79子供時代〜聞けなかった言葉
幼なじみのかおりが僕のことを「しんちゃん」と呼んだのは、三歳と三日目のことだった。
その日は僕の誕生日だったし、初めての言葉が「しんちゃん」だったことが、とてつもなく嬉しかった。
かおりは身体検査で異常はなかったらしいが、言葉が出てくるのが遅いだけで、表情も豊かで、意思を示すことが上手になっていった。
僕が明るい曲を弾くと、かおりは笑顔になり、暗い曲を弾くと悲しそうになった。そして、明るさの種類や暗さの意味を変えると、その度に新しい表情をしてそれを聴いていた。
かおりのお母さんは病気だったから、昼間のほとんどを僕の家で過ごしていた。
僕は楽しかったし、嬉しかった。
母親が僕のことを
「しんちゃん」
と呼ぶ度に僕は手を止めて、
「はい」
と返事をしていた。
そうして、かおりは覚えたのだろう。
僕が「しんちゃん」であることを。
そして、僕が優しく手を握って
「かおちゃん」
と呼び、かおりの目を見つめたことで、理解できたのだろう。
自分が「かおちゃん」であることを。
僕は、母親から教わった家事を、かおりにできそうなことからやらせた。
僕は襟のついたシャツやズボンを畳み、かおりにはタオルやハンカチを畳ませた。
僕は野菜スープの鍋を混ぜながら温め、かおりには水を入れた鍋とレードルを渡して真似させた。
お皿を並べたり、スプーンやフォークを並べたり、使った食器を洗って拭いて、二人でできることが増えていった。
かおりが「しんちゃん」と呼んだら、僕は「はい」と応えた。
かおりに「かおちゃん」と呼ぶと、かおりは「はい」と応えた。
かわいくてかわいくてたまらなかった。
僕はたくさん話しかけた。
「かおちゃん、おいで?」
「本、よんであげようか?」
「りんご、たべる?」
「ショパン、すき?」
かおりは、その問いのどれもに、にこっと笑って、
「はい」
と答えた。
僕は聞いてみたかった。
「僕と結婚して?」
言えなかった。




