65ずっと言いたかった言葉
僕は大学を卒業と同時に、……正確に言うと、もう少し早くに結婚して家を出た。
久しぶりに父親が外で会わないかと言ってきた。久しぶりといっても、卒業してから数ヶ月もたっていない。
僕は、父親が苦手だったわけではないが、あまり話さなかった。僕は音楽大学の講師になった。商社勤務の父親とはタイプも違うし、あまり共通の話題もないと思っていた。
父親は、雰囲気のいい店に連れていってくれた。
「父親と食べて帰る。かおりを一人にしてごめん」
妻にメールを送信した。
「何か用?」
僕は単刀直入に聞いてみた。
「用はない。たまにはいいだろ?」
「はい」
僕達はしばらく何も言わなかった。沈黙は気まずいものではなかったけれど、聞きたかったことを聞いてみた。
「お母さんとは、何で知り合ったの?」
「俺達?知らなかった?るり子も言わなかった?」
「はい」
るり子というのは僕の母親の名前だ。
「……言いたくなければ、別に」
「いや、何も隠すことはない。るり子、綺麗だろ?」
僕は返事に困った。母親は見た目が派手だ。明るくて真面目で優等生だけど、母親だと煩い。
「黙るなよ。るり子は綺麗だし、かおりは可愛い。俺達は好きな仕事をしている。最高だな」
「そうですね」
僕は無理矢理答えた。
父親は、楽しい話でも思い出すように、ゆっくり話してくれた。僕は初めて聞く話だった。
入社してすぐ、上司の藤原さんが、るり子のピアノリサイタルに連れていってくれた。悦子さん……藤原さんの奥様も一緒だった。あの時も可愛らしくて綺麗な人だった。俺は、仕事で面倒を見てもらっている藤原さんにすごく憧れていた。藤原さんは俺より10才も年上だし、落ち着いていて、男としても余裕があるっていうのかな。奥様を大切にしている様子を間近で見て、ますます尊敬したんだ。悦子さんは絵が好きで、ピアノを弾くお友達……るり子と仲良くしている話を聞いて、人間として、こういう人達と一生お付き合いしたいなと思った。
俺は、教養としてクラシックの名曲は割りと知っていると思っていた。それなのに、プログラムに知っている曲は一曲もなかった。所謂、有名な曲ばかりのプログラムだったら、俺はそんなに興味を唆られなかっただろう。国際コンクールのために用意した曲目だということは後で知った。……演奏前に解説を読んだ。るり子が書いたという、その文章も知的で良かった。演奏を聴くのが楽しみになったし、演奏を聴けば音楽への情熱に惹かれた。
プログラムに掲載されていた、るり子の写真も綺麗だった。演奏後、楽屋を訪ねて藤原さんに紹介してもらった。肌の色とか、色っぽかったし、余所行きの写真よりずっと生き生きしていて綺麗だった。すぐに言った。
「素敵でした。付き合ってほしい。だめ?」
「……私は普段練習があるし、男性と……お付き合いしたことはありません。遊びなら、お付き合いできません」
普通に断られた。断られたのは初めてだったけど、全然気にならなかった。
「真面目に言ってる。あなたの、解説文章も演奏も、音楽に対する姿勢も素敵だと思ったから。それに、友達思いのところも」
「……悦子のこと?」
「そう。お互いに、素敵なお友達なんでしょ?」
「……そうなの。そんな風に言ってくれるなんて……」
るり子は初めて俺に微笑んでくれた。
俺は、心から祈るように聞いた。
「連絡先を教えてください」
「……はい」
「まぁ、こんな感じ?」
「ふうん……て、ちょっと待って。入社してからって大学卒業してすぐ?22才?僕が生まれたのって、お父さんが23才の時でしょ?早すぎない?」
「あぁ、直ぐ出来たから。嬉しかったよ?そろそろ帰るか」
「お母さんの国際コンクールは?出られなかったの?怒ってなかった?」
「それは知らない。受けてないな。こんなイイコが授かったし、娘もできて、最高だよ」
「かおりは娘じゃない!」
「もう、本当の娘だ」
僕は、今更ながら急に恥ずかしくなった。
「父親がそんなだったなんて、僕はかおりのお父さんに軽い男だと思われなかったか心配だ……」
「大丈夫!二人を見れば、何もしてなかったことくらいわかるさ」
僕は絶句した。
それなのに父親は平然と言う。
「かおりが高校卒業と同時に結婚するのも、早すぎるだろ?」
「僕はかおりが生まれた時から決めていたから、早いとは思っていない」
「俺も、自分が早いとは思っていない」
僕は言い返すのをやめた。
そして、何かを思い出したように父親は言った。
「かおりのお母さんの絵は見たか?」
「絵?」
「大学に飾ってあるらしい。機会があったら見てみたいと思っていた」
「もしかして、玄関に飾ってあった……あれが?今から行こうよ」
「大学にか?不審に思われないか?」
「普通にお願いすれば大丈夫だと思うけど」
「女子大なのに大胆だな。誰に似たんだか?」
夜だったが、かおりの女子大の守衛さんには、学生の保護者で、玄関に飾ってある絵を見せてほしいと話すと、直ぐに案内してくれた。
僕達は、かおりのお母さんが学生時代に描いたという絵を鑑賞した。
「僕は、午前中の自然の光の中で見た。もっと綺麗だった……夕焼けの中でも見てみたい」
僕も父親も、美しいものが好きなんだ。
代えられない価値観が同じだった。
「慎一、パパになるんだろ?おめでとう」
「ありがとう。僕も、お父さんみたいに格好いい父親になりたいと思っている」
ようやく言えた。
そう、ずっと言いたかった言葉だった。




