85音大時代〜優秀者演奏会
大学一年の夏。
音大ピアノ演奏科に入学し、最初の実技試験で成績優秀者に選ばれた僕は、演奏会に出演できることになった。
7月の下旬に大学が主催する、外部に向けて公開する演奏会に出演できることは、刺激になるし、観客の人数も格段に増えてモチベーションが上がる。
密かに、招待したい人がいたから頑張れた。
僕の生徒だ。……まだ中学生。
音大講師である僕の母親が主催するピアノの発表会には、僕の生徒……心の中では勝手に彼女と呼んでいるが、一緒に出演させてもらっている。一日中一緒に過ごせるし、お互いの演奏を聴きあえる。
それはそれとして、選抜された人間だけが出演する演奏会に、彼女を招待するというシチュエーションに憧れていた。
生徒といっても、所謂週に一度のレッスンではない。幼なじみで、小さい頃から遊ぶように僕と一緒にピアノに触れていた彼女とは、その延長で毎日レッスンしていた。
毎日会ってはいたが、いつどのように切り出すか考えた。
僕は、彼女がピアノに向かう姿勢を何日間か観察した。まず低いハードルを課し、短期間で少しずつ難易度を上げ、少し無理させた上で達成させた時、僕はそれを心から誉めた。
「今の、いい演奏だった。よく頑張ったね。いつも一緒に勉強してくれてありがとう。……これ、来てくれるかな?」
誉めるのはともかく、自分が出演する演奏会に誘うのは慣れていない。その時には非常に勇気が必要だった。
都合が悪かったら?時間はあっても行くのは気が進まないとか?夜だと彼女のお父さんにダメって言われるかな?断りたいのに断りづらいとか……。彼女が困った表情をしたら?……僕はチラシと招待券を渡してしまってから悪いことばかり考えた。
彼女はチラシを受け取った。それを見て、僕の写真と名前が書いてあることがわかり、静かに驚いていた。
彼女は、ゆっくり口を開いた。
「ありがとうございます。……パパに、行ってもいいかどうか、聞きます。ダメって言われても、お願いしてみます」
うわ……。想像以上に嬉しい返事だった。
ほっとして安心して、顔がゆるみそうだった。
「僕の出番は最後から二人め、……少し遅い時間になるから、帰りは僕が送るから一緒に帰ろう。お父さんにそう伝えて?来る時はまだ明るい時間だから大丈夫かな?」
彼女はチラシを見たまま、
「……大丈夫……」
にこっとして頷いた。
かわいい。
嬉しかった。
頑張ってよかった。
演奏会は三日間にわたって開催される。一日めは弦楽器、管楽器、打楽器など。二日めは声楽。三日めはオルガンとピアノだった。
曲は仕上げてあったし、あと数日後であれば調整するだけだ。調整は人によって様々だろうが、睡眠時間や体調、指のコントロールを含めて、精神的にも肉体的にも本番で一番良い状態にすることを指す。
練習に関して不安のない状態だった僕は、一日めも二日めも演奏会を聴きに行った。
音楽大学は女子が多い。内部の学生だけでなく外部の人間も加わると、更にうるさく……賑やかになる。ファンなのだろうか?女子は花束やプレゼントらしきものを持っていて、ロビーで演奏者に渡している姿をあちこちで見かけた。人気の秘密は演奏か?どんな演奏をした人なのだろう?まだ僕には、演奏者の名前と顔と、先ほどの演奏が一致していなかった。ピアノの響きや残響を聴きたくて後ろの座席に座っていた。遠目だと顔はわからない。誰が人気だったのか、もっと近くの席から見ておけばよかった。コンクールでもこういうことはあまりないし、僕は音大附属高校の出身ではないので、そんな光景はちょっと珍しく感じた。
人気につながる演奏と、コンクール審査員や大学の教授陣に好まれる演奏は同じだろうか……。
ま、僕には関係のないことか……。
やれることをやるだけだ。
演奏会当日。
彼女は、帰宅して制服を着替えてから向かうので到着時間はわからないと言ったけれど、出番には間に合うだろう。演奏が終わったらホールのロビーで待ち合わせることにした。
僕は控え室で普段着からタキシードに着替えた。
黒い蝶ネクタイをつけて、本番を迎えた。
タキシードは暑かった。
僕の出番は最後から二人めで、最後は大学四年の先輩だった。
自分の演奏が終わった後、先輩の演奏を聴きたかったが、彼女をロビーで一人にしたくなかった。
ステージ袖から直ぐに客席後方にあるロビーに向かおうとした時、廊下にたくさんの頭が……女子がいた。昨日までとは桁の違う人数だった。
僕は廊下の端を通ってロビーに行こうと、壁際に寄った。僕は何か間違えたのか?あっという間にその女子達に囲まれて、動けなくなった。
えっ?何これ……。
「槇君、これ受け取ってください」
「槇さん、素敵な演奏でした!」
な、な、何だこれは!
どうしたらいいんだ?
僕は本当にどうしたらいいかわからなくなった。
ステージ袖から先生が出てきて注意された。
「演奏中だ。静かにしなさい!ロビーに行きなさい!」
女子たちがそちらに少し気を取られた瞬間、僕は壁際を走り抜けてロビーに出た。
女子たちが皆ついてきてしまった。
こんなに恐怖を感じる鬼ごっこは初めてだ。この中から彼女を連れて帰るのはまずい気がした。着替えも楽譜も控え室だ。服はともかく財布がないと帰れない。どうする?
彼女はステージ袖からロビーにかけての騒動に気づいて、そして僕がいることも解ったみたいだった。化粧室に入ったのが見えた。
あ、よかった。
僕はまるでまずいところを見つかったような気がした。
実際、見られたくなかった。
僕は少しほっとして、ロビーに窓口のある事務室の女性の先生のところに助けを求めた。何しろ、携帯も控え室に置いたままだった。
身振り手振りで謝りながら、筆談したい意思を伝えた。女子に囲まれている僕に気づいた事務室の先生は、何かを察して紙とペンを僕に渡してくれた。
化粧室にいる女の子に伝えてほしい
「教授の家にいて」
髪の長い165センチ位の中学生
名前は「かおり」
僕は、お願いしますと無言で頭を下げた。
事務室の先生は解ってくれたようだ。
無言で紙を持って事務室を出ていった。
僕は観念して、女子たちに頭を下げた。
「演奏を聴いてくれてありがとう。自分はまだまだだから、……何も受け取れません。お気持ちだけ頂きます、ありがとうございます」
「え~?」みたいな声が上がったような、よくわからなかった。
頭を上げた時、事務室の先生と彼女が大学の出口に向かうのが見えた。よかった、……と思ったら、後ろから教授が来て、彼女に声をかけた。
教授の家はここからすぐ近くだ。彼女を連れていったことがあるから面識もある。教授の家には教授の奥様もいる。よかった。僕は控え室に着替えを取ってきてから教授の家に行こう。
ほっとした瞬間、教授が彼女の肩を抱いて、事務室の先生に笑顔で手を振っていた。まるで彼女は、歳の離れた恋人のようだった。
ちらっと僕の方を見て、今にもキスをしそうなくらいに親密な態度で接するロシア人の教授に、どうしようもなく嫉妬した。
教授の家がここから近いとはいえ、彼女がこんな夜に一人で出歩かなくてすんでよかったと、無理矢理そう思った。
僕は、まだ離れない女子達にもう一度頭を下げて、控え室に戻った。
控え室では、最後に演奏していた先輩が帰り支度をしていた。
僕は正直に謝った。
「お疲れ様です。実は、先輩の演奏聴けませんでした、すみません」
「いいよ、知ってる。モニターから見えた。客席からごっそり人がいなくなって残響が気持ち良かったよ。喜んでる訳じゃないなら大変だったね。君の演奏、良かったよ。またお互い頑張ろう、おつかれ!」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
控え室に一人になって、椅子に座った。ようやく一息つけた。着替えも楽譜も鞄に収まっている。出して着替えて、タキシードを畳んで……、考えただけで一気に疲れて面倒になった。
「誰かまだ残ってる?もう閉めるからね、お疲れ様!」
守衛さんが見回りに来た。
「すみません、出ます。さようなら」
「はい、気をつけてね」
女子達はもういなかった。
タキシードのまま、鞄を持って教授の家に行った。
大学の近くの、僕のお気に入りのレストランに連れて行って、一緒に夕食を取りたかった。デートみたいにしたかったが、これではどこに行ってもまずい気がした。
こんな筈じゃなかった……と思いながら教授の家のインターフォンを押した。
奥様が開けてくれた。中に入ると、教授が彼女に『シャコンヌ』のレッスンをしていた。
「おかえり、シンイチ。さっき、カオリに『プレリュードとフーガ』を聴かせてもらった。すごく良かったよ。シンイチ、暑いだろ?シャワー浴びておいで」
ロシア語で僕に言った。こんなにご機嫌な教授は、見たことがない。僕には厳しくて、悪魔みたいな時もあるのに。彼女が気に入ったんだな。
今は暑い。タキシードは確かに暑い。
奥様がバスタオルを持ってきてくれた。
夕食がもう少しでできるとも言ってくれた。
僕は言う通りにして、彼女を教授に任せたままシャワーを浴びた。
さっぱりしてバスルームから出ていくと、『シャコンヌ』の深い音色が聴こえた。
流石、教授……と思ったら、弾いていたのは彼女だった。昨日までとは全然違う。別人みたいだ。
僕はショックで、そこから動けなくなった。
二人きりで、デートみたいに夕食を取って、少し遅くなる時間帯に一緒に帰るのを楽しみにしていたのに……。
この敗北感は何だ?
彼女の感性が素晴らしいことは知っていた。
奥様が用意してくれたフランスの家庭料理も、食べたけれど味がわからなかった。
「カオリ、シンイチの濡れた髪、色っぽいね。『シャコンヌ』のあの部分で表現できる?」
教授が奥様に通訳させると、彼女は、……ううん?と首を傾げていた。
まだ僕のことは男だと意識していないだろう。
それも、少しがっかりした。
教授は帰り際、彼女にわからないよう、ロシア語で僕に言った。
「彼女は、君の演奏に感動したから、もっと上手くなりたいと僕に言ってきた。音色が変わったのは僕のせいじゃない、彼女の意思だ。このまま彼女を育てて、もっといい男になれ!」
悪魔みたいだと思っていたが、神父様のようだった。
僕は感謝の意を込めて、胸の前で十字を切った。




