86音大時代〜優秀者演奏会の後で
彼女と一緒に教授の家を出たのは、既に夜になってからだった。
金曜日の夜で、電車は込み合っていたが、はぐれたり潰されたりする程ではなかった。
彼女は電車通学をしたことがなく、体幹が弱いのか、扉の近くでふらふらしていた。
僕は、彼女の手を自分の左腕につかまらせた。しかし、彼女は僕の腕につかまったままでもふらふらしていた。
ターミナル駅に停車すると、途端に人が増えた。ここからしばらくは、こちらの扉は開かない。彼女を扉の前に立たせて、僕は他の人が彼女に触れないようにして、自分も少し距離を取った。
これだけ込んでいるのだから、自分の体に密着させれば片手で楽に支えられるのに、僕はそうしなかった。もっとわかりやすいラッシュだったらよかったのに、と思った。
僕たちが降りる駅まで、もう少しだった。彼女のことを見ると、立ったまま眠っていた。眠かったのか。いつもおとなしいから、わからなかった。そうだな、いつもだったら彼女はきっと寝ている時間帯だ。
あ、次はこちらの扉が開く。いつまでも彼女の顔を見ていたかったが、僕は声をかけた。
「かおり……」
指先で、そっと頬に触れてみた。……化粧もしていない、健康的な柔らかい肌、自然に下ろしただけの、綺麗な長い髪……。
彼女はゆっくりと目を開けた。
少し口も開いて、僕のことを見た。
「……先生……」
かわいい。……こんな無防備な表情が見られるなんて。
僕は微笑んでみせた。
「降りるよ?」
「……はい」
扉に背をつけて寄りかかっていた彼女は、体の向きを変えて扉の方を向いた。
瞬間、彼女の体がゆらりとして僕の方に倒れた。
僕は体ごと支えて彼女の腕を握って、開いた扉から一緒にホームに降りた。
その駅では、人がたくさん降りたわけではなかったが、一旦ベンチのところまで彼女を連れていった。
「かおり、大丈夫?歩ける?」
「……はい。あ、まって」
「うん、どうした?」
「あの……」
ベンチに座った彼女の顔が近くに見えるくらいに、僕は膝を落とした。……彼女の小さい声が聞こえるように。
「……今日、先生の素敵な演奏を聴いたのは、夢じゃないんですよね」
僕の方が夢を見ているみたいだった。
そんな風に言ってくれるなんて。
嬉しくて、キスしたいくらいだった。
でも、ここは駅のホームだし……。
そんな彼女を他の人に見せたくない。
僕は我慢して、彼女に笑顔を見せた。
「……僕も、かおりの素敵な『シャコンヌ』を聴かせてもらったよ。深い音色で、大人っぽくてびっくりした」
「私も、先生みたいに、弾けるようになりたいです……」
「ありがとう」
……かおりは僕より上手になるよ、という言葉を飲み込んだ。遠慮しないで、僕より上を目指してほしい。
彼女の家に送った。
彼女が玄関に入ると、お父さんが出てきた。
「パパ!ただいま!」
いつもおとなしい彼女のはしゃいだような声に、僕は少なからず驚いた。
お父さんは僕に笑ってくれた。
「やぁ、送ってくれてありがとう。かおり、夜なのに元気だね」
「うん!あのね、私今日、立ったまま眠ったの!立ったまま眠れるなんて、知らなかった!」
僕はびっくりした。お父さんにそういうことを報告するなんて……。
僕は慌てて謝った。
「遅くなってすみません。演奏会の後、教授の御宅で夕食を頂いてきまして」
「いやいや、かおりが楽しみにしていたからね」
僕は、お父さんとかおりに挨拶をした。
「お父さん、おやすみなさい。かおり、またね」
かおりは、さっきとは違う小さい声で、
「先生さようなら、おやすみなさい」
とにこっとして、背の高いお父さんの腰にすうっと抱きついた。お父さんも、それを受けてかおりの背中に手を添えた。
僕は今日一番びっくりした。
中学生の女の子って、まだそんな感じなのか?もしかしたら、逆に僕のことは少し意識してくれているのだろうか。
彼女のお父さんは、明るくて朗らかで、僕から見ても素敵な男性だ。
……僕はまだまだだな。
彼女に僕の方を向いてもらうこと、僕を男として意識してもらうことは、リストの『スペインラプソディー』を仕上げることより難しいかもしれないと思った。




