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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一


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68講師就任リサイタル


 先生……慎一さんが音楽大学の講師になってすぐの6月。


 雨が続いていた。


 大学内のホールでリサイタルに出演することになった。平日の夜、月曜日から5日連続で行われる。何れも、新しく講師になった5人のお披露目、というコンサートシリーズの初日だった。若い順かな、と慎一さんは言っていた。大学を卒業したばかりで講師になる人はいないそう。


 プログラムは、リストの『タランテラ』、『バラード』、ベートーヴェンのソナタ『熱情』。無料だし、観客はほとんどが学生だから、リサイタルとしては少し短めとのことだった。卒業試験で、年末にショパンの『エチュード』を全曲弾いて、卒業式に代表演奏でショパンの『幻想曲』を弾いて、また6月にこんな大曲をいくつも……常に次の曲、その次の曲と練習している慎一さんを見ているので、いちいち驚かない。本当に尊敬するばかり。


 慎一さんと結婚したばかりの私は妊娠していたが、具合が悪くなることもなく、まだお腹も目立たない。


 自由席だから、どこに座れるかわからない。慎一さんのお父さんとお母さんが一緒に聴こう、って言ってくれた。慎一さんとは幼なじみでもあったし、両親同士も仲がよかった。慎一さんのお父さんとお母さんにも可愛がって育ててもらって、本当のお父さんとお母さんだと思っている。



 演奏会当日、学内で慎一さんのお母さんと一緒にいた。大学講師でもあるお母さんは明るくて華やかで、とても目立っていた。たくさんの学生に話しかけられた。お母さんの門下生はそれほど多くないけれど、ソルフェージュのクラスの学生さんなのか、何だか人気者みたいだった。私は発表会に混ぜてもらっていたから、門下生の方々は私のことを知っている。慎一さんと結婚したことも。ただ、慎一さんは大学のアイドルみたいで、私は……私なんて……。目立ちたくなかった。



「お母さん、すみません。私……一人で聴いてもいいですか?」

「え?ごめんなさい、そうね。私といると落ち着かないわね。後で慎一の控え室で会いましょうね」


「かおり、俺と聴こうよ」

 ホールの入り口に来た時、慎一さんのお父さんが到着したところだった。


「ね、かおり」

「はい」


 慎一さんのお父さんも、私にとても優しくしてくれる。小さい頃からお父さんと呼んでいる。お父さんと聴くことにした。


 お父さんは、慎一さんと顔が似ていて、身長も同じくらい高かった。雰囲気は少し違うけれど、通りかかる人、すれ違う人、数えきれないくらい間違えられた。


「あれ?槇先輩?」

「さっきの、槇先輩だよね」

「槇くん?」

「槇先生!……あら、失礼。似ていらっしゃるから」


 その度に、相手に合わせて返事をしていた。そして、側にいる私のこともちらっと見られた。


「今、隣にいた人、誰だろうね」

「槇先輩って妹いたっけ?」

「もしかして彼女かな」

「結婚したって聞いたけど本当なのかな」


 私はドキドキした。何かわからないけれど、怖かった。



「お父さん、私……一人で聴いてもいいですか?」

「どうした?あぁ、確かに、俺といても目立つな。わかった。また後でな」


「ありがとうございます、すみません」

「いいよ、気をつけてな」


 お母さんから、満席になるようなことはないと聞いていたけれど、空席を探すのが大変なくらい、人がいっぱいいた。空席があっても、通路側ではない間の席に入っていくのは勇気が必要だった。一人で聴くって、こんなに怖いことだっけ……。慎一さんが大学生になったばかりの演奏会は、まだこんなに人気者じゃなかったからかな。それでも、たくさんの女の人に囲まれて、花束やプレゼントを向けられていた……。あ。私はまた何も持ってきていなかった。自分で自分にがっかりした。


 拍手が起こった。私は結局、客席に座れず、ドアの内側に寄りかかって聴いていた。


 慎一さんの演奏が始まり、私は夢中になって聴いた。鮮やかなテクニック。難所でも軽やかな音。濁りのない透明感のある響き。リスト本人より綺麗なんじゃないかって想像した。




 熱演……ものすごい拍手だった。


 私は、人がいない場所に行って休憩時間を過ごした。ずっと立っていたから、少しだけ疲れた。




 後半、同じ場所のドアから入ろうとしたら、ドアが重くて開けられなかった。私は焦った。さっきは開けられたのに。


 ドアの向こうではなく、モニターの音源から『熱情』が聴こえてきた。生の音ではないけれど、そのモニターを一人でゆっくり見ることができた。私は近くに行ってモニターを見た。リストとは違う、落ち着いた音色。思慮深い構成。ベートーヴェンの音楽の体現。モニターに触れてみた。画面越しに慎一さんに触れて、何だか嬉しかった。


 そうだ、演奏が終わる前に移動しよう。控え室に行ってもいいって言ってた。お父さんとお母さんとも待ち合わせてある。私は階段を降りて、そうっと舞台袖に行った。音響スタッフさんに静かにお辞儀をした。特に不審に思われなかったみたい。


 そこで演奏が終わって、前半の倍くらいの拍手になった。慎一さんは何度もお辞儀をして戻ってきた。


 戻ってくるなり怒っていた。

「かおり、座って聴けなかったの?どこで聴いていたか、ここから見えたよ。心配で……、いいから控え室で座っていて。アンコール、短いの一曲にするから」

 舞台袖から慎一さんが示した方に、様々な場所が画面に映し出されている。客席の中も、二階席の外のモニターも。離れていたのに、皆バレてる……。


 私は舞台裏の控え室に入った。慎一さんの鞄がある。朝着ていった洋服が掛けてあり、靴が置かれていた。アンコールは『献呈』だった筈だけど、……ショパンの『革命』をすごい速さで弾いて、あっという間に終わってしまった。あ、座っていないと心配させる。私は急いでソファに座った。心配させてしまったし、怒られるな。どうしよう。




 演奏が終わってしばらくしても、慎一さんは来なかった。お父さんが入ってきた。

「かおり、聴けたか?ん?どうした?元気ない?具合が悪い?」

 慎一さんもお父さんも、どうして……。私はうまく説明できる気がしなかった。でも、お父さんは私が言い出すのを待ってくれた。


「前半は、客席の中の、ドアのところで聴いていて、後半は、ドアが重くて開けられなくて、モニターを見ていたの。演奏が終わる時に舞台袖に行ったら、慎一さんに……みんなわかっちゃって、座っていなかったからおこられた……」

「あっちからも見えたなら、それは心配しただろう。慎一のことで、大変な思いしたのはかおりなのにな。体は大丈夫か?」

「……はい」


 そこへ、ノックというか物音がした。お父さんがサッと立ってドアを開けると、花束やプレゼントをたくさん抱えたお母さんだった。


「あ、あなた、ありがとう。慎一はロビーでお客様対応してるの。私が預かってきちゃったわ。学生の時は一切受け取らなかったみたいで、迷いつつ頂戴していたわ。もう社会人ですものね」

「スターみたいだな。慎一が控え室に来てたらますます大変だったな。ここで待つとするか。かおり?」

「……はい、私……私用意するの忘れちゃって……」


 私は泣きそうになった。


「かおりからはいらないだろう」

「そうよ!お財布一緒じゃない!」

「るり子、そういう問題じゃないだろう」


 お父さんとお母さんは、何か言い合っても仲がよくて、ちょっと笑ってしまう。


「ありがとうございます」

「そう、かおりは笑ってなきゃ」

「はい」


 慎一さんが戻ってきた。やっぱり花束とプレゼントをたくさん持っていた。


「あ、こっちにいてくれてよかった。お母さん、運んでくれて有り難う」

「いいえ、それより慎一!アンコール、予定と違うじゃない。どうしたの?しかも怒ってたでしょ!」


 慎一さんはそれには答えず、私の方を向いた。


「かおり、何故座って聴けなかった?」

「それは……」


 私はわざわざ言いたくなかったし、慎一さんが怒っているのが怖かった。


「慎一、そんな顔して聞いたら、かおりは答えられないぞ。いや、大変だったんだ。俺とるり子と一緒にいたら何か目立っちゃって、なあ、るり子」

「そうね。私の生徒とか、受け持ちじゃない学生からも何だか話しかけられて。あなたなんか、慎一に似ているから、たくさん間違えられたでしょ!かおりちゃん、ゆっくりしていられなかったと思うわ。ごめんなさいね」


 お父さんとお母さんが代わる代わる話してくれた。


「あぁ、そうなんだ。かおり、ごめん。悪かった。座っていられなくて何かあったらって、気が気じゃなかったよ。アンコールは『献呈』じゃなくてごめん。疲れた。着替えてくる」


 慎一さんは、控え室の中のカーテンの中に消えた。


 お母さんは頂いた物を持ち帰る為にまとめていたので、私も手伝った。





 タキシードからTシャツ姿に着替えた慎一さんが出てきた。まだ不機嫌なままだ。


「あー、暑かった。すぐシャワー浴びたい。お母さん、悪いけど、これ持って行ってくれない?」

「いいけど、全部?」

「全部」


 慎一さんはあっさりと答えた。


「いいのか?かおりからのプレゼントは?」

 お父さんが意地悪く聞いた。私、用意していないって言ったのに……。


「かおり?ないよね。かおりから物はいらない。ほらかおり、キスして。あ、お父さんお母さん、有り難う。またね」


 お父さんとお母さんはニコニコしながら荷物を持って出ていった。



 え……。


 私はわかる。


 これで、私からキスをしたら慎一さんは笑って抱きしめてくれる。手をつないで一緒に帰ってくれる。



 慎一さんが待ってる。




 私は、慎一さんが望むことをした。


 背中と頬に、慎一さんの手を感じる。



 幸せで幸せで、いつまでもこの部屋にいたかった。












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