57雨の歌
かおりの大学の入学式後のある夜。
僕の携帯に、知らない番号からの着信ランプが光った。
僕は、練習の手を止めて通話した。
「もしもし、槇です」
「今晩は。槇先生ですか?私、ヴァイオリンの小石川でございます。今、お時間よろしいかしら」
「小石川先生、お世話になっております。はい、大丈夫です。ご用件は」
「実は、私の生徒が外部のコンクールに出場するのに槇先生に伴奏をお願いできないかと。本番は◯月◯日、場所は◯◯◯ホール。曲はブラームスの『雨の歌』、合わせは急で悪いんだけど明日◯限に◯号室で。検討していただけるかしら?」
「わかりました。これからさらいますので、明日合わせてみて、お返事させていただいてもいいですか?」
「ありがとう。◯◯先生がちょっと無理そうなのでね……、いいお返事を期待しているわ」
『雨の歌』か。楽譜の棚にあった筈だ。短期間での合わせにコンクールか。大丈夫かな。小石川先生の生徒ならかなり弾けるだろう。引き受けたい。
楽譜はすぐに見つかり、本番で弾くことを前提にして練習を始めた。
一番練習が必要なのは3楽章だ。『雨の歌』……。雨の音だ……。音質を揃え、ひとまず一定のテンポで弾けるようにしよう。
しばらくの間、かおりのことは忘れてさらっていた。明日の午後……。明日の合わせはともかく、コンクールまではもう少しある。現在他の仕事は特段忙しいわけではない。ヴァイオリンのソナタはやりがいがある。
集中してさらった。
……あ、もうこんな時間か。かおりはどこだ?
「かおり?」
リビングにいない。バスルームは使ったみたいだ。寝室にもいなかった。えっ?……どこだ?
もう一度リビングに戻ろうとすると、僕が弾いていたグランドピアノの下で丸くなって寝ているのが見えた。ずっと僕の近くにいたのか。灯台もと暗し、だな。
「かおり、何でこんなところで寝てる?風邪ひいたら困る、ほら」
僕はピアノの下にもぐって、かおりの肩を揺すった。
ソファに寝ていたのなら抱き上げてやれるが、グランドピアノの下から引きずり出すのは……。
かおりは動かなかった。
僕は枕と毛布を持ってきて、ここで一緒に寝ることにした。寝る態勢が出来ると、かおりが気がついたみたいだった。
「……ここで聴いてたの……」
「何でこんなところで?」
「……よく聴こえるから」
「どのくらい聴いていた?」
「……ブラームス……」
「あぁ、小石川先生に伴奏を頼まれた。やるって返事するよ」
「……素敵な曲……」
「そうだね。寒くないか?」
僕は、かおりを抱き締めて眠った。かおりも自分から僕に寄り添って、ぴったりとくっついてきた。僕はとても満足して眠った。
翌日。
打診されてから僅かな時間だったが、本番の速さで止まらずに弾くくらいにはした。コンクールまではもう少し時間がある。細かいことはレッスンで一緒に仕上げていこう。こんなに短期間で合わせるのは、ちょっと緊張するな。
僕は、小石川先生のレッスン室に5分前に到着した。
既に部屋の中にいたヴァイオリンの生徒は、準備していた手を止めて僕に挨拶をした。彼のことは見たことがあった。ヴァイオリン演奏科四年生のトップで、高橋が試験で伴奏していたことがある。高橋は今年四年で、コンチェルトオーディションと外部コンクールと大学院入試に卒業試験と、盛り沢山だ。代わりの◯◯先生よりは……確かに僕の方がいいかもしれない。
何だろう?上手い下手の問題ではない。アンサンブルとして、相手のいる音楽はソロとは違う。高橋……今は平山だが、平山もかおりもタイプは違うがアンサンブルは向いている。◯◯先生は、……ソロの印象が強い。僕はどうだろうか。小石川先生なら忌憚のない意見がもらえそうだ。真剣に取り組むとしよう。
再度の調弦が終わった頃、小石川先生が入ってきた。
「どうぞ、入って」
小石川先生が、後ろにいた誰かをレッスン室に入るよう促した。
少し遅れておずおずと入ってきたのは、かおりだった。かおりは僕に何か言われると思ったからか、下を向いて居心地悪そうにしていた。
聞きたいことはたくさんある。大学の授業は?何故ここが……昨日の電話を聞いていたからか。否、それは後だ。今はレッスンだ。僕は表情を変えずに、自分のやるべきことに集中した。
小石川先生のレッスンはとても濃密だった。僕の伴奏に直接注文を出すことはなかったが、レッスン中にヴァイオリン奏者に伝えた内容で、僕は何をすべきか理解できた。曲は全楽章通すと長いし、深い。僕は3楽章のような短調の、こういった暗い曲調は得意だと思っている。長い間片想いしていたからな……。
レッスンの後で、ヴァイオリンの彼は僕にも礼を言った。
「ありがとうございました。とても弾きやすかったですし、手を止めて聴いてしまいたくなるくらい、すごく、良かったです。また細かいところをお付き合いいただけますでしょうか」
「あぁ、まださらったばかりですまない。こちらこそ、改めて時間つくってもらえるかな」
「よろしくお願いします。あの……こちらの方、もしかして槇先輩の?」
「……そうだ。予定外に聴講させてもらって、すまなかった」
「いえ、そんな。僕らの憧れの槇先輩の彼女とか、学生結婚したらしいとか、高橋も何か知っている筈なのに教えてくれないから、皆、先輩の奥様のこと誰も知らないんですよ。僕も、今日偶然お会いできたことは、皆には秘密にしますから」
かおりは下を向いて、帰りたそうにしていた。僕に何か言われると思っているのだろう。
「ふふっ、槇先生ったら上手に匿っていたみたいね。私は彼女と話をするから男性陣はお帰りなさい」
小石川先生にそう言われて、かおりは固まっていた。
僕達は外に出た。次回合わせるために、連絡先を交換した。
かおりはどうしたんだろう。
……それはまるで、『雨の歌』の3楽章のように、なかなか解決しない心情が、僕を不安にさせた。




