80子供時代〜テンペスト
これは、ちょっと嫌だった曲の想い出。
僕はマキシンイチ。当時、国立教育大学附属小学校の二年生。僕の名字の「マキ」っていう名前は女子にもいたから、友達には「シンイチ」って呼ばれていた。
家族にも「シンイチ」って呼ばれているけれど、少し前までは「しんちゃん」と呼ばれていた。僕のことを今でも「しんちゃん」と呼ぶのは「かおちゃん」だけだ。
「かおちゃん」の本当の名前は「ふじわらかおり」で、僕の住んでいるマンションの、上の階に住んでいる女の子だ。僕は「かおちゃん」と結婚するつもりでいる。まだ、誰にも言っていないけど。
かおちゃんのパパと僕のお父さんは会社が同じで、かおちゃんのママと僕のお母さんは学校が同じだから、それぞれ仲良しだ。だから、僕もかおちゃんも、自分の両親と相手の両親を間違えないように、呼び方を変えている。
僕の両親のことは、お父さんとお母さん。かおちゃんの両親のことはパパとママ。でも、僕はもうわかるから、かおちゃんのパパのこともお父さんと呼んだりする。
かおちゃんのお母さんは病気らしくて、ほとんど外に出てこない。
今度の日曜日は、かおちゃんの幼稚園で運動会があるらしいが、かおちゃんのお父さんは多分仕事だと、お父さんとお母さんが話していた。
「ねえ、あなた、かおりちゃんの運動会、私達家族で応援に行かない?」
「あぁ、そうだな。藤原さんは仕事で無理だろう。シンイチも一緒にかおりを見に行こう。かおりのこと、可愛いんだろ?」
僕は、もちろん見に行きたかったけど、何となく喜んで行くように見られたくなかった。
「……うん。ピアノの練習してからね」
「へえ?なかなか感心だな。流石、るり子の息子だ」
「久しぶりに、早起きしてお弁当をつくらなきゃね!何にしようかな~」
「かおちゃんにはメロンね」
僕は思わず口に出してしまった。ちょっと恥ずかしくなって、ピアノの練習をしに行った。
今はベートーヴェンの『テンペスト』の3楽章を弾いている。この曲は格好よくて好きだ。
日曜日。
僕は朝から『テンペスト』の譜読みを最後まで終わらせてから、体操服姿のかおちゃんの手をつないで、両親と一緒に幼稚園に行った。幼稚園の制服姿も可愛いけれど、赤い帽子を被った体操服姿も可愛かった。
かおちゃんは、僕の手をぎゅっとにぎってぶんぶんしながら、
「しんちゃんと、ようちえん。しんちゃんと、ようちえん」
と言ってごきげんだった。
僕は両親の前だから黙っていたけれど、嬉しかった。
僕は幼稚園も小学校も、男の子も女の子も同じ人数だった。かおちゃんの幼稚園は女の子だけで、小学校も中学校も高校も大学も女の子だけだということを知って、僕は驚いた。幼稚園に着くと、本当に女の子だけだった。皆、お父さんとお母さん、他の兄弟も来ていたから、本当は家族ではない僕も気にならなかった。
一番最初は、体操だった。僕もよく知っている体操で、幼稚園の女の子全員が並んだ。壇上には、ばら組の赤い帽子を被ったかおちゃんが立った。
「お?かおりは模範生か?」
お父さんがお母さんに囁いた。
「よく練習するから、ポーズが綺麗って先生方に褒められたらしいわよ?」
「そういえば藤原さん、毎朝10回かおりにつき合ってるって笑ってたよ」
「藤原パパ、偉いわね」
かおちゃんの体操は、ピアノの伴奏の音に合わせて、本当に綺麗な体操だった。
かおちゃんは、3月生まれだから年少さんの中でも一番小さいんだからねって両親から聞かされていたけれど、かおちゃんの誕生日くらい知っている。でも、年少さんの中でも特に小さいとは思わなかった。しかし、何となく、その意味がだんだん判ってきた。かおちゃんは子供っぽいんだ。いや、ここは幼稚園だし、年少さんだし、みんな子供だけど、その中でかおちゃんは、まるで、赤ちゃんみたいだった。
年少組は、ばら組とすみれ組の2クラス。年少組の先生は五人いて、そのうちの一人の先生は、いつもかおちゃんの近くにいて、何かと面倒を見ていた。かおちゃんはおとなしくて、だれかをいじめたり、迷惑をかけたりする子じゃなかった。ちゃんと先生の言うことを聞くし、お友達とも仲良くできる。ただ、何だかちょっと遅かったり、うまくいかなくて一人で何とかしようとして、すごく遅れたりしているみたいだった。かおちゃんの近くにいる先生は、かおちゃんのことを見守って、かおちゃんがどうしてもできないことを手伝ってあげて、皆が次に何をしているかを教えてあげていた。
二人組で何かする時は、かおちゃんの前にいる女の子が一緒だった。その女の子は、まるで先生のようにかおちゃんをさりげなく助けて、笑顔で一緒に行動していた。かおちゃんも始終にこにこしていた。
「あやちゃん、ありがとう」
かおちゃんは、その一つ一つにいちいちお礼を言って、そのためにまた遅れたりしていた。
僕はかおちゃんにピアノを教えているけれど、ピアノの前でずっと座っているし、誰かと比べたり、合わせたりしなくていいから、かおちゃんのペースで出来た。
毎日毎日見ているかおちゃんの、幼稚園での様子を見ることができて、何というか、よかった。
お昼の時間は、家族でお弁当を食べる。お母さんが、かおちゃんを迎えに行って、連れて帰ってきた。
さっきの女の子も一緒だ。
「かおりちゃんのおにいちゃん?」
「ううん、しんちゃん」
「かおりちゃんのおにいちゃんじゃないの?」
「うん。しんちゃん」
小さい女の子は、きちんと気をつけと礼をして僕に挨拶をした。
「こんにちは」
「こんにちは。かおちゃんのお手伝いをしてくれてありがとう」
僕はお礼を言った。
「どういたしまして。かおりちゃんはおともだちですから」
そう返されて、驚いた。かおちゃんと同じ学年の女の子で、こんなにテキパキとお返事できる子もいるんだ……。
お母さんと女の子のお母さんは知り合いみたいだった。
「じゃあ、また」
「えぇ、また」
僕たちだけになってから、お父さんが小さい声でお母さんに聞いた。
「るり子の知り合い?同窓生?」
「大学の小石川先生よ。ヴァイオリン科の。お嬢様いらっしゃったの?って驚かれちゃったわ。先生こそ、小さいお嬢さんがいらっしゃったなんて知らなかった」
「お互い、意外なところでって感じか。ほらかおり、頑張ったな。体操上手だったぞ!ほら、メロンだ」
お父さんはかおちゃんを自分の膝に乗せて、フォークに刺したメロンを持たせた。
かおちゃんは両手で受け取り、ぱあっと笑顔になった。
「あなた!メロンは最後にしようと思ったのに!もう~」
「いいじゃないか。かおりのペースで食べさせたら、メロンの前にお昼休みが終わっちゃうだろう。好きなもの食べさせようよ」
「それもそうね。こんなにいろいろ作ったのに~。シンイチ、たくさん食べてね!」
メロンが好きなのを知っていたのは僕なのに……。お母さんのお料理は、いつも、どれも美味しい。でも、今日はあまり味を感じなかった。かおちゃんは、お父さんの胡座の中でにこにこしていた。メロンの容器からフォークで上手に刺してお口に運んで、そのことに夢中だった。
かおちゃんがメロンに満足した頃、お昼休みの時間が終わった。本当にメロンをいくつかしか食べていない。
「かおりちゃん、たべおわった?」
「あやちゃん、メロンたべた」
「お父さんとお母さんとしんちゃんにいってきますっていって?」
「いってきますって」
僕たちは感心して見送った。同じ学年とは思えない……。かおちゃんは、さっきの女の子に連れられていき、ばら組の列に並んだ。
年少組の徒競走が始まった。かおちゃんは、年少組の中では背が高かった。かおちゃんは最後の列だった。「位置について。よーい、ドン!」の合図は、笛だった。かおちゃんは、勢いよく鳴らされる笛の音が怖いらしく、両手で耳をふさいで、隣にいてくれる先生に抱えられていた。
近くのお母さん達が話しているのが聞こえた。
「今年はピストルじゃなくて笛になったのね」
「うん、怖がりさんがいるみたいだからって……変更したみたいよ?ほら、あの子じゃない?」
「あぁ、前で体操していた子ね。上手だったわね」
「本当ね。あんなに美しい体操見たことないわ。うちの娘はピストルだろうが笛だろうが、聞かないうちに走り出しちゃうわ~」
徒競走は最後の列、……かおちゃんの番になった。かおちゃんは、耳をふさいで先生に抱えられていたままだった。
「位置について。よーい、ドン!」
笛が鳴った。かおちゃん以外の女の子は走り出した。かおちゃんを抱えていた先生は、
「もう、笛は鳴らないから向こうに走って?」
とか何か言ったのだろう。かおちゃんは頷いて、ようやく自分で前を向いて走った。ゴールの向こうに、さっきのテキパキした女の子をはじめ、たくさんのお友達や先生方が、かおちゃんに手を振って、かおちゃんの名前を呼び、おいでおいでをしていた。かおちゃんは、多分、……走るのは遅そうだ。もう皆ゴールしてしまって、誰もいないから比べられない。それでも、かおちゃんなりに一生懸命走っているのだということは伝わってきた。
年少組はそれでおしまいで、年中組と年長組のダンスが始まった。小さな椅子が並べられていて、かおちゃんは、一番後ろの列に座っていた。ばら組の先生も、かおちゃんの近くにいた。
ダンスはとても工夫を凝らした演目だった。楽しそうで、僕も見ていてわくわくした。年少組の皆は、立ち上がって見たがる子がちらほら出て、そのうちにほぼ全員が立ち上がった。先生方は、座って見るようにと優しく注意していた。一番後ろの椅子に座ったかおちゃんは、前のお友達が立ち上がったら見ることができない。なのに、かおちゃんは座ったままだった。かおちゃんの近くにいた先生も、前で立つ子の注意に加わった。
僕は、ちょっとだけかおちゃんがかわいそうになった。かおちゃんは見えないのに、立ち上がらなくて偉いなと思った。
「かおりちゃん、ちゃんと先生の言うことを聞いて座っていて、偉いわね」
「そうだな。俺の周りにはいないタイプだ」
「そりゃぁ、いないでしょうね」
「周りが放っておかないな」
「シンイチとか」
「シンイチとかね」
お父さんとお母さんが同時に言って僕を見た。
僕は、どんな顔をしたらいいのか困った。
帰る時に、お父さんがお母さんに言った。
「るり子、絵は?」
「あれは大学にあるの。残念でした」
「そうだったのか。見てみたかったな」
「今日みたいに、女子大生の保護者になれば?」
「そうだな」
かおちゃんは僕に手をつながれていたが、歩くのがだんだんゆっくりになっていった。お目目がくっつきそうだ。お父さんが、かおちゃんをひょいっとだっこした。
「……かおり、顔に砂がついてる。帰ったらお風呂だな」
「あら、入れてくれるの?」
「おぅ。かおり、おうちに帰ったらお父さんとお風呂に入ろう!るり子、遊ぶものある?」
「お風呂のおもちゃ?そんなものないわよ。それより、これじゃあすぐに寝ちゃうわね」
「そうだな。俺も眠いわ」
「あなたは何もしていないじゃないの!」
「いや、見ているだけで疲れた」
「小石川先生のお嬢様に呆れられるわよ?」
僕も呆れるよ……。
それに、お風呂って……。
僕は複雑だった。
何かを隠すように、僕は『テンペスト』を練習した。
かおちゃんはお風呂から上がって、リビングでお父さんがドライヤーで髪を乾かした。袖のない、かわいいワンピースを着ていた。
ドライヤーを置いたお父さんは、かおちゃんをだっこしたまま、リビングの床に転がった。
信じられないほど、すぐに寝てしまったようだ。かおちゃんも、お父さんにだっこされたまま……。パンツも見えてるし……。
「お母さん、かおちゃんに何か掛けてあげて」
僕はお母さんに声をかけて、練習を続けた。
お母さんは、お弁当箱を洗っていた手を止めた。
「やだ、もう寝ちゃったの?はやっ!あれじゃ風邪ひくわね。シンイチ、ありがと!」
お母さんは毛布を取りに行って、二人に掛けた。
お母さんは、口ではあんな風に言っているけれど、優しく毛布を掛ける表情は柔らかくて綺麗だった。
僕は見ないようにして練習を続けた。
「シンイチ、リビングじゃなくて防音室で練習しなさいよ!」
「起きないから平気だよ」
「確かに、朝まで起きないかもね」
朝までこのまま!?
僕は一瞬、朝まで練習しちゃおうかと思った。
朝まで練習した訳ではないが、……そんなわけで、ベートーヴェンのソナタ『テンペスト』の3楽章はいつでも暗譜で弾けるし、あまり思い出したくない曲になった。




