84音大時代〜実技試験
僕が音大生になって最初の実技試験は7月だった。学内では前期試験という。
ピアノ演奏科は自由曲で10分程度、もしくは10分以上という規定だった。
母親がこの音大のピアノ講師だったこともあり、システムと点数のつけ方は知っていた。良い評価……最高点が欲しかった僕は、4月には自分で仕上げて既に人前でも弾いていた。
7月なんて、余裕の仕上がりになるかと計画していたが、僕の担当教授にOKをもらえるレベルは想定外に高かった。悔しかったが、教授の仰ることは全てご尤もなことばかりで、新入生気分で受かれてはいられなかった。
月曜日の1限が教授の個人レッスンだったから、土日は練習し、平日は授業の後から日付が変わるまで練習した。
学年で何人かずつ選ばれる各楽器専攻の成績優秀者は、学内のホールで行われる演奏会に出演できる。その演奏会は学外にも公開されるため、彼女に……僕が心の中で彼女と呼んでいるだけだが……聴いてもらいたいと思った。
授業の後から日付が変わるまで、というのは言い過ぎた。大学から自宅まで、片道の通学時間が50分程あるし、僕には一人の生徒がいて、毎晩レッスンしていた。
心の彼女である生徒は、僕と同じ社宅に住んでいて、家にはピアノがない。親同士も友人だったから、僕の家に勝手に入ってもらってリビングのピアノで練習させている日常だった。
彼女はこの春に女子一貫校の中等部三年になった。
4月の発表会で、バッハ作曲リスト編曲の『オルガンのためのプレリュードとフーガ イ短調』を演奏したばかりだ。
彼女には、もう少しロマン派のレパートリーを増やしてもらいたいと思っている。完全に僕の好みだけれど。とはいえ、古典はもちろん、エチュードも近現代の作品も、コンチェルトやオーケストラパートも少しずつレッスンしている。
僕は、彼女の練習をしばらく黙って聴いた後、感想とポイントを伝え、改善点や練習方法の案をいくつか提示した。
レッスンといっても毎日だし、今日はこんなところだ。彼女は素直で考える頭があり、工夫する力があり、和音の響きや美しさを追究する耳があった。毎日きちんと練習を継続する耐性もあり、練習でもレッスンでも本番でも、歌う心を持っていた。
集中力が欠けているな……僕が。
実技試験で選ばれたい。優秀者演奏会に彼女を招待したい。本腰を入れなければ……。
「先生?……」
彼女が僕の顔を下から覗きこんでいた。
僕は、正気に戻った。
……彼女に指摘されるなんて、情けない。
「……僕が弾いてもいいかな?」
「はい」
彼女が立ち上がってピアノの椅子を交替した。
近距離ですれ違うのに、二人で右に左にあたふたとして、ぶつかってしまった。彼女が後ろに倒れないよう、僕は咄嗟に腕を伸ばして背中を支えた。
「ごめんなさい」
彼女が先に謝った。頬が赤かったように見えた。
僕は、自分が赤くなるのかどうかがわからなかったが、そんな考えすらすぐに捨てた。
今から弾くのは、彼女のレッスン曲ではない。リスト作曲の『スペインラプソディー』だ。
僕が、教授のレッスンを受けていて、教授が自身の為に練習している曲を真剣に聴かせてもらえることは、何よりの刺激だった。
本番ではない、まだ出来ていないと思われる箇所も散見される。その状態を聴かせてもらうことは、レッスンでどんなに納得がいかないことがあっても帳消しにできるほど、説得力があった。
僕の今の本気が、彼女に同じように刺激になればと願う。
十数分かかるが、一回通した。弾き直さず、とにかく最後まで弾いた。
全てがうまくいったわけではない。
悔しいところがいっぱいだ。
僕は、直ぐに立ち上がれなかった。
彼女は僕の表情を見れば、いや……演奏を聴けば、今の僕の正直な心情を理解しただろう。
何も言わずに側にいてくれた。
それは、何より嬉しいことだった。
誉めてほしい訳ではない。
慰めてほしい訳でもない。
同じ方向を向いて、一緒に勉強してくれているだけでよかった。
ようやく、気持ちの整理がついた。
「聴いてくれてありがとう。僕もまだまだだ。向こうでさらってくるから、ここで練習していって。今日は見送れないけどいい?」
「はい、ありがとうございました」
制服姿の彼女は、僕に丁寧にお辞儀をした。
僕は、もう一つのピアノの部屋……母親のレッスン室に入って鍵を閉めた。
夏。
実技試験の数日後、掲示板を確認した僕は、事務室に書類を受け取りに行った。
大きな封筒だった。
実技試験優秀演奏者による演奏会のチラシと招待チケットが入っていた。
チラシには、僕の名前と顔写真が掲載されていた。




