83子供時代〜母親のリサイタル3
僕の母親は年に何回か、リサイタルに出演していた。僕が産まれる前はピアノのリサイタルをしていたらしいが、僕が産まれてからは室内楽のリサイタルにピアニストとして出演していた。
今日は声楽のリサイタルだった。
リサイタルの日は僕もついていった。僕の両親と仲良くしているおうちの「かおちゃん」も連れて行った。「かおちゃん」には、僕がピアノを教えている。だから、「かおちゃん」は僕の生徒だ。
僕達を初めて見る人は、兄妹だと思うらしい。僕は、そう思われるのは嫌だった。母親は、そのことを知らない人に説明することはなかったし、そのおかげでずっと一緒にいることができたし、僕の気持ちは両親がわかっていたみたいだった。
「かおちゃん」は僕を「しんちゃん」と呼んでいた。「かおちゃん」はもうすぐ一年生になる。たまに演奏会に行くことはあったが、本当は一年生からしか演奏会に入れない。いけないことをしている気持ちだったし、年齢を聞かれたら「かおちゃん」に「聖花女学院初等部の一年生です。誕生日はまだなので六歳です」と嘘をつかせることが嫌だった。早く、本当の一年生になって、演奏会に連れて行きたかった。
そのためにも、母親のリサイタルで演奏会を聴きに行く練習ができることはよかった。かおちゃんはリハーサル中も静かに座って聴くことができたし、化粧室にも一人で行くことができた。
おうちで自由に過ごすかおちゃんもかわいいし、お外でお口を結んでいるかおちゃんもかわいくてかわいくてたまらなかった。
リハーサル中、僕達は客席で演奏を聴き、本番中は控え室のソファで一緒に座って演奏を聴いた。僕は、この時間がとても好きだった。
かおちゃんは後半になると眠くなる。眠くなると、かおちゃんは僕にぴったりくっついてもたれてくる。控え室は僕達二人だけだったから、僕はかおちゃんの頬を撫でた。ふっくらして、すべすべした白い肌。小さい唇、閉じた目の長い睫毛。眠っている時はずっと見つめていた。
かおちゃんがもっと小さい頃、僕のことを「おにいちゃん」と言った。僕は「お兄ちゃん」じゃない。僕がかおちゃんを叱ったのはその時だけだ。僕はかおちゃんのことを「妹」だと思ったことはない。他人にそう思われても仕方のない関係なのはわかる。かおちゃんのお母さんは病気で、かおちゃんのお母さんと仲良しの、僕の母親が僕と同じように可愛がって育てているのだ。社宅だから、家もマンションの上下だ。僕は寝る時に、真上の部屋に寝ているだろうかおちゃんのことをいつも想っていた。
控え室のモニターから、母親と共演者がアンコールに応えて小品の演奏が始まった。そろそろ僕の父親か、かおちゃんのお父さんが車で迎えに来る。僕がかおちゃんを見つめる、秘密の時間が終わってしまう。僕はかおちゃんの頭や背中を撫でた。かおちゃんのパパや、僕の父親がするように、優しく撫でた。
母親が控え室に戻って来た。大きな花束を持っていた。母親は声が大きいし、かおちゃんは起きてしまった。かおちゃんはすぐに寝るし、起きてしまっても不機嫌になったりしない。少しぼんやりしているのもかわいい。
「かおりちゃん、お花だっこして!」
母親はかおちゃんに花束を持たせた。かおちゃんは両手で大きな花束を抱えた。母親は、花束を少しななめにして、かおちゃんの顔が見えるようにした。
「シンイチ、ほら、ここに立って!」
母親が僕をぐいっとかおちゃんの横に立たせた。
母親は、僕とかおちゃんの写真を撮ってくれた。かおちゃんはカメラの方を見ていなくて、花束を上から覗いている。その口許は微笑んでいたし、目許は優しい眼差しで、かおちゃんの女の子らしさが出ていた。その写真は、僕の宝物になった。
僕は、早く大人になりたかった。かおちゃんに心から信頼される存在になりたかった。
かおちゃんのパパが迎えに来て、僕に「ありがとう」と言ってくれた。僕こそ「ありがとうございます」と言いたかった。
僕は、お父さんにだっこされたかおちゃんの目が閉じるまでを見つめた。「かおちゃん、おやすみ」と小さく言った。
帰り支度をした母親と皆で車に乗って帰る。
僕は、だっこされたかおちゃんの寝顔を見ながら、もう一度頬を撫でたかった。
僕の生徒で幼なじみの「かおちゃん」は小学生になった。近くの女子校の初等部で、赤いリボンを結んだ制服のかおちゃんは可愛かった。
かおちゃんはピアノが上手だった。僕は時間をかけて教えたし、かおちゃんも僕の言うことを素直に聞いたから、小さな手でもいろいろなことができた。まるで指先が歌うような音色と表現力は、五つ歳上の僕よりもすごいと思うくらいだった。
かおちゃんが小学生になってすぐの母親のピアノ・ソロリサイタルは、全てショパンのプログラムだった。
今までだったらリハーサルを客席で聴いて、本番を控え室で聴いていた。それはかおちゃんが小学生じゃないから客席に入れなかったのと、室内楽の演奏会だったからだ。
今日はピアノソロのリサイタルだ。本番前はピアノのある控え室で練習をするから、緊急でなければ入らないように言われていた。
今までも、僕はかおちゃんを見ている係だった。かおちゃんのお母さんは病気で、かおちゃんのお母さんと仲良しの僕の母親が、僕とかおちゃんを一緒に育てている。僕は係の責任が少し重くなり、嬉しかった。そう、僕はかおちゃんが好きだ。誰にも言っていないけれど、僕の両親もかおちゃんのお父さんも知っているだろう。
早めに会場の近くまで来た僕は、本番までの時間、行き慣れたティールームにかおちゃんを連れて行った。
ティールームは子供だけで来る雰囲気ではない。けれど、いつもいる店員さんは僕達を見て、「いらっしゃいませ」と笑顔でいつもの席に案内してくれた。
僕達を初めて見る人は、兄妹だと思うらしい。僕は、そう思われるのは嫌だったが、そのおかげでずっと一緒にいることができた。
おうちで自由に過ごすかおちゃんもかわいかったし、お外でお口を結んでいるかおちゃんもかわいくてかわいくてたまらなかった。
僕達はサンドウィッチとデザートを一つずつ注文した。ここのリンゴジュースは、僕達のお気に入りだった。僕は氷を入れないでくださいとお願いした。
かおちゃんは、テーブルマナーは良いのだがちょっと不器用で、タマゴサンドを食べると柔らかいタマゴが口の端についてしまう。僕は度々かおちゃんの口許を拭いてやった。デザートのプリンは上手に食べられる。会計をしてハンカチを持たせて化粧室に行かせる。
その日、化粧室からかおちゃんが泣きそうになって出てきた。僕は直ぐに駆け寄った。
「かおちゃん、どうした?」
「しんちゃん、ハンカチを、落としちゃった……」
僕はハンカチを受け取った。少し濡れていた。
「手を洗って拭いた後、落としちゃったの?」
かおちゃんは頷いた。
「大丈夫。代わりにこれを持っていて」
僕は自分のハンカチを差し出した。かおちゃんはそれを両手で受け取った。かおちゃんのお世話はそれくらいで、全然大変なことはなかった。
開場時間を少し過ぎた頃、僕達は演奏会の受付に招待券のチケットを二枚出して、半券を受け取った。招待席だったから座席を確保する必要もない。僕はかおちゃんを連れて控え室に行った。緊急というほどではないが、かおちゃんのための新しいハンカチを借りたかった。
控え室は防音してある。ノックはしたが返事はなかった。
重たいドアを開けると、父親が母親にキスをしていた。あ、お父さんが来てる……それに、いけない時に開けてしまった……僕は直ぐに後悔した。でも、ドアは開いてしまったし、父親とも目が合った。お父さんは、全く動じないで体を離し、こちらに来た。
「どうした?何か用か?」
「あ、……かおちゃんがハンカチを落としちゃったから、僕のを渡したんだ。新しいハンカチがないかと……」
「あぁ」
お父さんは、自分のハンカチを僕に渡してくれた。
「ありがとう」
僕は顔を見ないで外に出た。かおちゃんが、何も知らない表情で僕を見ていた。
僕は、お父さんのハンカチを握りしめながら、お母さんの化粧で赤くなったお父さんの唇が……頭から離れなかった。
招待席にかおちゃんと並んで座って開演を待った。演奏が始まる直前に、かおちゃんの隣の招待席にお父さんが座った。僕は、お父さんの隣じゃないことにほっとした。
演奏会は、ショパンのプログラムなのは知っていた。曲も知っていたし、お母さんがどう弾くかも知っていた。……知っていた筈だった。お母さんの演奏は、昨日までとは全然違った。昨日だって良かった。でも、何だろう?大人っぽいとか、ロマンチックな演奏と言うのだろうか……。僕が知らない世界だった。
僕のお父さんとお母さんは仲がいい。家でも手を握ったり、肩を抱いたりするのはしょっちゅうだ。でも、キスしているのを見たのは初めてだった。僕が知らないことがあるのだろうと、ぼんやりしながらも頭が冴えているような感覚でショパンを聴いた。
かおちゃんは後半になると眠くなるかなと心配したが、背中も寄りかからずに目を開いてステージを見ていた。あまりにも前に重心が来たから、お父さんが座席の後ろに沈めるように座らせた。それから、ポケットから飴を出して、音がしないように開けて、かおちゃんの口の中に入れた。そして、唇の前に人差し指を立てて、かおちゃんに「ないしょ」と静かに笑った。
僕はお父さんのことを格好いいと思っていたのに、複雑な想いでいっぱいになった。僕は小学校で、女子に告白されたことは何度もあった。言われなくてもそうなのかもしれないと思うことも、たくさんあった。でも僕はずっとかおちゃんが好きだから、誰にも返事をしなかった。
「誰か好きな人がいるの?」
と聞かれたら、いると答えた。
かおちゃんに、僕のことを好きになってもらいたい。かおちゃんが、僕のことを好きか知りたい。社宅だから、家もマンションの上下だ。僕は寝る時に、真上の部屋に寝ているだろうかおちゃんのことをいつも想っていた。
演奏会の後は、お父さんがかおちゃんの手を握って控え室に行った。僕は二人の後について行った。
お父さんが運転する車で、お母さんと四人で一緒に帰った。お母さんは助手席で安心したように目を閉じて寛いでいた。
僕も、早く大人になりたい。かおちゃんに心から信頼される存在になりたい。
かおちゃんのおうちに行くと、かおちゃんのパパが出てきた。かおちゃんは、僕のお父さんの手を離し、かおちゃんのパパに抱っこされた。僕は、パパに抱かれたかおちゃんの目を見つめた。
「かおちゃん、おやすみ」
「しんちゃん、おやすみなさい」
かおちゃんはにこっと笑った。
僕は、直ぐに自分の部屋に行くか迷ったけど、勇気を出してお父さんに聞いてみた。
「お父さん、……かおちゃんは、僕のこと好きかな」
お父さんは、笑った。
「かおりに、直接聞いてみたらいい」
僕は黙って自分の部屋に入った。
そんなこと、聞けない。
真上の部屋で寝ているだろうかおちゃんを想った。




