③
「こちらが、令息様のお住まいです」
公爵家の屋敷は、想像より大きかった。
でもエリーゼが案内されたのは、屋敷の本棟ではなく、庭の奥。鬱蒼と茂った木々の向こうに建つ、古い石造りの塔。
案内の侍従が、平坦な声で言った。感情がない。それがこの塔の日常を物語っている気がした。
「令息様は……三階に」
「わかりました」
エリーゼは壺を抱えたまま、石段を上った。
一段、また一段。螺旋状の階段を上るたびに、空気が変わる気がする。湿って、重くて、どこか閉じた空気。
(ここに令息はずっといるのかな。……鬱蒼としてて、あまりいい感じがしないわね)
三階の扉の前に立った。
ノックをするが、返事がない。もう一度、今度はさらに力を入れてノックした。
「……入れ」
低い声だった。子どもの声とは思えないほど、感情が削ぎ落とされた声。
エリーゼは扉を開けた。
カーテンが閉まる薄暗い部屋。その奥に大きなベッドがあり、少年が横たわっている。
その少年を見て、エリーゼは息を呑んだ。
蒼白な肌。落ちくぼんだ頬。ベッドに沈み込むような、薄い身体。まるで、ここ数年で少しずつ削られてきたような——。
でも、目だけが違った。
銀色の目が、エリーゼを見ている。冷たくて、鋭くて、でもその奥に、何か燻るものがある目。
「……また来たのか。メイドが」
少年——レオナルドが言った。
「何人目だ。三ヶ月で四人か。今度は何日持つ」
「一生持ちます」
エリーゼは言った。
レオナルドが目を細める。
「大きなことを言う」
「事実を言っています」
エリーゼは部屋の中を見回した。
窓は完全に閉じられている。外の空気が入ってこない。床は石畳で、土の気配がない。植物も、動物も、何もない。完全に、外の世界から切り離された空間。
(最悪だ。菌が全然いない。これじゃ多様性のかけらもない)
エリーゼは壺を床に置いた。そして——スキルを発動した。
視界に、数値が浮かぶ。
【腸内鑑定 発動中】
対象:レオナルド・ヴァルディシア(12歳)
▼腸内フローラ状態
乳児型ビフィズス菌 ◾️0%(絶滅)
酪酸産生菌 ◾️0%(絶滅)
乳酸菌 ◾️1%(瀕死)
日和見病原菌 ◾️◾️◾️◾️◾️◾️79%(暴走)
院内常在菌 ◾️◾️◾️20%(定着)
▼多様性スコア 47種
▼健康児平均 1,000種
▼総合診断
〝崩壊型ディスバイオシス〟
自力回復:不可能
推定原因:帝王切開・母乳未摂取・長期抗生物質投与・完全隔離環境
(……)
エリーゼは、しばらく動けなかった。
(生きてるのが、奇跡だ。この数値で、十二年間生きてきた。この子は、十二年間ずっとこの状態で……)
胸の奥が、じわりと痛んだ。
前世の記憶が重なる。腸が壊れていくのを止められなかった、あの日の父。間に合わなかった後悔。
(今度は——間に合わせる)
「何を見ている」
レオナルドが言った。
「あなたの腸内を、鑑定していました」
沈黙。
「……腸内鑑定、とかいうスキルか。役立たずの」
「役立たずではありません」
エリーゼは顔を上げた。
「あなたの病の原因が、わかりました」
レオナルドの目が、かすかに動いた。
「……呪いではないと?」
「呪いではありません」
きっぱりと言った。
「あなたの腸内フローラが、崩壊しています。生まれたときから、必要な菌が一度も入ってこなかった。さらに、薬で善玉菌が根こそぎ殺されてきた。だから身体が弱い。免疫が作れないから」
レオナルドが、ゆっくりと半身を起こした。
「……腸内フローラ。それが原因だと?」
「そうです」
「……治せるのか」
エリーゼは一秒だけ考えた。
嘘はつかない。でも、希望も見捨てない。
「時間はかかります。一週間では無理。一ヶ月でも、まだ道半ば。でも——」
エリーゼはまっすぐに、レオナルドの銀色の目を見た。
「必ず、治します。一年で起き上がれるように。三年で剣を握れるように。五年で——」
(あなたを救えるように)
「五年で、あなたが望む場所に立てるように」
レオナルドが、長い間エリーゼを見ていた。
その目に、何かが揺れた。ほんの少しだけ。雪解けの直前の、氷のような、揺らぎ。
「……信じる理由が、ない」
「あります」
「何だ」
「私は今日、ここに来る前に、発酵食品を仕込んできました」
エリーゼは壺を指差した。
「明日の朝、これをお出しします。それを食べて、一週間後に自分の身体がどう変わるか、確かめてみてください」
「……食べなかったら?」
「食べてください」
エリーゼは笑った。
「美味しいですよ。ちゃんと」
※※※
その夜、エリーゼは塔の一番下の小部屋に、壺を並べながら考えた。
ここから始まる。
十二年間、誰にも治せなかった病。宮廷医が匙を投げた呪い。でもその正体は、腸内環境の崩壊だ。
治せる。絶対に。
(最初の一週間が、全部を決める)
エリーゼは壺の蓋をそっと開けた。発酵の香りがふわりと漂う。乳酸菌が、今この瞬間も生きて、働いている。
(頼むよ、みんな。あの子の腸を、救ってあげて)
小部屋の壁越しに、塔の最上階を見上げた。
あの冷たい銀色の目が、脳裏に浮かぶ。
(あなたは呪われていない。ただ、必要な菌が足りなかっただけ。それを、私が持ってきた)
エリーゼは壺の蓋を閉めた。
明日から、戦いが始まる。




