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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一


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86/148

86音大時代〜優秀者演奏会の後で


 彼女と一緒に教授の家を出たのは、既に夜になってからだった。


 金曜日の夜で、電車は込み合っていたが、はぐれたり潰されたりする程ではなかった。

 彼女は電車通学をしたことがなく、体幹が弱いのか、扉の近くでふらふらしていた。

 僕は、彼女の手を自分の左腕につかまらせた。しかし、彼女は僕の腕につかまったままでもふらふらしていた。


 ターミナル駅に停車すると、途端に人が増えた。ここからしばらくは、こちらの扉は開かない。彼女を扉の前に立たせて、僕は他の人が彼女に触れないようにして、自分も少し距離を取った。

 これだけ込んでいるのだから、自分の体に密着させれば片手で楽に支えられるのに、僕はそうしなかった。もっとわかりやすいラッシュだったらよかったのに、と思った。


 僕たちが降りる駅まで、もう少しだった。彼女のことを見ると、立ったまま眠っていた。眠かったのか。いつもおとなしいから、わからなかった。そうだな、いつもだったら彼女はきっと寝ている時間帯だ。


 あ、次はこちらの扉が開く。いつまでも彼女の顔を見ていたかったが、僕は声をかけた。

「かおり……」

 指先で、そっと頬に触れてみた。……化粧もしていない、健康的な柔らかい肌、自然に下ろしただけの、綺麗な長い髪……。


 彼女はゆっくりと目を開けた。

 少し口も開いて、僕のことを見た。


「……先生……」

 かわいい。……こんな無防備な表情が見られるなんて。


 僕は微笑んでみせた。

「降りるよ?」

「……はい」


 扉に背をつけて寄りかかっていた彼女は、体の向きを変えて扉の方を向いた。


 瞬間、彼女の体がゆらりとして僕の方に倒れた。

 僕は体ごと支えて彼女の腕を握って、開いた扉から一緒にホームに降りた。


 その駅では、人がたくさん降りたわけではなかったが、一旦ベンチのところまで彼女を連れていった。


「かおり、大丈夫?歩ける?」

「……はい。あ、まって」


「うん、どうした?」

「あの……」


 ベンチに座った彼女の顔が近くに見えるくらいに、僕は膝を落とした。……彼女の小さい声が聞こえるように。


「……今日、先生の素敵な演奏を聴いたのは、夢じゃないんですよね」



 僕の方が夢を見ているみたいだった。

 そんな風に言ってくれるなんて。


 嬉しくて、キスしたいくらいだった。

 でも、ここは駅のホームだし……。


 そんな彼女を他の人に見せたくない。

 僕は我慢して、彼女に笑顔を見せた。


「……僕も、かおりの素敵な『シャコンヌ』を聴かせてもらったよ。深い音色で、大人っぽくてびっくりした」

「私も、先生みたいに、弾けるようになりたいです……」


「ありがとう」

 ……かおりは僕より上手になるよ、という言葉を飲み込んだ。遠慮しないで、僕より上を目指してほしい。



 彼女の家に送った。

 彼女が玄関に入ると、お父さんが出てきた。


「パパ!ただいま!」

 いつもおとなしい彼女のはしゃいだような声に、僕は少なからず驚いた。


 お父さんは僕に笑ってくれた。

「やぁ、送ってくれてありがとう。かおり、夜なのに元気だね」

「うん!あのね、私今日、立ったまま眠ったの!立ったまま眠れるなんて、知らなかった!」


 僕はびっくりした。お父さんにそういうことを報告するなんて……。


 僕は慌てて謝った。

「遅くなってすみません。演奏会の後、教授の御宅で夕食を頂いてきまして」

「いやいや、かおりが楽しみにしていたからね」


 僕は、お父さんとかおりに挨拶をした。

「お父さん、おやすみなさい。かおり、またね」


 かおりは、さっきとは違う小さい声で、

「先生さようなら、おやすみなさい」

とにこっとして、背の高いお父さんの腰にすうっと抱きついた。お父さんも、それを受けてかおりの背中に手を添えた。


 僕は今日一番びっくりした。

 中学生の女の子って、まだそんな感じなのか?もしかしたら、逆に僕のことは少し意識してくれているのだろうか。


 彼女のお父さんは、明るくて朗らかで、僕から見ても素敵な男性だ。


 ……僕はまだまだだな。



 彼女に僕の方を向いてもらうこと、僕を男として意識してもらうことは、リストの『スペインラプソディー』を仕上げることより難しいかもしれないと思った。














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