59二人の決意
『雨の歌』初回合わせの夜。
僕は、レストランのBGMの仕事にかおりを連れていった。
今日の夜のステージは、クラシックをメインに弾く予定だ。かおりにも聴いてほしかった。僕の仕事を見て某か学ぶことがあればいいし、かおり自身が弾きたい曲を見つけたりするのに役に立てばと思った。
平山の結婚式でピアニストA氏と挨拶した後、かおりが話さなくなったことを思い出した。あれは、何だったんだろう。僕の思い過ごしだろうか……。
帰りに、デート気分でレストランの上にあるホテルの庭園に誘った。
「かおり、長い時間聴いていてくれてありがとう。どうだった?」
「うん。慎一さん、素敵だった……」
かおりはにこっとしたが……心から笑ったようには見えなかった。
「ありがとう。……何か言い足りないことがある?」
「……え……でも……」
「いいよ。言ってみて?」
かおりは、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、弾いてみたい曲がたくさんある。今まで勉強が優先だったから、レパートリーも経験も少ないのはわかってる。コンクールで良い評価をいただけたのは、先生や教授のレッスンを受けられて、環境が良かったからなのもわかってる。……私自身の実力なんかじゃない。特待生って、期待してくださってるのもわかってる。慎一さんも、私をもっと伸ばそうとして、こうして勉強させてくれてるのも、わかってる。いつまでも勉強するってことも、わかってる。私もピアノが好き。……でも、私には、とても出来そうにない曲、死ぬまでにできるかどうかわからない、たくさんの曲、あきらめられない曲、あきらめられない気持ちを、どうしたらいいのか……わからない……」
話してくれて嬉しかった。
「僕も同じだ。皆そうして生きていくんだ。素晴らしい曲を遺した作曲家だって、そうだったはずだ。もっと創りたかったはずだ。バッハの音、ベートーヴェンのフレーズは、聖書の言葉と同じだ。そうして、先人達が遺したものを、受け継いで、憧れたまま、僕たちは生きていくんだと思う。それを、苦しみと思わないで?一緒に勉強していこう?」
「……私は……あの……本当は……学歴も入賞歴もいらない。誰に認めてもらえなくてもいいの。今まで、まわりに導かれてここまで来られたのは、いやだったことはないし、幸運なことだと、思ってる……けど」
僕は、かおりの両手を優しく握り、かおりを見て殊更ゆっくりと言った。
「うん。わかるよ……かおりは、本当は何が言いたい?かおりは何がしたい?」
「私は……私は……慎一さんがいてくれれば。慎ちゃんがいてくれれば……」
これは、単なるスランプなのだろうか。どうしようもない気持ち。すごいピアニストなんて、世の中にはいくらでもいる。僕だって、教授の練習を聴かせてもらうだけで、その凄さと美しさに何度やめようと思ったか知れない。レッスンで要求されることの高さに、どれだけ絶望感を抱いたか知れない。かおりが音楽を吸収していく様に、何度嫉妬したか知れない。生涯弾き続けていくことがどれだけ大変か、当然僕はまだわかっているなんて言えない。
それでも、やめようと思ってやめられるのか。そもそも、続けたくても叶わなくなる可能性の方が大きい。やめるのか、やめられるのか、続けていけるのか……考えたくない。
音楽にはそれだけの魅力があり、僕はそれに取り憑かれている。かおりは、そうではないのか?一時的なスランプか?いや、少し前からだったな……。かおりは今、辛さを感じているのだろうか。
……どうしたらいい。
教授、僕は男として、かおりの師として、どうしたらいいですか。
未来に行って、未来の自分に聞きたい。
僕は今、どうしたら?
ホテルの庭園は夜風が冷たくなってきていた。
僕は、きつく握りしめた手の力を抜き、かおりの顔を両手で包んだ。頬は冷たかった。
「車に戻ろう」
かおりを促した。
抱きしめたい…………。
僕の誕生日に、ホテルのスウィートのチケットを準備し、ママになる覚悟があったというかおり。あの時僕は、すぐに返事をすることが出来なかった。
そして今も……。
抱きたい。しかし僕は23才になったばかりだ。僕の父親も23才で父親になっている。母親の方が年上とはいえ、若い。僕の父親は、周りの友達のお父さん達と比べていつも飛び抜けて若かった。僕とは違って覇気に溢れた父だった。ちょっとやんちゃ風で、職場では上司に……かおりのお父さんに可愛がられていたようだ。そして、格好良かった。
僕もいずれ子供はほしい。かおりは僕に似た男の子がほしいと言った。僕は男の子でも女の子でもいいし、一人でも二人でも三人でもいい。音楽をやらせたいという夢もある。きっとかおりが優しく教えるだろう。僕が2才のかおりに教えていたことが、ついこの間のことのようだ。
僕は迷っていた。入籍したのは2月末だ。一緒に暮らし始めてまだ1ヶ月と少し、2ヶ月もたっていない。まだまだ二人でいたいし、まだまだ二人でいられるものだと思っていた。かおりにも、大学生活で学ぶことも楽しいこともたくさんあるはずだ。かおりの大学卒業を待って、一緒にフランスに留学することだって考えていた。当然のように、子供はもう少し後でいいと思っていた。
生理痛だったかおりの辛そうな横顔が頭をよぎった。あの姿も見たくない。かおりの辛さは、みんなみんななくしてやりたい。
かおりはずっと自然のままで健康だった。メイクもしない、着飾ったりもしない。食べ物でさえ調味料をほとんど使わず、薄味というよりは素材で調理しただけの味を好む。あんなに痛がっていても生理痛の薬さえ飲まないかおりに、避妊薬を飲ませることなど考えられない。否、そっちじゃない。僕は逡巡した。
もう、男の僕が決めることなのだろうか。
何も言えないまま家に着いた。
いつものように、僕が先にシャワーを浴びた。
かおりがシャワーを浴びている時間に、寝る支度を整える。明日の朝食の準備、翌日仕事で使うものの準備、明日練習する楽譜、手帳を見て予定の確認、メールチェック……。それから寝室の照明を落として間接照明だけの明るさにした。
僕は、バスルームから出てきたかおりの長い髪をドライヤーで乾かしながら聞いた。
「かおり、いつも何日で次の生理になる?」
「……いつも……27日か28日」
僕は密かに頭で計算した。こんな足し算だか引き算だかわからないが、したことはなかった。知識として知っていただけだ。
え、今日はちょうど……。
1月生まれになる。
本当に23才で僕が父親になる?
いいのか?
ドライヤーを止めた。
僕は、鏡の中のかおりを見つめた。
かおりは、鏡の中に映る僕を見ていた。
鏡の中のかおりは、直接見る表情よりも大人っぽく見えた。
「弾きたい曲が弾けないことより、慎ちゃんのママになれないことの方が、あきらめられない」
「わかった」
僕はいつも必ずしていたあることをせず、そのままかおりを抱いた。




