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17.片方ずつのイヤーポッズ

「人が歌ってるときに部屋を出るのは、マナー違反だと思いまーす」


 五〇三号室の対面の壁に背をつけ、正義はしゃがみこんでいた。

 その右耳から、ふいにイヤーポッズが外された。

 

 目の前には、じと目の茉莉奈。

 正義から取り上げたイヤーポッズを耳にあて、さらに拗ねた顔になる。


「キュースリ聞いてるじゃん。本物以上に可愛い私が歌っているというのに、なぜ」

 

 茉莉奈は衝撃を受けている。

 いつの頃からか、茉莉奈は「自分かわいい」キャラを貫いている。

 本人はギャグのつもりでやってるらしいが、本当に可愛いとギャグにならない。


「ごめん。あの空間、頭悪くなりそうだったから。つい」

「イオ君の頭が悪くなったら私が大変だから、許す」

 

 そう言って正義の隣の壁に、茉莉奈もしゃがみこんだ。


「イオ君」


 茉莉奈の頭が正義の肩に乗る。

 

 心臓の音が、片耳に残るイヤーポッズから流れる能天気なデジタルビートに掻き消される。


「ありがとう。また、約束守ってくれたね」


 眩暈みたいなポップサウンドと、「キュン死させちゃう」というフレーズが、正義の耳を打ち付ける。


 茉莉奈は奪ったイヤーポッズを自分の耳に差し、音楽にあわせて小声で口ずさむ。

 その歌声を聞きながら、正義は泣き出したくなった。


 彼女のたった一言で、すべてが報われてしまう。

 目の奥から込み上げる熱い塊をぎゅっと押し込め、茉莉奈の頭に寄りかかった。


 その時。

 目の前の扉が開いた。

 中から出てきた男の口から、咥えたタバコがぽろりと落ちる。


「お……悪い、邪魔したか」

 

 新見智也。

 張り付けた笑みを浮かべ、乾いた笑いを漏らしながらタバコを拾う。

 正義は男を睨みつけるのを止められなかった。


「青春だな。眩しいねえ」


 ぎくしゃくと妙な歩き方で喫煙所に向かって立ち去る背中。

 ふいに肩の重みが消え、隣の温度が遠ざかる。


「新見さん、どこ行くの?」


 茉莉奈が駆け寄ると新見は小さく息を吐いた。


「一服だよ。着いてきちゃ駄目だ」

「でも新見さんの曲、始まっちゃう」

「茉莉奈ちゃんが勝手に入れたんだろ? 俺、尾崎なんて世代じゃないから歌えないって」


 正義は舌を打つ。

 こいつら刑事はいつまで中学生とカラオケに興じる気だ。


 部屋の中からはすでに別の曲が流れだしており、涼たちによる謎に息の合ったコールが漏れ聞こえる。


「茉莉奈、そろそろお開きにしよう。昨日の今日だ。ご両親も心配するよ」


 立ち上がって茉莉奈を諫める。


「あ……そっか、そうだよね。確かにお父さんもお母さんも、なんか口うるさくなっちゃったんだよね」

「そうだぞ茉莉奈ちゃん。君のお父さんも『厳しく監督する』って言ってたしな。どやされたくなきゃ、もう帰ろう。車出すから」


 新見の〝車〟というワードに茉莉奈が顔を輝かせて頷いた。


「つっても全員は乗れねえな。君ら二人と……あと一人なら乗せてやれるけど」


 勝手に数に含められた正義は釈然としない。

 しかし目の届かないところで茉莉奈と二人になられても困るので、口は挟まなかった。


「なら晴翔も乗せてやってください。あいつの親もうるさいみたいなんで」

「了解。じゃあ俺は一服してくるから、みんなに帰り支度させといてくれ」


 新見の姿がフロアから消えると、茉莉奈が正義に向き直った。


「ね? 新見さん、かっこよかったでしょ?」


 鋭いナイフで胸を突かれる。


「……どの辺が? 茉莉奈、ああいう暑苦しいの苦手だろ」

「新見さんは平気なの。絶対私を傷つけないもん。今回だって守ってくれた」


 ——違う。守ったのは僕だろ。


 正義の胸の奥で、誰に向けているのかも判然としない、行き場のない憎悪が渦を巻いた。


 茉莉奈は残酷だ。

 

 どこまでも無頓着に正義の心をかき乱す。

 彼女は〝安心〟という曖昧な感情さえ得られれば、過程も結果もどうでもいい。


 そして彼女の中には、「ニーミサン」という名の、幼い頃に刻まれた堅牢な要塞がある。

 その前では、正義がどれだけ功を積み重ねても意味を持たない。


 手を伸ばしても、茉莉奈の〝安心〟は自分の手の届かない場所にあるのだ。


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