第三話 「煎じ薬を、捨てる夜」
翌朝、エリーゼは日の出前に起きた。
壺の蓋を開けて、香りを確かめる。問題ない。
(よし)
小さな器に発酵食品をよそった。見た目はただの白いとろとろした食べ物だ。前世で言うヨーグルトに近い。乳酸菌が生きたまま腸まで届くように、温度と酸度を計算して仕込んだ。
盆に載せて、三階へ上がった。扉をノックする。
「……入れ」
昨日より少し、声に力がある。
レオナルドはベッドに半身を起こして、エリーゼを見ていた。その目に昨日とは違うものがある。警戒か、あるいは期待を必死に隠そうとしている何かか。
「持ってきました」
盆を差し出した。
「……これが、腸活とやらか」
「第一歩です」
「見た目は普通だな」
「食べてみてください」
レオナルドが器を手に取った。スプーンで少しすくって、口に運ぶ。
「……酸っぱい」
「発酵しているので」
「不思議な味だ」
「嫌いですか」
「……いや」
もう一口、食べた。
(よし)
エリーゼは密かに拳を握った。
※
問題が起きたのは、昼過ぎだった。
扉をノックする音がした。エリーゼが開けると、白衣の初老の男が立っていた。薄い唇、細い目。手に黒い薬瓶を持っている。
「新しいメイドか」
値踏みするような目だった。
「カーライル家の、エリーゼと申します。昨日からお世話をしています」
「そうか。私は宮廷薬師のドーレン。毎日、レオナルド様の薬を持参している」
男が部屋に入ろうとした。エリーゼはさりげなく一歩横にずれて、通り道を狭くした。
「レオナルド様は今、少しお休みになっています。薬は私が預かります」
「いや、直接お渡しするのが決まりで——」
「では起こしてきます。少々お待ちください」
扉を閉めた。
レオナルドは起きていた。当然だ。声が聞こえていたはずだから。
「宮廷薬師が来ました」
「ああ、そんな時間か……」
「煎じ薬を直接渡したいそうです」
「部屋に通してくれ」
エリーゼはレオナルドをまっすぐ見た。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「その薬を飲んだあと、お腹の調子はどうなりますか」
レオナルドが目を細めた。
「……下痢になる。毎回」
「飲んだあと、身体は楽になりますか」
「……なったことがない」
「飲む前と後で、体調に違いは」
「……飲んだほうが、悪い気がする。ずっとそう思っていた。でも薬師が『好転反応だ』と言うから」
(やっぱり)
あの煎じ薬が善玉菌を殺し続けている。飲めば飲むほど腸内環境が悪化し、体調が崩れる。その悪循環が、十二年間続いてきた。
「レオナルド様」
「何だ」
「あの薬を、今日から飲むのをやめてください」
沈黙。
「……宮廷薬師を、敵に回すことになるぞ」
「かまいません」
「怖くないのか」
「怖いです」
レオナルドが、少し面食らったような顔をした。エリーゼは続けた。
「でも、立ち向かいます。あの薬こそがあなたの腸を壊し続けている元凶です。やめなければ、あなたの身体は永遠にこのままだ」
銀色の目が、エリーゼを見た。昨日より、その奥の揺らぎが大きい。
「……証明できるか。その薬が原因だと」
「一週間やめてみてください。身体がどう変わるか、それが証明です」
「薬師が騒ぎ立てるぞ」
「対応します」
「お前一人でか」
「はい」
レオナルドは静かに息を吐いた。
「……わかった。やめる」
※
廊下に戻ると、ドーレンはまだそこにいた。薬瓶を手に、じっと立っている。
「お待たせしました。レオナルド様からの伝言です」
「なんだ」
「今日から薬は不要とのことです」
ドーレンの目が、細くなった。
「……なんだと」
「ご本人の意思です」
「あの方は病人だ。自分で判断できる状態では——」
「判断されました」
穏やかに、でも一歩も引かない笑顔で言った。
「何かご不満があれば、レオナルド様に直接おっしゃってください。私はただ、伝言をお伝えしただけですので」
ドーレンの目に、初めて別の感情が混じった。警戒だ。
「……お前、名前は」
「エリーゼ・カーライルです」
「スキルは」
「腸内鑑定です」
鼻で笑われた。
「役立たずスキルの小娘が、宮廷薬師の処方に口を出すか」
「口は出していません。レオナルド様の意思をお伝えしただけです」
「覚えておけ。長く働きたければ、余計なことはするな」
踵を返した。足音が石畳に響いて、遠ざかって、消えた。
エリーゼは扉に背をもたせかけて、長く息を吐いた。
(宣戦布告、完了)
膝が少しだけ震えている。怖くないと言ったのは嘘だ。本当は怖い。
でも。
(腸内鑑定は、正しいと言っている)
壁から背中を離して、姿勢を正した。
※
その夜から、レオナルドの身体が変わり始めた。
穏やかなものではなかった。
二日目の夜、レオナルドが激しく震えた。
「寒い……」
「毛布をもう一枚持ってきます」
「頭が……痛い」
「これは離脱反応です。薬への依存から、身体が抜け出そうとしています」
「……どれくらい続く」
「三日間がピークです。その後は楽になります」
レオナルドが苦しそうに目を閉じた。エリーゼは冷たいタオルを絞って、額に当てた。
「眠れそうですか」
「……眠れない」
「では話しましょう。気が紛れます」
「何を話す」
「あなたが聞きたいことを」
しばらく、天井を見ていた。
「……ここに来た本当の理由は」
エリーゼは熱くなったタオルを水に浸しながら、答えた。
「お金のためではありません」
「……だろうな。でなければこんな無謀なことはしない」
「あなたの腸を治したいからです」
「なぜ、私を」
他人か。確かに、そうかもしれない。でも——
「重なって見えるんです。前世で助けられなかった人と」
レオナルドの目が、少し見開いた。
「前世?」
「転生という概念は、ありますか」
「……おとぎ話では聞く」
「私は転生者なんです。前の世界で、大切な人の病気に気づくのが遅れた。治せたかもしれなかったのに、間に合わなかった」
膝の上で手を組んだ。
「だからここで、また間に合わなかったなんてことには——絶対になりたくない」
しばらく、二人とも黙っていた。蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れる。
「……お前は変な奴だな」
「よく言われます」
「宮廷薬師を敵に回して、転生者で、腸活をする令嬢か」
「褒め言葉として受け取っておきます」
レオナルドが短く息を吐いた。
笑った、のかもしれない。ほんの少し。ほんの微かに。
(笑った。初めて)
エリーゼは心の中で小さくガッツポーズをした。
(セロトニン、動き始めてる)




