸ばして、仕切り板をつついた。
「いおべき君。ありがとう」
マスクすれすれの目が細められ、ずり上がったマスクに隠れた。
不織布の下は満面の笑みを浮かべているのだろうか。
急にマスクが邪魔に思えて、胸の奥が変な感じがした。
「いおべきじゃなくて、いお『きべ』だよ」
「呼びにくーい。ね、イオくんでいい?」
「別にいいけど……」
ずりあがったマスクを茉莉奈が下に戻すが、喋った拍子にまたずり上がる。
正義は思わず噴き出した。
「マスク星人だね」
そう言うと、茉莉奈は顔の横で両手をわきわきした。
マスク星人のつもりらしい。
次の分散登校日も、茉莉奈はマスク星人のままだった。
「なんで僕が持って来たマスクつけないの? もう使い切った?」
五枚ずつ配られたから、毎日使ってもまだあるはずだ。
正義はむっとして訊ねる。
「え? つけてるよ?」
「いや、だって……」
しかしよく見ると、白い不織布マスクの片隅には星型に縫われたワンポイントが入っている。確かに正義のもってきた子供用のマスクだった。
「あれー? 間違えちゃったかな?」
茉莉奈はおもむろに、マスクのゴム紐を延ばして裏返す。
正義の心臓が、止まった。
「あ、やっぱり合ってる」
パチンと顔にマスクが戻る。
茉莉奈は正義に目を向けると、顔を真っ青にした。
「い、イオくん。大変。熱あるんじゃない? どうしよう。先生に、」
「いや、違う。ちがうんだ。大丈夫コロナじゃない」
正義は顔を押さえて、掌を向けて茉莉奈を止める。
マスクの下が、熱い。
心臓がうるさいほどに脈打つ。
正義の中で、緊急事態宣言が発令された。
なんてことはない。
茉莉奈は最初から子供用のマスクをつけていたのだ。
マスク星人の中身は、驚く程に小さな顔と、こぼれんばかりの大きな瞳。
つんと尖った小作りな鼻と桜色の唇が隠れていた。
不思議そうに首をかしげる茉莉奈の横で、正義は生まれてはじめての感情に戸惑いを隠せなかった。
ぶりっこな所がある茉莉奈は一部の女子からは嫌厭されていた。
しかし、つっこみどころのある天然ぶりと底抜けの明るさで、三密などなかった事のように、彼女の周りには人が集まった。
正義はその他大勢の一人。
転校生ということもあり、どこかその輪に入り切れずにいた。
声をかけようとしては失敗する。
中々距離の縮まらないもどかしい日々が過ぎ、例年よりも短縮された夏休みに突入した。
茉莉奈との距離は開くばかりだったが、この頃になると父との会話が少しずつ増えていった。
父は相変わらず多忙を極めたが、たまの休みには外食に出たり、来賓として招かれる地域行事に正義を連れ出してくれた。
口が常にへの字に曲がり、こめかみのあたりには古傷。
薄い色付きの眼鏡かけて厳めしい顔の父を、ずっとヤクザみたいだと思い近寄れずにいた。
しかし話をしてみれば江戸っ子気質でくだらない冗談を飛ばす、楽しいおじさんだった。堅苦しい九条の家の人間よりも、正義にはずっと好ましく思えた。
「正義。『まさよし』でもなく『せいぎ』と読む名前をつけた親父さんの思いを、裏切っちゃなんねえぞ」
父は事あるごとにそう言った。
正義が物心つく前に亡くなった本当の父は、警察官でも官僚でもない、普通のサラリーマンだった。母とは恋愛結婚だったらしい。
本当の父がどんな思いでこの名前を付けたのか知る由もないが、今の父はこの名前に特別な意味を持たせた。
「自分の中に正義を作れ。誰にも負けられないと思う正義を。そうすりゃお前は、誰かを守れるヒーローになれる」
すでに思春期に突入していた正義は、「臭いこと言うよな、この世代の人」と思っていたけれど、なぜかその言葉は、正義の心の片隅に留め置かれた。
夏休みが終わると、分散登校も解除され、学校生活は少しずつ平常へと移行していった。
茉莉奈の周りにはさらに人が増えた。もはや正義はその他大勢ですらなく、近づくことすら許されないウイルスのように隔離された。
そんな中、正義にチャンスが到来する。
高輪警察署主導の、学校での不審者対応訓練。
そこに視察として父が来訪することになったのだ。
主賓の挨拶で校庭の演台に父が登り、名前を名乗るとクラス中がどよめいた。
珍しい苗字はすぐに正義と結び付けられたのだ。
正義は背の順の前の方で、茉莉奈は最後尾だった。
大っぴらに後ろを向いて茉莉奈の反応を見る事も叶わず、正義は少し残念に思った。
だけどこれで、彼女が話しかけてくれるかもしれない。
そんな期待に胸が騒めいた。
「イオ君のパパ、超こわいね」
茉莉奈は無邪気にそう言った。
訓練が終わり、教室に移動する時のことだった。失礼な事を言われた気がしたが、わざわざ列からはぐれて話しかけてくれた悦びの方が勝っていた。
「顔は怖いけど、やさしいよ。ヤクザも逃げ出すくらい強いんだ」
猛暑がつづき顎マスクが常態化する中、茉莉奈もまたマスクを顎にかけ、可愛い顔で笑いかけるものだから正義は落ち着かない。
「あと、僕のおじいさんも元警察庁長官なんだ」
勝手に口から言葉が飛び出す。
「ふーん。それって偉い人なの?」
驚いてほしくて言ったことがあまり響かず、正義は肩透かしを食らう。
「日本の警察官の中で、一番偉い人だよ……」
「えっ。すごいすごい! イオ君も将来は警察官になるの?」
手を叩いて喜ぶ茉莉奈に、正義は途端に浮上した。
「まだ決めてないけど、たぶんそう」
「じゃあ怖いことがあったら、イオ君が守ってくれるんだ」
マスクの中に熱い息がこもり、正義も顎にずらした。
鼻の下に掻いた汗を手の甲で拭うと、唾を飲み込んだ。
「……うん。僕が、茉莉奈を守ってあげる」
熱されたグラウンド。
日差しで輪郭がぼやけた茉莉奈が、小指を差し出した。
絡めた指はしっとりと汗ばみ、柔らかかった。




