58選択
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
昨日、先生が突然弾き始めたブラームスのヴァイオリンソナタ。3楽章が、たまらなく惹かれた。メラルティンの『雨』も好きだけど、この曲も、胸がしめつけられるよう。
私は小石川先生……マヤちゃんのお母様に引き留められて、レッスン室に二人きりになった。
「……あの、突然聴講させていただいて、……大変申し訳ありませんでした。ご迷惑にならないよう、お部屋の外から聴くつもりだったのです。ブラームスが聴きたくて……ヴァイオリンの音も聴いてみたくて……」
「いいのよ。マヤから、あなたが元気がないって聞いて心配していたの。そんなに思い詰めたお顔をしたお嬢さんを、レッスン室の外に置いておけませんよ。音楽のことなのでしょう?」
「……マヤちゃんが、……マヤちゃんは、いつも私のことを気にかけてくれて……」
「どうしたの?槇君にも、槇君のお母様にも言わないから、たまには全然違う人にお話してみたら?」
「……ありがとうございます。うまくお話できませんが、……ピアノが、弾けないんです」
「リサイタルではちゃんと弾いていたわよ?素晴らしかった。その後からなの?」
「……はい。リサイタルは、先生と教授に長い時間をかけて教えていただいたプログラムだったので……。私、全然弾けないんです。すぐにわからないし、すぐにできないし、悲しくて……」
「A先生は教授のレッスンとも槇君のレッスンとも違うでしょうから、まだ慣れていないのね。教授のことも辛かったものね。頭で理解したつもりでも、心はまだついてきていないのかもしれないわ。あなたは優しい子だから」
「……慎一さんには、……全てにおいて助けてもらっていて、……それなのに、ピアノが弾けないなんて、……本当は、弾きたい曲もたくさんあるんです。……でも、どうしたらいいのかわからなくて」
「あなたが、どんな選択をしても、槇君はあなたの味方をしてくれる。大丈夫よ」
「……私が、……どんな選択をしても?」
「その選択は、あなたが決めていいのよ?音楽が好きでしょう?」
「はい」
「マヤの大学の入学式で、あなたのお母様が描かれたという絵を見ましたよ。素敵でした。フランスの絵画コンクールで入賞されたものだと伺いました」
「私はあまりよく知らないんです。対になった絵が家にあって、私も大好きです。パパも両方好きだって」
「お母様は、今も描いていらっしゃる?」
「はい」
「あなたのお父様も、それを見守っていらっしゃるでしょう?お父様は、お母様を家に閉じ込めているわけではなくて、誰にも邪魔されずに絵を描けるようにしているのでしょう?」
「あ、……そうだったんですね」
「あなたも、あなたが好きなことをしていいのよ?」
「……こんなにできないのに?」
「できるかできないかじゃないのよ?」
「……え、あの、」
私は、まだまとまらない何かを言おうとした。
「後は、槇君に自分でお話できる?」
そうだ。私はそれを先生に、慎一さんにお話するんだ。
「はい」
小石川先生は、にっこりとして言ってくれた。
「マヤも私も、あなたのことが大好きよ」
今はここにいないけれど、幼稚部からずっと一緒だったマヤちゃんも言ってくれた。
「かおりのことが大好き。いつも忘れないで」
私は、小石川先生に伝えた。
「ありがとうございます」
マヤちゃん、ありがとう。
パパ、ママ、ありがとう。
先生、ありがとう。
レッスン室の外に出ると、少し離れたベンチに先生がいた。
「先生、……聞こえた?」
「かおりの小さい声が、防音室の外まで聞こえるわけがないだろう。今夜、ベッドで聞かせてもらうから、もうピアノの下で寝ないこと。今日は体中が痛いよ。かおりは平気?」
おこられた。
「……先生は、どうして私を束縛しないの?」
「かおりの良さがなくなるから」
先生は優しい目をしていた。
今夜は、逃げないでちゃんとお話しようと思う。




