64ずっと支えになっていた言葉
大学でのピアノのレッスンを終えて、事務室に『槇るり子』と書かれた名札を返却した。大学院を目指す学生のレッスンは、最後のコマだし、いつも規定時間を超過してしまう。一度、守衛さんが見回りに来たこともある。あれは確かにやり過ぎた。
特別扱いも良くないとは思いつつ、伝えたいことがたくさんあって長くなる。学生が自ら考える前に全て教えてしまうのも良くない。指導者として、まだまだ未熟で落ち込みそうになる。
息子の慎一は、教えるのも上手い。自分を反面教師にされるのは悔しいけれど、同じ音楽の世界にいてくれるのは嬉しい。慎一は、この春から同じ大学の講師になった。大学院に行くか留学するか、何と相談してくれるのか楽しみにしていたのに、いつまでたっても何も相談してこなかった。まさか、大学卒業後に講師になるとは。そもそも大卒で直ぐに講師になれるなんて知らなかった。慎一は、講師採用に関する応募規定を読み、何年も前から準備していたと言う。だからって、日本ピアノコンクールでグランプリ……本当に獲ってくるとは思わなかった。
小さい頃から手がかからなかった。もちろん、細やかに手をかけて育ててきた……子育て期間は楽しかったな。慎一は本当に可愛かった。
慎一が産まれて数年後、私の大好きな友人の悦子のところに女の子が産まれた。それからというもの、私達の家族も生活が変わっていった。生きていくことが楽しくなった。留学することを夢見ていたけれど、いつしか忘れていたくらい。
悦子は幼稚園から高校まで同じ女子校だった。私は音楽大学へ、彼女はそのまま上の女子大学に進学した。悦子はおとなしくて、心が綺麗で、嫌な気持ちにさせられたことは一度もない。いつも鉛筆で絵を書いていて、私はそれを見守るのが好きだった。
でも悦子は、皆が普通にできることが難しく、何かにつけてとてもゆっくりだった。私は子供の頃から活発だったし、悦子のことが大好きだったから、たくさん手伝ってあげた。今思えば、それが悦子のために良くなかったのかもしれない。
悦子のところに産まれたのは、女の子だった。息子の慎一を連れていったら、それはそれは気に入った様子だった。私が行けない日でも一人で行くと言う。
ある日、私は慎一にお花を持たせた。
「今日はママは行けないから、このお花を悦子さんに差し上げてくれる?」
慎一はそれを両手で持って、ウキウキと悦子のいる病院に出掛けて行った。
慎一が帰宅すると、練習している私のところに走ってきた。
「お母さんお母さん!お花をさしあげたよ!いいかおりでしょ?って。そうしたら、かおちゃんのお父さんがかおりにしようって!」
「えっ、なあに?かおちゃん?お父さん?藤原さんのこと?」
「赤ちゃんの名前を、かおりって!いっしょにきめたの!かおちゃんてよぶんだ!」
「かおちゃんね、わかったわ」
どうしてスーツを着ているの?発表会のために誂えたスーツだった。格好良くしたかったのかしら?背も伸びた慎一が、急に男の子っぽくなったように見えた。
慎一はこの4月に年中組になる。毎年、慎一の誕生日に発表会を開催していた。今年は五才か……。慎一は手も大きいし、『エリーゼのために』を弾かせることになっている。もう、随分前から弾けている。でも、何か違う。大きく弾けばいいんじゃない、速く弾けばいいんじゃない、そういう音じゃない。慎一はレッスン態度も悪くない。真面目に練習もする。だからこそ、これでは私の師匠のレッスンを受けさせるのは無理だ。どうしたらいいのだろうかと密かに悩んでいた。
発表会と言っても、当時の私の生徒は音楽大学受験生が数人、音楽高校受験生が数人と、音大の学生だった。我ながら面倒見は良かったから、受験生は全員合格した。入学後は自動的に私の生徒になり、評判が良かったみたいで、受験生の問い合わせも多かった。問い合わせてくださった方には、この発表会を見に来てもらうようにご案内していた。
そのような会だから、発表会に参加する子供はいない。一番最初に慎一を出演させて、皆さんに可愛がってもらい、慎一にも受験生や学生の演奏を聴かせていた。
慎一が『エリーゼのために』を弾く出番が来た。
朝も練習させたけれど、綺麗な音色にはならなかった。昨日もそうだったし、急に無理よね。受験生の指導は上手くできても、息子の演奏がこれでは……と、気が滅入りそうだった。慎一は何も悪くないのに。
客席の後ろのドアからお客様が入ってきた。慎一は気が散らないかしらと心配になった。開演時刻を過ぎて、こんなギリギリに入るなんて……とそちらを見ると、赤ちゃんを抱いた藤原さんだった。慎一もわかったみたいで、一瞬止まった。
慎一は緊張していた。私はそんな慎一を初めて見た。正確だけれど、いつもガチャガチャと速く乱暴に弾く慎一。今日は、そんな慎一はどこにもいなかった。
それはもう、最初の一音から違った。ううん、弾く前からわかった。その表情、スローモーションのように鍵盤に引き寄せられる指先、掠れるような、切ない響き……。私は、知らない間に涙が落ちていた。
客席もざわめき、ステージ袖にいてくれたスタッフさんも、生徒さんも保護者様も、会の進行も遮って、慎一の演奏を素晴らしいとほめてくれた。
私は、演奏後に戻ってきた慎一を泣きながら抱きしめた。
「どうして?そんな……何に気をつけて弾いたの?」
慎一は、私にきつく抱きしめられながら教えてくれた。
「かおちゃんがびっくりしないように。一番後ろにいたかおちゃんに、きれいな音をとどけるように。かおちゃんに、すてきな曲をきかせたいから」
私は今まで、何を教えてきたのだろう。正しい音と正しいリズムしか教えていなかったのだろうか。慎一に、私の音楽への情熱は何も伝わっていなかったのだろうか?たくさんの音楽を聴かせて、たくさんの本を読んで聞かせてきた……。
私は、かおちゃんに心から感謝した。かおちゃんを連れてきてくれた藤原さんにも。
帰宅しても放心状態だった私には、夫が帰宅したことに気がつかなかった。
「どうした?るり子?何か上手くいかなかったのか?」
「……慎一が、すごく素敵に弾いたの」
「いつもちゃんと弾いてるだろ?それが何で、るり子にそんな顔をさせているの?」
私は黙って発表会のビデオを見せた。この小さい画面で、この機械の音質で伝わるかしら……。
「えっ、これが慎一?……いつもと全然違う。何があったの?」
わかってくれた。
「マキくん……」
音楽家じゃなくてもわかってくれる夫で、私は嬉しかった。
「慎一が、かおちゃんが来てくれたからって……」
「きっかけはかおちゃんかもしれない。でも、るり子が育てた、俺達の自慢の息子だ。愛情をもって、時に厳しくするのは大変なことだ。いつも、ありがとう」
私はマキくんに、ありがとうと伝えた。




