第四話「骨スープと、初めての笑顔」
厨房は、まだ誰もいなかった。
夜明け前の台所は、石造りの壁に囲まれてしんと静まり返っている。エリーゼは慣れた手つきで火を熾した。鍋を出し、水を張る。
そして、骨を取り出した。
昨日のうちに料理長に頼んで確保しておいたものだ。「令息様のために使うかもしれない」とだけ伝えた。料理長は不思議そうな顔をしていたが、断らなかった。
(グルタミン。コラーゲン。ミネラル。骨をじっくり煮込むと、腸壁の修復に必要な栄養素が全部溶け出す)
鍋に骨を入れて、水から火にかける。最初は強火。灰汁が出てきたら丁寧に取る。そこから弱火でじっくりと。
待つ時間が、一番大事だ。
(腸活は、急いだ方が負けだ)
前世でも、ぬか床がそれを教えてくれた。毎日少しずつ。急いでも、菌は育たない。
火加減を調整しながら、スープの色が変わっていくのを見ていた。透明だった水が、少しずつ白く濁ってくる。骨の中から、成分が溶け出している。
香りが立ち始めた。
やわらかくて、温かくて、どこか懐かしい香り。前世の台所を思い出す。休日の朝、一人でスープを仕込んでいたあの時間。
(凛として生きていた頃も、こういう時間が一番好きだったな)
沸騰させないように、注意深く火を保つ。
一時間後、スープが完成した。塩を少し。それだけでいい。腸が弱っているときは、シンプルが一番だ。
器によそって盆に載せた。湯気が細く立ち上る。
(冷めないうちに)
石段を上った。三階の扉をノックする。
「入れ」
レオナルドは半身を起こしていた。三日間の離脱反応を乗り越えた顔は、まだ青白い。でも目の焦点がしっかりしている。昨日までの朦朧とした様子が、消えていた。
「持ってきました」
盆をベッドサイドの小卓に置いた。
レオナルドが器を覗き込む。
「……白いな」
「骨のスープです。シンプルですが、今のあなたの腸には、これが一番いいです」
「骨か」
「牛の骨を一時間煮込みました。腸壁を修復する栄養素が溶け出しています」
「腸壁を、修復する」
「はい。三日間の離脱反応で腸はかなり消耗しています。まず壁を整えないと、善玉菌が定着できません」
レオナルドがスプーンを手に取った。すくって、口に運ぶ。
「……温かい」
「はい」
「腹に……染みる」
「はい」
「美味い」
(よし)
内心で飛び上がった。表情は動かさなかった。でも胸の中で、盛大にガッツポーズをした。
「そうですか。よかったです」
「……なぜ目が潤んでいる」
「潤んでいません」
「潤んでいる」
「気のせいです。続きをどうぞ」
レオナルドが、また一口飲んだ。それからもう一口。スプーンを動かすたびに、少しずつ姿勢がよくなっていく気がする。
(腸が温まると、副交感神経が優位になる。全身の力が抜けて、リラックスできる。セロトニンの分泌が促される)
器が半分になったとき、レオナルドがふと手を止めた。
「……エリーゼ」
「はい」
「お前は、食べたか」
一瞬、言葉に詰まった。
「……徹夜でしたので、まだ」
「作ってこい」
「え?」
「自分の分も作ってこい。ここで食べろ」
レオナルドは器を持ったまま、窓の外を見ていた。横顔に、夜明けの光が差し込んでいる。蒼白な頬に、ほんの少しだけ、赤みが戻っている。
「……レオナルド様がそこまでおっしゃるなら」
「ああ。行け」
「はい」
エリーゼは厨房へ戻った。そして、自分の分のスープをよそう。
(レオナルド様、心配してくれた。腸内フローラが回復してきた証拠だ。セロトニンが出始めると、人への関心が戻ってくる。これは医学的に正しい変化で——)
手が止まった。
(……いや。それだけじゃない。あの人はもともと、そういう人なんだと思う。十二年間、腸内環境が壊滅していて、それでも。心の奥に、ちゃんと持っていたんだ)
器を持って、三階へ戻った。
レオナルドはスープを飲み終えて、窓の外を見ていた。
エリーゼは部屋の隅に腰を下ろして、自分のスープを飲み始めた。
二人で、しばらく黙っていた。夜明けの光が、少しずつ部屋に入ってくる。
「……外が、明るい」
レオナルドが呟いた。
「夜明けですね」
「カーテンを、開けていいか」
驚いた。
「もちろんです。レオナルド様のお部屋ですから」
「ずっと、閉めていた。光が眩しくて。頭が痛かったから」
「今は?」
「……今日は、大丈夫な気がする」
レオナルドがカーテンに手を伸ばした。指先でつまんで、そっと引く。
朝の光が、一気に部屋に満ちた。
眩しさに、レオナルドが目を細めた。しばらくそのまま、窓の外を見ていた。
エリーゼは、その横顔を見た。
光の中のレオナルドは、さっきとは少し違って見えた。蒼白な肌も、薄い輪郭も、同じなのに。
(あ)
エリーゼは視線を、自分のスープに戻した。
(きれいだな、と思っただけだ。医学的に、光を浴びることでセロトニンの分泌が促されて、表情が柔らかくなる。それを見て、きれいだと思っただけ。腸活の成果を確認しただけ。それだけだ)
「……エリーゼ」
「はい」
「外に、出たことがない」
静かな告白だった。
「生まれてから、ずっとここだ。庭にも、出たことがない」
「……十二年間、ずっと?」
「呪いが移ると言われていた。外の者に触れると、相手が死ぬと」
(そんな馬鹿な)
怒りを、静かに呑み込んだ。怒る相手は今ここにいない。今怒っても、意味がない。
「移りません」
「わかっている。今は」
「では、いつか——外に出ましょう」
レオナルドが、エリーゼを見た。
「外、か」
「庭があります。土があります。草があります。光があります。全部、あなたの腸活に必要なものです」
「腸活のために、外へ出るのか」
「腸活のためでも、なんでも。外の空気は美味しいですよ」
レオナルドが、窓の外を見た。庭の木々が、朝日に照らされている。風に揺れる葉が、光を散らしていた。
「……美味しいか」
「美味しいです。私は毎朝、庭で深呼吸しています」
「お前は変な奴だな」
「よく言われます」
また沈黙。でも今度の沈黙は、重くない。むしろ、温かかった。
「エリーゼ」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「なんでも」
「腸活というのは——楽しいか」
少し驚いた。そんなことを聞かれると思っていなかった。
「楽しいです」
「なぜ」
「生き物を育てているからです。腸内の菌は、全部生きています。毎日少しずつ変わります。今日より明日、明日より明後日、少しずつ良くなっていく。その変化を見るのが、好きです」
「……変化を、見る」
「あなたの腸内も、昨日より今日の方が、確実に良くなっています」
「鑑定で見えるのか」
「はい」
スキルを発動した。数値が浮かぶ。
【腸内鑑定 発動中】
対象:レオナルド・ヴァルディシア(12歳・治療4日目)
▼腸内フローラ状態
乳酸菌 □□8%(増加中)
日和見病原菌 □□□□□72%(減少中)
院内常在菌 □□□20%
▼多様性スコア:47種→53種
▼総合診断 〝浄化期・開始〟
(少しだけど、確実に変わってる)
「まだまだですが、動き始めています。乳酸菌が少し増えました。多様性も上がっています」
「それは……いいことか」
「とてもいいことです」
レオナルドが、窓の外を見たまま言った。
「……そうか」
その声に、ほんの少しだけ、温度があった。昨日まではなかった温度だ。
(セロトニンが、出てる。ちゃんと、出てる)
エリーゼはスープの最後の一口を飲んだ。温かくて、やわらかくて、じんわりと身体に染みた。
※
その日の午後、宮廷薬師のドーレンが、公爵を連れてやってきた。
五十代の、がっしりとした体格の男。グラントル公爵。レオナルドを預かっている、この屋敷の主だ。眉間に深い皺が刻まれている。
「レオナルドの薬を断ったというのは、本当か」
公爵がエリーゼを見た。
「はい。レオナルド様のご意思です」
「メイドが、宮廷薬師の処方に口を出したというのも本当か」
「口は出していません。レオナルド様が自分でお決めになりました」
「詭弁を」
ドーレンが割り込んだ。
「レオナルド様は病人だ。正常な判断ができる状態ではない。このメイドが吹き込んだのは明らかで——」
「レオナルド様に直接お聞きください」
まっすぐドーレンを見た。
「私の言葉を信じていただかなくて構いません。でもレオナルド様は今、三階においでです。直接ご確認いただければ」
公爵とドーレンが顔を見合わせた。
公爵が、重い足取りで石段を上り始めた。ドーレンが続く。エリーゼも後に従った。
三階の扉を、公爵がノックした。
「レオナルド。私だ。入るぞ」
返事を待たずに、扉が開いた。
公爵が中に入って——止まった。
レオナルドがベッドに座って、窓の外を見ていた。カーテンが開いていた。朝日の中、薄い横顔に光が当たっている。
「……レオナルド」
公爵の声が、微かに変わった。
「顔色が、いいな」
レオナルドが公爵を見た。
「はい。薬をやめたおかけで」
「このメイドが何か言ったのか」
「……知恵は借りましたが、辞めたのは私の意思です」
ドーレンが進み出た。
「レオナルド様、しかし長年の処方を急に断てば、身体に——」
「三日間、断った。今日の方が楽だ」
沈黙。
「十二年間飲み続けて、一度も楽にならなかった。でも薬を断った今は調子がいい。どちらが正しいか、子どもでもわかる」
「エリーゼ」
レオナルドがエリーゼを見た。
「今の私の腸内の状態を、説明してくれ」
一歩前に出た。
「昨日と比較します。乳酸菌が三パーセントから八パーセントに増加。多様性スコアが四十七から五十三に向上。日和見病原菌が七十九パーセントから七十二パーセントに減少。薬をやめて四日目で、確実に改善しています」
「どうやって測った」
「腸内鑑定のスキルで」
「そんなスキルが——」
「あります」
ドーレンをまっすぐ見た。
「数値で示せます。信じてもらえなくて構いません。でもレオナルド様のお身体が答えを出しています」
公爵が、しばらく黙っていた。それからレオナルドを見て、エリーゼを見て、もう一度レオナルドを見た。
「……わかった。一ヶ月、様子を見る」
「公爵様」
ドーレンが声を上げた。
「一ヶ月だ。その間に改善が見られなければ、元の処方に戻す。それでいいか、エリーゼとやら」
「十分です」
深く頭を下げた。
(一ヶ月。絶対に、元気にしてみせる)
※
その夜。
全員が去って、塔が静かになった頃。
夕食の盆を持って三階へ上がると、レオナルドが窓際に立っていた。
ベッドから出て、自分で立っていた。
思わず立ち止まった。
「……立てるんですか」
「なんとか」
足元が少し覚束ない。でも立っている。自分の力で。
「無理をしないでください」
「無理ではない」
レオナルドが窓の外を見た。夜の庭。月の光に照らされた木々。
「エリーゼ」
「はい」
「外に出るのは、夜の方がいいか。昼は人目があるから」
一瞬、言葉が出なかった。
「……外に、出たいんですか」
「土を踏んでみたい」
レオナルドが、静かに言った。
「腸活のためでも、なんでも。お前が言っていた——外の空気は美味しいというのを、確かめたい」
(覚えていてくれた)
胸に、じわりと温かいものが広がった。
「では今夜。月が出ています。人も夜なら来ません」
「……今夜か」
「足元は私が支えます。少しだけでいいです」
レオナルドが、エリーゼを見た。銀色の目が、月の光を映している。
「……頼む」
※
深夜の庭。
エリーゼはレオナルドの腕を支えながら、石段をゆっくりと下りた。一段ずつ。焦らず、急がず。
地面に、足が着いた。
レオナルドが止まった。
エリーゼも止まった。
レオナルドが、ゆっくりと視線を落とした。土の上に立っている、自分の足を。
「……土だ」
「はい」
「冷たい」
「夜ですから」
「だが……」
レオナルドが膝をついた。エリーゼが支えようとすると、首を横に振った。自分で、土の上に膝をついた。
手を伸ばして、土を掴んだ。
指の間から、黒い土がこぼれた。
「……エリーゼ」
「はい」
「これが、菌の住処か」
「そうです。土の中には、無数の菌が生きています。今あなたが触れている土にも、何千種類もの菌が」
「見えるか。鑑定で」
「うっすらと。光って見えます。小さな点が、無数に」
「……そうか」
レオナルドが、土を握りしめた。
月の光の下、その横顔を見て、エリーゼは気づいた。
レオナルドの目から、何かがこぼれていた。
声も出さず、表情も変えず。ただ静かに、涙が流れていた。
(泣いてる)
何も言わなかった。
隣にしゃがんで、同じように土を掴んだ。
しばらく、二人で月の光の中にいた。
やがてレオナルドが、静かに言った。
「……美味しいか。外の空気は」
「美味しいです」
「……そうだな」
レオナルドが、深く息を吸った。
夜の空気が、肺に入る。土の匂い。草の匂い。月の匂い。
そのとき、視界に数値が浮かんだ。
【腸内鑑定 自動発動】
対象:レオナルド・ヴァルディシア
▼リアルタイム変化を検知
土壌菌の取り込みを確認
多様性スコア:53種→61種
副交感神経:活性化
セロトニン分泌:微量ながら検知
▼コメント
〝初めて、外の菌と出会っています〟
(よかった)
数値を消した。
今は数値じゃない。
(今は、ただこの時間が大切だ)
「レオナルド様」
「何だ」
「これが、腸活の始まりです」
レオナルドが、エリーゼを見た。月の光の中で、銀色の目が濡れている。それでも、その目に——初めて見る光があった。微かで、小さくて、でも確かな光。
「……始まり、か」
「はい。ここから始まります。全部」
レオナルドが、もう一度空を見上げた。星が、出ていた。
「……悪くない」
それが、レオナルドの、初めての笑顔だった。




