第25話:魔神の起動と、全軍の衝突(第2節)
天を衝くほどの巨体から見下ろす、光の無い虚無の双眸。
無機質でありながらも神聖さを漂わせる、幾何学的な光の輪を背負い、漆黒の滑らかな装甲に覆われたその姿。それは、天界の法典によって生み出された『災厄の魔神』の完全なる姿だった。
卵の殻を突き破り、その全貌を現した魔神の威圧感は、山頂の空気を凍りつかせていた。
最も近くでその巨体を見上げるルナの軍勢は、誰一人として声を発することができなかった。
彼らの肌を刺すのは、極寒の吹雪だけではない。魔神の巨体から放たれる、重く、息の詰まるような、絶対的な死を予感させる黒いオーラが、戦場全体を分厚い壁のように覆い尽くしていたのだ。
「な、なんだこいつ……」
ルナの口から、無意識に震える声が漏れた。
だが、それは恐怖によるものではない。彼女の全身の毛が逆立ち、黄金色の瞳が極限まで見開かれていた。
獣人の野性の本能が、生まれて初めて出会う『人生最強の敵』を前に、戦闘種族としての血を熱く、激しく沸き立たせていたのだ。
一方、少し離れた後方で対峙していた王国軍は、その圧倒的な存在に戦慄していた。
「……何というプレッシャーだ。私の剣が、鞘から抜けることを拒んでいるようだ」
黄金の甲冑を纏ったライオネルでさえ、額に冷や汗を浮かべ、愛馬を落ち着かせるのに必死だった。
ゼノアも鋭い視線で魔神を睨みつけるが、その手は微かに震えている。
「ひぃぃっ……! もうダメですぅ! あんなの、人間がどうにかできる相手じゃありません!」
見習い騎士のボニーは、完全に戦意を喪失し、情けなく馬の首にしがみついてガタガタと震えている。
「……あれが、天界の兵器。『災厄の魔神』」
その光景を、エリザはただ静かに、腹黒い笑みすら浮かべずに見据えていた。
「わ、我々の力で、勝てるのでしょうか……?」
リーファが不安げに光の杖を胸に抱く。
その隣で、リリアーナはいつも通り気怠げな様子を崩さず、紫のローブを揺らした。
「……いや、まだ手を出すには早いわね。あの巨体を相手にするには、私たちの『最高戦力』が不在すぎるわ」
彼女の言う最高戦力とは、間違いなく、今頃雪原のどこかで迷子になっているであろう、あの不運な少年のことだった。
「リリアーナ様、そんな暢気なことを言っている場合では……!」
セレスティアは、震える手で細剣を握りしめ、自分を取り繕うように胸を張ろうとしていた。
だが、その強がりも限界だった。
王女としての仮面の下で、彼女の心は、ただ一人の少年を求めて悲鳴を上げていた。
(ゆうゆう……早く助けて……!)
どんな絶望的な状況でも、必ず『不幸なトラブル』で奇跡を起こしてくれた、愛しい婚約者。
彼がそばにいないという事実が、魔神の威圧感以上に、セレスティアの心を心細くさせていた。
静まり返る戦場に、業火のジルの嘲笑が響いた。
「どうした、犬っころ! さっきまでの威勢はどうした!? デカブツを前にしてビビってんのかぁ!?」
ジルの挑発が、ルナの沸き立つ血に火をつけた。
だが、ジルの背後に立つ謀略のヴァネッサは、なぜかこの異常事態において、意味深な沈黙を保ったまま、口角をわずかに上げているだけだった。
「ルナ殿、いけません! 一旦引き返し、陣形を立て直すべきです!」
ライオネルの必死の警告が飛ぶ。
だが、ルナの黄金色の瞳は、もはや魔神ただ一体に向けられていた。
「……黙れ。ここで尻尾を巻いて逃げたら、獣人の恥だ! このオレが、誰よりも先にあのデカブツの首を獲ってやる!」
ルナは獣の咆哮を上げ、大剣を振りかぶった。
「野郎ども、続くぞ! 全軍、突撃ィィッ!!」
「オオオオオオオッ!!」
渾身の力を込めた一撃。鋼を断つルナの大剣が、魔神の漆黒の脚部へと叩き込まれる。
ガキィィィィンッ!!
「な……っ!?」
火花が散った直後、ルナの目は驚愕に見開かれた。
魔神の装甲には傷一つついていない。それどころか、反発した強烈な衝撃波がルナの体を弾き飛ばした。
「ぐはあっ……!」
ルナは雪原を数メートル転がり、血を吐いて膝をついた。
「お頭っ!!」
「犬姫様!」
傭兵たちが悲鳴を上げる中、ルナの背後から、地を揺らす足音が近づいてきた。
「ちぃっ……!」
ルナが振り返ると、そこには燃え盛る炎を纏ったジルと、魔王軍の軍勢が迫っていた。
(挟み撃ちか……! クソ、ここまでか……!)
ルナは絶望し、残された力で大剣を握り直そうとした。
「ハハッ、無様だな! オラァッ! 燃えカスにしてやるぜ!」
ゴオオオオオッ!!
非情にも、ジルの両手から紅蓮の炎が放たれる。
だが、巨大な炎の球は、彼女の真横を通り過ぎ、一直線に魔神へと向かっていき、魔神の巨体を飲み込んだ。
「……は?」
ルナは自分の目を疑った。
なぜ、魔王軍が、自分たちの『神(兵器)』を攻撃しているのか。
「おい、狐女! なぜお前らがこいつを攻撃する!?」
ルナが怒鳴るように疑問を投げかけると、ジルは炎を放ち続けながら、忌々しげに舌打ちをして振り返った。
「つべこべ言わずにこいつをやっつけろ! てめえのくだらねえプライドは後回しだ!」
「……冗談ではなさそうだな」
ルナは口元の血を拭い、よろめきながらも立ち上がった。
ジルの隣に並び立つ。銀色の狼と、紅蓮の獣。
犬猿の仲であった二人の獣人が、この世界で最も不気味な『災厄』を前に、奇妙な共闘を果たす。
「行くぞ、人間飼いの犬っころ! 足引っ張るんじゃねえぞ!」
「てめえこそ、その自慢の火が消えねえように気をつけな!」
咆哮と共に、二つの軍勢が巨大な魔神へと牙を剥く。
だが、彼女らはまだ知らなかった。
神の怒りが、どれほど理不尽で絶望的なものであるかを。
設定・イメージイラストは、ピクシブに掲載中です。
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