第34話:わたしたちの子供の名前(第1節)
「ヴァネッサさんから……天界と繋がっていた『あの男』の動きについて、情報が入りました」
桜井唯の言葉に、部屋にいた全員の表情が険しくなる。
「……あの男とは、教団のユリウス司祭のことかしら?」
セレスティアの確認に、桜井は静かに頷いた。
「はい。彼は魔神が破壊された後も、天界と通信を取り合い、魔神に代わる新たな生物兵器を完成させようと暗躍しているそうです」
「そうですか……厄介ですわね」
エメリアがため息をついた。
『だが、その後の足取りは再び消息不明になったらしい。魔王軍の密偵でも、尻尾を掴めないようだ』
猫姿のちくわが、テーブルの上で尻尾を揺らしながら付け加えた、その時――
コンコン
執務室の重厚な扉がノックされ、いつもの飄々とした笑顔を浮かべた情報屋・エリザが姿を現した。
「失礼します、姫様。私の情報網に、面白い報告が引っかかりましたよ」
エリザは琥珀色の瞳をいたずらっぽく輝かせると、手元の羊皮紙をテーブルに広げた。
「教団の異端審問官を装った怪しい一団が、レヴィナス砂漠の西……『アスティア王国』の方角へ向かったとのことです」
「アスティア王国ね……あの狸が」
セレスティアが扇子をパチンと閉じ、忌々しげに顔をしかめた。
「でもこれで、奴の行き先は絞れたわ。ご苦労様、エリザ」
だが、敵の居場所が分かったとはいえ、相手は天界の力を借りた危険な司祭だ。
「……わたし」
すると桜井が、真っ直ぐにセレスティアを見つめて言った。
「皆さまのおかげで、ルミアナ密林の遺跡に行けば、元の世界に帰る方法が見つかるかもしれません。……でも」
その憂いを帯びた瞳には、強い決意の光が宿っていた。
「もし帰る方法が見つかっても、私は……天界の脅威と、あのユリウス司祭の暗躍を未解決のまま、この世界を見捨てて帰りたくはありません」
そう言って桜井は、悠真に向き直り、ジッと彼の目を見つめた。
「先輩も……この世界の人たちを見捨てて、自分たちだけ帰るなんてこと、できないですよね?」
「桜井さん……」
それは、有無を言わさぬ、無言の圧力だった。
「も、もちろん。僕も、みんなを放って帰るなんてできないよ……はは」
悠真は冷や汗を流しながらも、彼女の覚悟に強く頷いた。
「やったー! じゃあ、密林の遺跡の次は、西の王国に大冒険だね!」
ドナが両手を挙げて歓喜の声を上げる。
「ふふ……未知の探求のあとは、オヤジ狩り。暇つぶしとしては、悪くないわね」
リリアーナは杖を弄りながら、何か物騒なことを呟いている。
新たな冒険の予感に、部屋の空気が活気づく。
だが、その盛り上がりに、待ったをかける声が響いた。
「ちょっと待ってください!」
グレーの翼を震わせながら、エーテラがズンッと前に進み出た。
彼女の腕の中では、幼女天使が不思議そうに目を瞬かせている。
「危険な冒険に行くのは勝手ですが……この子の面倒は、一体誰が見るんですか!」
エーテラは、完全に「家を守る正妻」のオーラを醸し出しながら、悠真をキッと睨みつけた。
すると幼女天使がトテトテと歩み寄り、悠真の足にギュッとしがみついた。
「パパ……でていくの……?」
「あなた、妻子を捨てて家出する気ですか!?」
「だから、言い方!」
悠真が顔を真っ赤にしてツッコミを入れると、セレスティアが扇子を優雅に広げて微笑んだ。
「心配いりませんわ、エーテラさんも一緒に参りましょう。わたくしたちも一緒について行きますから」
「はい! 悠真様をお守りするのは、私の役目です!」
リーファも力強く同意する。
「えっ……み、皆さんも行くんですか? でも、私は……天界を追放された身ですし、足手まといに……」
エーテラがモゴモゴと言い訳をしてうつむくと、セレスティアが小悪魔的な笑みを浮かべた。
「あら、残念ですわね。移動中に車内で、お取り寄せの最高級ケーキ三昧をしようと思っていましたのに。……エーテラさんがお留守番なら、わたくしたちだけで頂くしかありませんわね」
「……っ!」
エーテラのグレーの翼が、ピクッと大きく跳ねた。
「ゴクリ」と、分かりやすく喉を鳴らす音が執務室に響く。
「……け、ケーキには全く興味がありませんが! 天界人の妻として、夫を監視する役目がありますからね! ええ、あくまで監視のためです!」
あっさりとケーキの誘惑に屈したエーテラは、顔を真っ赤にして強がりながら同行を宣言した。
「よし、決まりだね! ドナの新しいスレイプニルで、その司祭ってやつをボコボコにしてやる!」
ドナが両手を腰に当て、得意げに胸を張って息巻いた。
「……やれやれ。私が止めても、あなたたちは聞かないわよね?」
エメリアが呆れたようにため息をつき、傍らに立つエリザへ視線を向けた。
エリザは言葉を発することなく、楽しげな瞳で少しだけ小首を傾げ、肩をすくめる仕草で応じた。
全員が新たな旅立ちへ向けて心を一つにし、幼女天使も「みんなでおでかけー!」と無邪気にはしゃいでいる。
その和やかな空気の中、エメリアがふと首を傾げた。
「……ところで皆様」
エメリアは、悠真の足にしがみつく幼女を見つめながら、静かに問いかけた。
「この子……何て名前ですの?」
「「「「…………え?」」」」
その一言に、執務室にいた全員の動きが、ピタリと止まった。
悠真も、セレスティアも、エーテラも、誰一人として言葉を発しない。
「……そういえば」
今まで誰も、彼女の名前がなかったという、あまりにも間の抜けた事実に、全員が顔を見合わせて沈黙するのだった。
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