第五話「庭の奇行と、宮廷薬師の逆襲」
翌朝、レオナルドが言った。
「また、行きたい」
エリーゼの盆を置く手が止まった。
「庭に、ですか」
「ああ。昨夜、帰ってからよく眠れた」
十二年間、まともに眠れていなかったのかもしれない。土に触れて、外の空気を吸って、副交感神経が動き出したようだ。
「よかったです」
「人目がないのは夜だが……」
レオナルドが窓の外を見た。
「昼の庭も、見てみたいな」
恐らく、レオナルドは「呪われている」と言われる自分が外に出て人に会うことで、騒がれるのを恐れているのだろう。
だが、エリーゼにしてみれば感染するようなものではないし、気にする必要はないと思っている。
「行きましょう」
「……いいのか。皆、私に会うのを恐れる」
「堂々と行けばいいんです。別に感染するようなものではないですし。後ろめたいことは何もありません」
レオナルドが、わずかに目を細めた。
「……お前は、度胸があるな」
「胃腸が丈夫なので」
「それは関係あるのか」
「腸と脳は関連してるんです。腸活が元気だと、心も元気になるんですよ」
エリーゼがそう言うと、レオナルドは短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
※
昼前、エリーゼはレオナルドを連れて庭に出た。
ゆっくりと、一歩ずつ大地を踏み締めるようにレオナルドが歩く。
庭に出ると、それを見た使用人たちが一斉に固まった。無理もない。レオナルドが外に出るのを、誰も見たことがないのだ。
「レオナルド様の治療の時間です。邪魔のないよう、お願いします」
エリーゼはその場を制するように平然と言った。誰も動けなかった。
レオナルドを庭の中心まで連れて行った。
「まず、土を素手で触ってください。昨夜と同じように」
「……昼は、気恥ずかしいな」
「大丈夫です。腸活です」
「腸活なら仕方ないか」
レオナルドがしゃがんで、土に手を触れた。
遠巻きに見ていた使用人たちが、ざわめく。
「レオナルド様が……」
「土を……?」
「呪いは大丈夫なのか」
(本当に呪いにかかっているのであれば、1番近くにいる私は既にかかっているだろうに……)
怯えている使用人たちに呆れながらも、エリーゼはレオナルドの歩行をサポートした。
「次です」
庭の隅に生えていた草を指差した。
「あの葉を、ちぎってください」
「……ちぎる?……こうか?」
恐る恐る草の葉をちぎったレオナルドに、エリーゼは頷く。
「そうです。そしたら、それを食べてください」
「……は?食べるのか?……雑草を?」
「はい、少しだけ。食物繊維を摂取します」
「昨日の夕食でも野菜をたくさん食べたが」
「それは善玉菌のエサです。これはまた別の種類の繊維で——説明は長くなるので、とりあえず食べてください」
「……お前の『とりあえず食べてください』は信用していいのか」
「これまで外れましたか」
「……ない」
「では」
レオナルドが草をちぎって、口に入れた。
「……苦い」
「はい」
口をもぐもぐさせながら、レオナルドはエリーゼを見て目を細めた。
「なぜ嬉しそうなんだ」
「嬉しいからです」
使用人たちのざわめきが、さらに大きくなった。
(一ヶ月後が楽しみだ)
※
問題は、午後に起きた。
ドーレンが来た。いつもより早い時間に。それも複数人の仲間を連れて。
彼の後ろにいる三人の男を見て、エリーゼに緊張が走る。がっしりとした体格の、見慣れない顔。宮廷薬師の助手にしては、物々しすぎた。
「レオナルド様のご様子を確認に参りました」
そう言うドーランの顔は、昨日よりずっと滑らかな笑顔だ。
(嫌な予感がする)
「レオナルド様は今、庭でお休みです。後ほど——」
「いえ、今すぐ」
ドーレンが扉を開けようとする。エリーゼは一歩前に出た。
「レオナルド様のお部屋への立ち入りは、レオナルド様の許可が必要です」
「私は十二年間、毎日この部屋に入っていた」
「公爵様から一ヶ月の猶予をいただいている間は、私の判断で対応します」
「公爵様の許可は、私もいただいた」
目を細めた。
「……どのような許可を」
「レオナルド様の健康状態が著しく悪化した場合、即座に処方を再開する権限を。昨夜、改めてお話しして」
(何でそこまで……)
ドーランは一枚上手だった。「著しく悪化した場合」という条件をつけた。悪化したと判断するのは、ドーレン自身だ。
「レオナルド様を呼んでまいります。少々お待ちください」
庭に走った。
レオナルドは木陰に座っていた。昼の光の中、目を細めて空を見上げている。昨日より、ずっと自然な姿勢で。
「レオナルド様。ドーレンが来ました。後ろに三人連れています」
レオナルドの目が、すっと鋭くなった。
「……強制連行か」
「おそらく。『著しく悪化した場合の処方再開権限』を公爵から得たと言っています」
「悪化していない」
「していません。でもドーレンが悪化したと言えば——」
「言わせない」
立ち上がった。昨日より、足取りがしっかりしている。
「行こう」
※
塔の入口で、ドーレンと向き合った。三人の男が後ろに控えている。
「レオナルド様。ご様子をお確かめしたく——」
「悪化していない」
レオナルドが言った。
「今、私は自分で立っている。庭まで歩けた。夜も眠れるし、腹も空く。これのどこが悪化している」
「しかし医学的な観点から——」
「エリーゼ」
「はい」
「今の私の状態を説明してくれ」
スキルを発動した。
【腸内鑑定 発動中】
対象:レオナルド・ヴァルディシア(治療5日目)
▼腸内フローラ状態
乳酸菌 □□9%(増加継続)
土壌菌 □□ 4%(新規定着)
日和見病原菌 ◾️◾️◾️69%(減少継続)
▼多様性スコア:61種(治療前47種)
▼睡眠の質:改善
▼食欲:回復
▼総合診断:〝改善進行中〟
「治療五日目の現状です。乳酸菌が三パーセントから九パーセントに増加。昨日の土壌菌との接触で、新たに四パーセントが定着しました。多様性スコアは四十七から六十一に向上。日和見病原菌は七十九から六十九パーセントに減少継続中。睡眠の質が改善し、食欲が回復しています」
ドーレンを見た。
「どこが悪化していますか」
ドーレンの笑顔が、わずかに固まった。
「腸内鑑定とやらの数値は、客観的な証拠に——」
「診察は結構です」
レオナルドが言った。
「私の身体は私が判断する。あなたの診察は、十二年間、一度も私を良くしなかった」
「それは——」
「エリーゼの腸活は、五日で私を庭に連れ出した」
静かな声だった。でもその静けさの中に、十二年分の何かが含まれていた。
「比較するまでもない」
ドーレンが後ろの三人に目配せをした。三人が一歩、前に出た。
エリーゼは動かなかった。レオナルドの前に、半歩だけ出た。
(力で来るつもりか)
「ドーレン様」
穏やかに言った。
「レオナルド様を無理やり連れていくおつもりなら、私は止めません」
「……ほう」
「ただ、その場合は公爵様にご報告します。レオナルド様ご自身の意思に反して、強制的に処方を再開したと。そしてその記録を、この一週間分の腸内鑑定の数値とともに」
ドーレンの笑顔が、消えた。
「記録……?」
「毎日の数値を記録しています。治療前と治療後の比較が、数字で出ています。強制再開後にレオナルド様の状態が悪化すれば——原因も、数字で証明できます」
(前世で学んだ。データは武器だ。感情じゃなく、数字で戦う)
沈黙が降りた。
ドーレンが、長い間エリーゼを見ていた。その目に、警戒とは違う何かがあった。
(この人、怖いんだ。数字で証明されることが)
(何かを、隠している)
「……今日は引き上げる」
笑顔は戻らなかった。
「ただし、レオナルド様の状態は引き続き注視する」
「ご自由に」
頭を下げた。
ドーレンが踵を返した。三人の男が続いた。足音が遠ざかり、消えた。
※
二人になった。
レオナルドが、エリーゼを見た。
「……前に出た」
「え?」
「私の前に、半歩出た。庇うように」
「……ええ。半ば無意識でしたが」
「なぜ」
「なぜ、とは?」
「なぜ庇う。お前はメイドだ。私の盾になる義務はない」
その目が、真剣だった。からかっているのではない。本当に、わからないのだ。誰かに庇われることが、この少年には——わからない。
(十二年間、誰も庇ってくれなかったから)
「義務じゃないです」
「じゃあ、なぜ」
「レオナルド様の治療が、まだ途中だからです」
レオナルドが、少し目を細めた。
「腸活のためか」
「腸活のためでも、なんでも」
微笑んだ。
「途中で終わらせたくないんです。間に合わなかった後悔は、もうごめんなので」
沈黙。
レオナルドが視線を逸らした。庭の木々を見た。
「……エリーゼ」
「はい」
「ドーレンは、何かを隠している」
驚いた。
「……気づいていましたか」
「あの男は今日、私の状態を確認しに来たのではない。何かを確認しに来た」
(腸内環境が邪魔をしていただけで、もともとこの人は聡明だったんだ)
「私も、そう思います。記録を、もっと詳細につけておきます。何かあったとき、証拠になるように」
「頼む」
木漏れ日が、地面に模様を作っている。風が吹くたびに、その模様が揺れる。
「エリーゼ」
「はい」
「今日の夕食は、何だ」
エリーゼは笑いをこらえた。
「発酵野菜のスープと、焼いた魚です。腸壁の修復に——」
「楽しみにしている」
レオナルドはそれだけ言って、歩き始めた。塔の入口へ向かって。
その背中を、エリーゼは見ていた。
(楽しみにしている、か)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(今日は少し、手をかけよう)
※
夕食を作りに厨房へ向かいながら、考えた。
ドーレンが何かを隠している。
十二年間の処方。善玉菌を殺し続けた煎じ薬。医療ミスにしては長すぎる。無知にしては、宮廷薬師という肩書きがある。
(意図的だったとしたら)
その夜、記録をつけながらも、その考えが頭から離れなかった。
(意図的に、レオナルド様の腸を壊し続けた。それは誰の指示で。何のために)
筆を止めた。
蝋燭の炎が、揺れた。
まだわからない。でも記録はつけ続ければ何か見えるはずだ。数字は、嘘をつかない。腸と同じように。
壁越しに、三階を見上げた。今頃、レオナルドは眠っているだろうか。
(明日も、庭に行こう)
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、壺の発酵音が、かすかに聞こえた。菌たちが、今夜も生きている。
(頼むよ、みんな。あの人を、救ってあげて)




