第一話「腸内鑑定、はじめます」
肌を突き刺すような寒さに震えて、目を覚ました。
「おぎゃー!おぎゃー!」
近くで赤ちゃんの声が聞こえる。自分の泣き声だと気づくまでに、しばらくかかった。
(……あれ、ここ、どこだっけ?)
意識が浮上してきて、私は視線を周囲に巡らせる。
ぼんやりとかすれていても分かる景色の違い。
視界に映ったのは、見なれた鉄製の机でも、コンクリートとガラスで出来た壁でも、白く無機質で眩しい天井でもなかった。
「####」
意識の遠くで聞こえる声は、聞いたことのない母音の羅列をしていた。
——必死に状況を整理しようとしたが、身体が言うことを聞かない。手も足も、思うように動かせない。視界はぼやけて、何もかもが巨大に見える。
泣いている。その感覚はある。止めようとしても止まらない。
(……赤ちゃん? 私、赤ちゃんになってる?)
そのとき、大きな手が凛を包んだ。温かくて、少し荒れた、働き者の手。
「エリーゼ。エリーゼ、よかった……!」
泣いているのは自分だけではなかった。抱き上げてくれた人を見ると、その人も涙を流している。
父親だ、と本能が告げた。茶色い髪の、眼鏡をかけた細身の男性。
「生きてる。生きてるぞ、エリーゼ……!」
(エリーゼ。それが、私の名前……?)
凛は——エリーゼは、泣きながら思った。転生だ。気絶するほど驚くべき事態のはずなのに、妙に冷静な自分がいる。たぶん、死の直前まで企画書と格闘していた社会人根性が、パニックを上書きしているのだと思った。夢でも見ているのだろうか。
まとまらない思考のまま、凛は部屋の天井を見上げる。石造りの、古い天井。窓の外から差し込む光は、柔らかいオレンジ色だ。電灯ではない。蝋燭か、あるいは魔法か。
(最近、異世界転生もののアニメを見たからかな?かなりリアルだ……)
そのとき、不思議なことが起きた。
視界の端に、何かが浮かび上がった。文字のようなもの。いや、数値のようなもの。ぼんやりとした光の粒が集まって、表のような形を作っている。
【腸内鑑定 発動中】
対象:エリーゼ・カーライル(生後3ヶ月)
▼腸内フローラ状態
乳児型ビフィズス菌 □ 2%
乳酸菌 □ 1%
悪玉菌 □□□□□□□□□ 87%
日和見菌 □□ 10%
▼多様性スコア 12種
▼総合診断 〝崩壊寸前〟
(……え?)
やけにリアルで、そして嫌な数字だ。
(これは、この赤ちゃんの腸内環境?……夢にまで腸活がでてくるなんて、流石私……)
その時、ピトっと熱いものがおでこに触れた。カサカサとした大きい手だ。
「また熱が……医者を呼んだほうが」
父親であろう男性がそう呟く。
エリーゼは、すべてを理解した。
(この感触、この身体の不快感、夢じゃない。現実だ)
「大丈夫です、旦那様。まだ様子をみましょう。それより、起きているうちにミルクをやらないと……」
男性の隣にいた女性がそう言って、母乳瓶を手に持った。母親だと本能が言っている。
(……んむ、何これ、薄い。それに獣臭い……。牛乳じゃない、何かのミルク?)
口に突っ込まれたものを反射で吸った私は、あまりの不味さに思わず口を離した。
「……あら、ちょっと日が経ってるから不味かったかしら」
「今日はヤギのミルクが取れなかったからな……。何とかこれで栄養を取ってもらわないと。……ほら、エリーゼ。美味しいからもう一回飲んでごらん」
「……ああ、また泣きはじめちゃったわね。母乳がでないと、こういうとき不便だわ……」
どうやらこの母親は母乳がでないらしい。ヤギのミルクで育てているようだ。
(……母乳じゃない。しかも日の経ったヤギのミルクなんて……)
先ほどの腸内フローラの数値は、きっとこの身体のものだろう。
悪玉菌87%だなんて、免疫力が低下している最悪な状態だ。通常、母乳によってビフィズス菌など、免疫に必要な乳酸菌をもらうのだが、この身体はそれが得られていない。
(乳児型の菌がほぼゼロ。これじゃ免疫も作れない。悪玉菌が暴れ放題な状態で、追い討ちをかける不衛生さ……そりゃ死にかけるわ)
そう思った瞬間、前世で読み漁った論文が、脳裏を駆け巡った。母乳に含まれるヒトミルクオリゴ糖が、乳児の腸内でビフィズス菌を優勢にする。それがなければ、善玉菌は定着できない。免疫は作られない。ちょっとした感染でも、命取りになる。
(なんとかこの身体を改善しないと……)
さっきからずっと身体が重い。不快だ。これが永遠に続くのは嫌すぎる。
(よし、とりあえずできることをやってみよう。腸活にハマって色々と調べてたから、なんとなく知識はある……)
エリーゼは小さな手を握りしめた。まだ上手く動かせないけれど、指先だけはなんとか動く。
(菌を取り込めそうなところ……あった)
意思を固めたことで、エリーゼは自然と泣き止んだ。父親が驚いたように顔を覗き込む。
「エリーゼ?泣き止んだぞ。よかった、少し楽になったか……?」
エリーゼは父親の顔をじっと見た。目標に狙いを定める。そして、手に力を入れると、父親の口元に、じわじわと手を伸ばした。
「おお、どうした?お父さんの顔が気になるか?」
父親が微笑む。エリーゼはその口元に、自分の小さな手を押し当てた。そして——舐めた。
「……え?」
母親が固まった。父親も固まった。
(口腔内常在菌、ゲット。ありがとうお父さん)
エリーゼは満足して、また泣き始めた。赤ちゃんなので、泣くことしかできないが、内心は至って冷静だ。
(よし。この調子で腸内環境、ひっくり返してやる!)




