69予測できなかった事
音大の講師をしている母親が、女親の目線から僕に対して話をしてくれたが、僕だって楽しみだとか浮かれているばかりではない。
幸いなことに、それからも順調だった。時期的に流産の心配もなくなり、毎日の緊張感が少しだけ和らいだのが正直なところだった。
去年はかおりが、一昨年は僕がグランプリを獲った秋のコンクールで、平山は順当に上位の成績を以て2台ピアノでのコンチェルト審査の段階になった。
プログラムが彼の得意な曲調ばかりに偏っていたせいか、ここまでの成績は一位ではなく二位だった。かおりのコンクールでは、難曲ばかりを選択することができず、完成度と音色の美しさを武器に、少ないレパートリーから作曲家や時代背景、技術やスタイルになるべく偏りがないようにプログラムを組んだのは、ギリギリ正解だったのだろう。
学内コンチェルトのオケパートは教員である僕には権利がなく、かおりが弾いたが、コンクールでは僕が弾くことにした。平山には演奏以外の心配をかけられない。彼のキャリアにとっても大切なこと。平山もかおりも了承した。
今年のコンクール参加者は全体的に多く、上位者の人数も多かったため、2台ピアノのコンチェルト審査には例年10人だったところを20人が選出された。そのため、11月23日、24日の2日間に渡って行われることになった。1日に10人。平山が演奏するリストの『コンチェルト変ホ長調』は一日めの最後だった。
かおりは会場まで一人で来ると言っていた。今日は土曜日で、午前中にA氏のレッスンがある。会場でマヤちゃんと待ち合わせて一緒に聴くから、レッスン後、大学で少し練習してからコンサートホールに行くと言っていた。
僕は頻繁にメールをチェックしていたが、出番が近くなるにつれて、指定された部屋へ移動したり、音出しと最終確認をしたりしてステージ袖へ行き、携帯を見なくなった。
演奏は無事に終わった。平山との演奏に、心配なんて何一つなかった。真剣勝負であればあるほど緊張感が楽しくて、それでいて平山は、冷静さの中でギリギリの勝負を仕掛けていた。僕も、平山がどんな演奏をしても活かしてやれる、という態勢だった。平山が思い切り表現できるよう、いかようにも盛り上げることができた。かおりが教授のオケパートで最高のコンチェルトを弾いたように、平山も僕のオケパートに満足してくれただろうか。
僕たちは、息を切らしながらも笑いながらステージ袖に引き揚げた。会場は、ものすごい拍手だった。結果なんてどうでもいいくらい、気持ちよかった。お互いに全力を出した。抱き合いたいくらいだったが僕たちはスーツだし、兎に角暑かった。そして、四肢を投げ出して笑いたかった。
暑い!
控え室でスーツのジャケットを脱ぎながらタイを緩め、同時に携帯を開いた。
平山が、先輩器用ですねと笑った。
「本当にな」
僕は笑って携帯の履歴の内容を確認すると、……笑ったまま止まった。かおりからのメールが3件?少ないな。かおりが出かける時は、いつも行動が逐一わかるくらいのメールをくれるようになったのに。
「レッスンが終わった。ショパン全曲OKもらえたよ」
「今まで練習しました。事務室前のロビーです。これから会場に向かいます」
「大学を出ました。駅に着いたらまたメールします」
メールはこれで終わりだった。レッスン室、練習室、正門と、ほとんど動いていないじゃないか。どこの駅のことだ?履歴の時刻を見ると、大学のある駅のことを指したのだと思うが、かおりが駅についたメールはなかった。
それから、僕の母親からの着信がびっしり。何件だ?大学の緊急の用事だろうか?珍しいな。いつもはメールで済ませるのに。言った言わないで面倒なことになるからメールにしろと言うのは母親だ。
「ちょっと外で電話してくる。母親からの着歴がヤバい」
僕は、会場の外に出た。先にかおりに電話したいが、ここはビルに囲まれていて賑やかだ。母親の声なら聞こえるだろうが、これではかおりの声は聞こえないな。電話には向かなかったか。どうしよう。
……と、その時、向かいのビルのディスプレイにニュースが流れた。
「……それでは、都内での踏切事故の続報です。午後◯時◯分頃、◯◯区◯◯駅の踏切に乗用車が衝突し、通行人に重傷者が複数出た模様です。現在、事故の現場は……電車も復旧し……」
さっきのかおりのメールの着歴と変わらない時刻だ。見覚えのある踏切が映し出された。音大の近くの踏切だ。でも、音大生は駅まで行くのにあの踏切は使わない。音大からだと、2階にある改札には手前にある階段から行けるからだ。踏切の向こう側から行くのは改札まで遠回りだし。
あ……向こう側には改札までのエレベーターがあった。
かおり……。妊娠しているかおりは、もしかして僕が階段を心配するから踏切で向こう側の改札に向かった?向こう側の改札にエレベーターで行くつもりだった?かおりは妊娠9ヶ月に入ったばかりだった。痩せているかおりも、少しだけお腹もふっくらと目立つし、動作がゆっくりなので、電車では周りの人が座席を譲ってくれたりすると話していた。
かおり?なぜ僕に連絡をしない?こんなこと僕が考える必要はないよな?マヤちゃんとホールの中にいて、聴いてくれたんだろう?
ここは賑やかだったが、構わず母親に電話をした。母親はすぐに電話に出た。
「慎一、出番は終わった?」
「今終わったよ。電話、何?どうしたの?」
「本番前に電話するのは止めようと、時間は気にしていたの。終わったのね?」
「だから終わった。ちゃんと弾きました。僕も平山も」
「落ち着いて聞いて。かおりちゃんが、事故にあったの。音大近くの踏切で。赤ちゃんは無事。早産だけど大丈夫。元気な男の子よ」
「かおりは?」
「かおりちゃんは……」
「お母さん、かおりは!かおりは無事なの?」
母子共に危険な状態だった。通行人の何人かが巻き込まれた。駅前の密集地だった為か、救急車はすぐに到着しなかった。
かおりは、自分が妊娠していてお腹に赤ちゃんがいること、自分はだめでもどうしても赤ちゃんを助けてほしいと叫んだという。それを聞いて駆け寄って助け起こしてくれた男性は、救急車を待たず、すぐにかおりを抱いて、近くの総合病院に運んでくれた。総合病院ではすぐに緊急手術をしてくれ、母子共に助けようと、最善を尽くしてくれたそうだ。救急車を待っていたら、赤ちゃんも助からなかっただろうと。
僕は、携帯を持ったまま呆然とした。嘘だろ?後ろから平山が来たのがわかった。
「槇先輩?」
携帯からは、
「慎一!慎一?聞こえてる?」
母親の声が聞こえた。
平山が僕から携帯を取り上げて話し始めた。
「すみません、平山です。……はい。総合病院ですね……わかりました。僕も一緒に行きます。……はい、失礼します」
平山は自分の携帯で別のところに電話をした。
「お母さん、慎二です。すみません、緊急です。ホールにいるマヤに迎えを寄越してください。そして必ず家にいるようにと。事情は後で。すみません、お願いします」
僕は、何をしていいかわからなくなった。
「槇先輩、行きましょう。僕も行きますから」
平山は、通りかかったタクシーを止め、運転手と僕に待つように言った。平山は控え室から荷物を持ってきてタクシーに乗り込んだ。
総合病院は音大と駅の近くにある。通り道ではなかったが、大きな建物だったから見覚えはあったし、病院の名前も知っていた。平山が受付で聞いたら、看護師さんがすぐに案内してくれた。
案内されたところに行くと、待合室に母親がいた。僕と平山を見て、こちらに来た。
「慎一……、平山くんありがとう……」
何も言えなかった。
「……かおりちゃんは、……傷だらけで、もう……とてもあなたには見せられないから、……遠くにしてもらったわ。赤ちゃんはこっちよ。来て」
かおりを、僕に見せられないって、何……?
新生児集中治療室に案内された。少し離れたところからだったけれど、元気に手が動いているのが見えた。ベビーベッドの横に『ボクのママは藤原かおり』と大きく書かれたプレートがあった。
母親が静かに言った。
「赤ちゃんはしばらく保育器だけど、心配ないからって。かおりちゃんが助けを求めたのが早かったから助かったって。おとなしい子なのに、大きな声で助けを求めたそうよ。偉かったわね。連れてきてくれた方のところには、また後で御礼に行きましょうね」
僕は、いつ平山と別れたのかも覚えていないが、気づいたら実家のベッドだった。
朝起きて、横を見てもかおりはいなかった。
早起きだったかおりは、家で学校の勉強をしているのだろうか。
姿が見えない。
ピアノの音も聞こえない。
かおり……どこにいる?




