39ウェディングパーティー
昨日は、音楽教室の登録書類を提出しに行った。
音大って、あんな感じなんだなぁ。いつも先生はあそこにいるんだ。これからは、私も月に何回か通うんだ。同じ学校になれたみたいで、なんだかうれしい。
大人の男性も、割合的には少ないんだろうけど、私は女の子だけの学校だったから、音大は比較にならないくらい男性がいるように感じた。高橋さんも、学生でも大人っぽいし。
先生の周りには、きれいな大人の女の人がたくさんいた。囲まれていたし。先生は、私だけの先生ではないんだろうって、ずっと気持ちを抑えていた。でももう、私たちは紙の中で結婚したんだ。あまり実感はわかなかったけれど、うれしかった。婚姻届に先生が自分の名前を書いて、私にペンを渡してくれた時の、優しい目……。
先生は意外なことに、結婚指輪をうれしそうに選んで、左手につけていた。先生のそんな表情は、私も嬉しかった。
「こういうの、つけたかったんだ。かおりのおかげ。ありがとう」
そんな風に静かに笑ってくれた。私は、そんな幸せを知らなかった。
私は、婚約指輪をネックレスにしている。御守りみたいで安心する。結婚指輪は、先生とお揃いなんだ。うれしかった。結婚指輪も、もう一つ長さの違うネックレスのようにしてもらった。
先生の免許証には、先生の写真があるのに『藤原慎一』って書いてあった。私と同じ名前。
それも、
「これで、僕もかおりと同じ名前になった」
と幸せそうに笑ってくれた。
なんだか嬉しい。
嬉しくてこわいくらい。
授業が始まる。私達高等部の三年生は、今日はお昼までで、今日が最後の授業だった。
あとは、卒業式だけ。
前の席のマヤちゃんが、前から配られたプリントを私にくれた。マヤちゃんの首もとに、ちょっと赤いところが見えた。
「マヤちゃん、蚊に刺されたの?かゆそう。薬ぬった?」
「ありがとう。蚊じゃないし、かゆくないから大丈夫よ」
「そうなんだ」
「うん。あ、あとでかおりと内緒話したいから、お昼になったらすぐに空のサブバッグ持って家庭科室に来て?」
「え?うん。わかった」
お昼にマヤちゃんと内緒話……。
もう、この時点で内緒じゃなくなっているのでは?私にばれちゃってるよ?
授業中までずうっと考えていたら、内緒話の話の内容が内緒なのか、話をするまでが内緒なのか、内緒話の内容が私に内緒なのか……じゃあ私に何を話すの?内緒話をすることが内緒なのか、家庭科室が内緒?……いろいろ可能性があるような気がした。わからない。あっ!私に内緒なのか。
お昼が気になる。サブバッグを空にして持っていくのね。
「藤原さん、今日で最後ですけれど、聞いていますか?」
「すみません」
聞いていませんでした。考えていました。考えていたら、聞けない。聞いたら、考えられない。集中できなかった……。
やっとお昼になった。私が仲良くしている何人ものお友達が、急に教室からパーッといなくなった。
マヤちゃんが、
「かおり、先に家庭科室に行ってるからね!待ってるよ!」
残った子が一斉にこっちを向いた。内緒話が公になっちゃった。私は言われた通りにサブバッグの中身を鞄の中に移して、空にした。学校には、全ての荷物を、鞄とサブバッグのどちらかに入るようにして通学する。今日はサブバッグにも鞄にも、ほとんど持ち物がなかった。
家庭科室に行くと、マヤちゃんと皆が、
「かおり!結婚おめでとう~!」
と言って、皆が私を囲んでぎゅうぎゅうにしてくれた。
「かおり!見て見て!」
家庭科室の前にある試食用の大きなテーブルに、紅茶やジュース、クロワッサンやサンドウィッチ、ケーキやお菓子がたくさん乗っていた。
「わあっ、ありがとう。お誕生日みたい。うれしい」
マヤちゃんが皆に言った。
「じゃあ、皆でハッピーバースデーを歌おう!『バースデー』のところは『ウェディング』に替えてね!さん、はいっ!」
ハッピーウェディングトゥーユー
ハッピーウェディングトゥーユー
ハッピーウェディングディアかおりー!
ハッピーウェディングトゥーユー
「……みんな、ありがとう……うれしい、……ありがとう……。」
私は泣きそうになった。マヤちゃんが怒るように言った。
「かおり、泣いちゃだめ!泣いたら食べられないし、私たちがかおりをいじめたって先生に誤解されちゃう!」
マヤちゃんの言葉に、私は笑った。
「あぁ、よかった!それでね、私たちからかおりにプレゼントだよ!おうちに帰ってから開けてね!」
マヤちゃんのサブバッグから私のサブバッグに、ピンクの包み紙の何かが移された。
「ありがとう。これはなあに?」
「槇さんと使うものだよ。入籍したんでしょ?かわいいから、かおりに似合うと思うよ!さ、食べよう!」
みんなでお菓子を食べて、楽しかった。ケーキは、ガトーショコラがあった。食べながら、プロポーズしてくれた日にガトーショコラを食べた時のことを思い出した。先生が、熱いキスをしてくれたことを。
食べ終わって、三年生の下校時刻ギリギリまでおしゃべりした。皆で家庭科室を片付けていると、マヤちゃんが私の隣にピタッとくっついて、他の子にわからないような声で、耳元にささやいた。
「私ね、高橋さんと付き合うことになったの。あの人と結婚したいんだ。昨日の『ワルトシュタイン』感動しちゃった。かおりのおかげ、ありがとう!」
家に帰ると、先生がリビングで私を待っていた。
「おかえり。学校は最後の授業だったんだろう?予定より遅かったね」
「うん、終わった後、家庭科室でお茶してきたの。サンドウィッチとか」
「そうか。じゃあお腹は空いてないね?さっき生徒証ができたって大学から連絡があったから取りに行かない?新居に行って、そろそろピアノのレッスンも再開しよう。4月までは僕が見るから。リサイタルの準備と、エチュードも新曲をさらおう。お父さんに『僕と新居に行く』ってメモを残して。それから、新居に持っていくもの、ここにまとめてあったものの他には、何かある?」
「わかった。行く。これだけ」
私はサブバッグを先生に渡して、
『パパへ。先生と新居に行きます』
とメモを残した。
大学に向かう車の中で、先生が私に聞いた。
「甘いにおいがする。かおり、学校で何を食べてきたの?」
見つかっちゃった、という気持ちになった。
「……ガトーショコラ……」
「僕が好きなケーキだ」
「……そうなんだ?」
「あんまり甘いのはダメだけど、あれくらいなら少し食べられる。……あと、今日は楽譜を買おう。今までかおりは僕のを使っていたけど、音楽教室の生徒になるし、これからはちゃんと、かおり専用の楽譜を用意しよう。大学の中に楽器店があるから、買いに行こう」
私は自分の楽譜を一冊も持っていなかった。ピアノもない。いつも先生のお家のピアノ、先生の楽譜を使わせてもらっていた。私専用の楽譜なんて、初めてだ……。
「私、お金を持っていない。通帳にある」
「かおり、通帳じゃなくて銀行ね。銀行に預けてあるお金が、通帳に書かれているんだよ。……かおりの楽譜は僕がお金を出して買うんだ。結婚したから、これからはお父さんじゃなくて僕が買うんだ。あ、でも大学の費用はお父さんだけどね。他のものは、これからは僕に言って。もちろん、お父さんが何か買ってくれるって言ったら、買ってもらっていいんだよ」
「はい。ありがとうございます」
新居の駐車場に車を止めて、歩いて数分の大学に行った。
「よかった、事務室がまだ開いている時間だ。ギリギリだから、かおりは歩いてきて!」
先生は、走っていって事務室の人に声をかけ、私の書類と生徒証をもらってくれた。
「槇くん、待って。あ、ごめんなさい。もう槇先生と言わなきゃね」
「どちらでも。何ですか?」
「学生たちから、あなたが結婚したのかって問い合わせの数がものすごいんだけど、聞かれたら言っていいのかしら?」
「すみません、お手数おかけします。結婚したことは事実なので公にしますが、僕の名前は今まで通り『槇』と通称でお願いします。給与振込の銀行口座は『藤原』で。名義変更は済ませてあります。妻の名前と、新居の場所は、プライベートですので、大学側からは伏せておいていただけますか。よろしくお願いします」
「わかったわ。秘密は厳守します。アイドルは大変ね」
「いえ、失礼します」
そんな会話が聞こえた。妻の名前って、私のことなんだな。私自身は変わらないのに、周りがいろいろと変わるみたいな気がして、不安に思った。
それから、大学の中にある楽器店の場所を教えてもらって、ショパンのエチュードとドビュッシーのプレリュード1巻、2巻を買ってもらった。1巻はコンクールでも弾いたし、リサイタルでも弾く。2巻はこれから練習する。
お父さんにも買ってもらったことのない、初めて買ってもらった、私専用の楽譜。先生に言われたことを、楽譜に書き込んでみたい。結婚して先生が買ってくれた、日常生活に使うもの。私はうれしくて幸せで、その場で楽譜を抱きしめた。
「かおり、閉店だからお店から出て。お店の人が帰れないよ」
先生が笑った。
「はい」
新居……教授と奥様がお住まいだった部屋。先生が鍵を開けた。中にあるものは変わらないけど、同じではなかった。それでも、またこの場所に来られて幸せだった。……うれしい。
先生は、車の中の荷物を家に運んでくれた。
「まだここで調理はしていないけど、少しずつ一緒にやろう。かおりと家事をするの、楽しみだ。とりあえず今日は、夕食買ってきたから温めて食べよう」
リビングのテーブルは、ホームパーティーができそうなくらいに広いから、ピアノの横のサイドテーブルにお料理を置いて、ソファで食べた。向かい合わせじゃなくて、先生の隣が近くてうれしかったから、先生にぴったりくっついて座った。先生は、一瞬びっくりしたみたいで私を見た。私はにこっとした。先生は、嬉しそうだった。
夕食後、久しぶりにここのピアノを弾いた。2台あるうちの、いつも私が弾いていた左のピアノでも弾いたし、教授が弾いていた右のピアノでも弾いた。
ピアノの音の中に、教授がいらっしゃった。心が、落ち着いた。ちゃんと弾ける。もう、大丈夫。
先生はキッチンを片付けてくれて、それからソファに座って私のピアノを聴いていた。
静かな時間が流れた。
「今度はかおりがゆっくりしていて。僕も少し弾いていくから。」
先生にピアノをどうぞ、と譲って、私は家の中を歩いてみた。まだ私のものはあまりない。私が住む家という実感もない。
毎日のように通った家。
教授も奥様もいない家。
不思議な気持ちだった。
寝室に行ってみた。寝室だけ、入ったことがなかった。家から持ってきた私の着替えや荷物の箱があって、一番上に、学校のサブバッグがあった。思い出した、マヤちゃんが先生と使うものって言ってた。綺麗な包み紙だったから、広いベッドの上に乗ってそうっと開けてみた。
白いベッドの上に、綺麗なピンクの包み紙を外しながら広げた。ゆっくりリボンをほどいて、箱を取り出し、そうっと開けてみたら……。
真っ白よりもほんのりピンク色のついた、長い袖のある、やわらかくて、とろんとした素材の、ドレスみたいな綺麗なネグリジェと、おそろいのブラジャーとショーツだった。
この、一つだけの大きな広いベッド……。
もしかして、今日はここで寝るの?
パパがいるお家には、帰らないの?
急にいろいろ思い出した。
男の子が裸の女の子の胸をさわっていた保健体育のDVD、保健の先生の優しい言葉、赤ちゃんができること、男の子も大人の男性も同じ、女の子にさわりたいって……。
それに、先生の言葉も思い出した。
「結婚するまでしない」
「結婚したら僕が教えるから」
私は結婚したんだ。
先生が私に教えてくれるのは………。
何?
大丈夫。先生だから、きっと大丈夫。
先生にさわられるの、いやじゃない。
優しく抱きしめてくれるんだよね。
いつの間にか、先生が弾いていたリストの『バラード』が聞こえなくなっていた。




