67あたたかな休日
土曜日。
私は大学でのピアノのレッスンの日。今日はドビュッシーのレッスンが捗った。
携帯に、メールのランプがピカピカと光っていた。差出人は「槇」。私はまだ結婚したばかり。
「レッスンが終わったら連絡して。美術館に行こう。上野駅で待ってる」
まるで彼が話すような文面のメールに、思わず笑顔になった。
「はい、ありがとうございます。今レッスンが終わりました。上野駅に向かいます」
と返信した。
あと、もう一件メールした。返信は直ぐには来なかった。
上野駅に着くと、「かおり!」と言う声が聞こえた。低いけれどよく通る声。それに、彼は背が高いからすぐにわかる。
「お待たせしました」
「いいえ。レッスンお疲れ様、それ持つよ。楽譜がたくさん入っていて重いでしょ?」
と言って、さっと持ってくれた。
「ありがとうございます。一件だけメールさせてください」
私は短いメールを送信して、鞄の中に携帯を戻した。
建物の中に入ると、ミュージアムショップがあった。男性用のビジネスタイプのリュックがあって、目に留まった。お洒落で、程よい厚みのシンプルなお品だった。慎一さんが欲しいって言うかな?
「あ、あれいいな。買っていっていい?」
行動が速い。お店の人に「すぐ使うから」と言って、私の鞄ごと綺麗にリュックにしまってくれた。彼は背負って、私に両手を見せた。
「これで二人とも両手が空いた。ほら」
手を出された。えぇっと……。私が迷う暇もなく、手を握られた。ちょっと恥ずかしかった。
「歩くの、速くない?」
私は今、妊娠している。まだお腹も目立たない。彼が私を気遣ってくれているのがわかる。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
ちょっと照れる。恥ずかしい。
たまに、他の人にぶつかりそうになった時や、ちょっとした段差の時は、やさしく肩を支えてくれた。ものすごく恥ずかしかった。……慣れていない訳じゃないけれど、ううん、慣れていない。
下を向いていたら、今度は前に何かあったみたいで、急に体ごと引き寄せられて、抱きしめられた。私はびっくりして固まってしまった。
「かおりは、いつまでも可愛いね。昔から、ずっと変わらない」
……もうダメ……。
「……だって、あの……」
「わかったわかった。あのベンチに座ろうか」
座って、ちょっとほっとした。彼は自動販売機で飲み物を買ってきてくれた。
フルーツジュースとロイヤルミルクティーを手にしている。両方とも、私が大好きな飲み物だった。
「どっちがいい?」
私は、答えられないでいた。
「嘘だよ。両方ともかおりにあげる」
私は笑った。二つもいらない。
「ようやく笑顔になったな?」
「ごめんなさい、緊張しちゃって」
「謝らなくていい。両方好きでしょ?一口ずつ交互に飲む?」
私は声を出して笑ってしまった。
「しぃー!かおり、美術館なんだから静かに爆笑して?」
「む、無理です」
あ、笑ったらお腹が痛い。私は笑うのを我慢してお腹を擦った。
「かおり、どうした?……かおり!」
あ、気づかれた。私は何とか返事をした。
「しぃー!美術館なんだから静かに心配して?」
「む、無理です。……冗談が言えるくらいなら大丈夫か?」
「……ふぅ、うん。大丈夫、ごめんなさい。笑わせないでください」
「照れるし恥ずかしがるし、笑わせるのもダメか。ママになるのも大変だな」
「ごめんなさい。もう大丈夫」
私は立ち上がった。
「おんぶか?だっこか?」
「一人で歩けます」
「昔はひょいっとだっこできたのになぁ。体重は軽そうだけど、背が伸びたからなぁ」
「慎一さんも高いじゃない。……あ、ごめんなさい」
「いいえ。……あっちを見に行こうか」
私はまた手を握られて、ゆっくりとそちらに連れて行かれた。ちょっと複雑だったけれど、楽しかった。
「パパとも、よく来たんでしょ?」
「はい。小さい頃から、解説を一つ一つそのまま読んでくれました。その後、英語で読んでくれて、その後私にわかるようにお話してくれました」
「流石だな」
「慎一さんも優しいです」
「そう?嬉しいな」
一通り見終わった。
「移動しようか。疲れていない?予約してあるから、そこでゆっくり食事にしよう」
「はい、メールさせてください」
「どうぞ、はい」
携帯を取ってくれた。私は短いメールを送信して、彼に携帯を戻した。
「食事の前に、寄りたいところがある」
連れて行かれたのは、女性向けのドレスショップだった。いくつか選んでくれた中で彼が手に取ったのは、胸のすぐ下を絞って、斜め下に広がるシルエットの、クリーム色のワンピースだった。裾が花びらのようにカットされている。
試着室から出てきたら、彼は微笑んでくれた。
「どう?もう少しお腹が大きくなっても着られるかな。腕も動かしやすいから、ピアノ弾けるでしょ?あ、すみません、これに合う踵の低いプレーンパンプスか、バレエシューズを」
お店の人にいろいろ出してもらった。あと、こっそりと下着もお願いしてくれていた。
追加された、肩紐のないベージュの下着を着けた。少しだけ肩が見えるくらいに開いているけれど、ワンピースは落ちないし、下着も見えなくなって安心した。
試着室で着替えを畳んでいると、
「そのまま着せて行きます。カードで。他を包んで送っていただけますか?住所はこちらに」
という声が聞こえた。
靴はソフトなバレエシューズにした。お店の人が、少しだけメイクして、髪も部分的にまとめてくれた。何から何まで新しくしてもらったみたいで、ドキドキした。慎一さんは、何ていうかな。
私は、そうっと試着室から外に出た。
彼は優しく微笑んでくれた。
「かおり、綺麗だ。食事に行こう」
「はい」
レストランは、慎一さんがBGMを弾いているフレンチレストランだった。
「メールしてもいいですか?」
「どうぞ?」
いつの間にか、リュックは預けてあって、スーツの内ポケットから私の携帯を取り出した。私は短いメールを送信して、彼に携帯を渡した。
そう、今日は慎一さんが演奏する日。
プロポーズしてくれたレストラン。婚約した時にパパとママ、慎一さんのご両親と会食したレストラン。ここは、私が気軽に来られるようなレストランではない。私は嬉しかった。
「かおり、嬉しいの?まだ何も食べていないのに」
「はい、嬉しいです」
「可愛いね」
……そんなこと、言わないでほしい。どうしたらいいか、わからない。
「幸せでも、お腹はいっぱいにならないからね?無理しないで、多かったら残していいし、足りなかったら遠慮しないで教えて」
彼は、私に軽めのコースと、カフェインのない飲み物を頼んでくれた。
慎一さんの演奏は30分。素敵だった。お客様からリクエストがあって、あと何曲か弾いていた。あと一時間後に、もう一回30分演奏する。
私はもう幸せで、何だか申し訳ないくらいだった。早く戻ってきてほしい。
お料理は軽めにしたから、デザートを二皿も食べられた。
二回目のステージが終わって、慎一さんがこちらに来て、私達に言った。
「いらっしゃいませ。お父さん、ありがとうございます。かおり、美術館は楽しかった?」
「何だ、慎一。知ってたの?」
「かおりが逐一メールくれたから」
「慎一にメールしてたのか。俺がいながら」
私は何て言っていいかわからなかった。
「これ、お父さんに買って頂きました」
慎一さんは目を細めて笑った。
「綺麗だ。似合うよ。髪もメイクも……可愛くしてもらって。お父さん、ありがとう」
「じゃ慎一、交代。かおり、楽しかったよ。またね」
お父さんは帰って行った。
はぁ、緊張した……。
「かおり、疲れた?大丈夫?」
「……はい、緊張しちゃって」
「何が?」
「だってお父さん、慎一さんに似ているから」
「それは複雑だな。あんなオジサン相手にドキドキしたのか?」
「オジサンだなんて……お父さんはお若いし、慎一さんと同じようなこと言うから……」
「まぁ、まだ45だしな。しかし、オジサンどころか、もうすぐおじいさんだ」
レストランを出る時に、支配人からリュックを渡された。
「槇様、誠一様からこちらをお預かりしておりました」
「何これ?」
「あ、私の楽譜が入っています」
慎一さんは、中身を確認した。
「そうなんだ?……あ、本当だ。いい鞄だ。僕がもらっていいのかな。支配人、またよろしくお願いします」
「ごちそうさまでした」
私も挨拶をした。
帰ろうとすると、慎一さんが、支配人にそっと呼び止められた。ピンクの携帯を渡されている。
あっ!私の?お父さんに渡したままだった。
「何でお父さんに携帯を渡した?」
「……両手が空くようにって、私の鞄ごと鞄に……」
「それで?手を繋いで歩いたの?」
「……えっと、はい……」
「転んだりしなかったのならよかった」
慎一さんは、ちょっと怒ったみたいだった。
「帰りは僕と手を繋いで?ほら」
「はい」
「両方。そっちも」
「えっ?あ、歩きにくいのでは?」
「嘘だよ、片方でいい」
私は何かを思い出して笑った。私はようやく安心して手を握った。慎一さんの手だから。
「かおり、今何を思い出して笑った?」
「お父さん」
慎一さんは、もっと怒ったみたいだった。
「もう少しくっついてくれるかな?お父さんにはしないくらいに」
私は、慎一さんの手を両腕でぎゅっと絡みつかせて、背伸びして伝えてみた。
「おうちに帰ったら、甘えさせてください」
慎一さんは、ようやく私に優しい目を向けてくれた。
「かおり、背伸びしちゃダメだ」




