38スプリングソナタ
大学の中にある音楽教室事務室にかおりの書類を提出し、本人確認と僕のサインをして、受理された。
「生徒証とか、でき上がった書類は新居に郵送してくれるって。僕が持ち帰った方が早そうだけど。じゃ、かおりのレッスン室に行こう。かおり、一人で行けるように場所を覚えて。6階……最上階か。エレベーターで行こう。エレベーターはこっちだ」
四人でエレベーターに乗った。
僕は高橋に聞いた。
「高橋、何弾くの?」
「レディファーストで。マヤさんは、何を弾いてくれるんですか?」
「今なんとか弾けるのが『スプリングソナタ』です!全楽章は無理ですけど。かおりに伴奏してもらえるなんて、嬉しい!そういえば一緒に弾くの初めてだね!」
「うん。……私、弾けるかな?」
僕が答えた。
「大丈夫じゃないかな。僕が譜めくりするよ」
「かおりの伴奏に槇さんの譜めくり!高橋さんに聴いていただくのは恥ずかしいですが、高橋さんの演奏を聴かせてもらうためだけに頑張ります!」
マヤちゃん、言うなぁ。
6階の一番奥にある、一番広いレッスン室に着いた。2台ともスタインウェイのコンサートグランドピアノが並んでいる、大学でも唯一の部屋だ。
かおりはここでピアニストのレッスンを受けるのか。素晴らしいな。そして、副担当として僕もここでかおりにレッスンすることになる。まぁ、ピアニストのレッスンがメインで、僕はサポート係だな。
「で、高橋は何弾くの?」
「まだ決めてない」
「どれにするか迷うのか?」
「そういう訳でも」
高橋が、大学で僕や教授以外の誰かと余計な時間を過ごすなんて、珍しかった。それほど、プライベートを匂わせない男だった。
かおりはマヤちゃんから楽譜を預かり、繰り返しの場所を確認し、音を出さずに予見した。
マヤちゃんは楽器を準備して、丁寧に調弦した。少し聴けばわかるほど良い音だったし、一目でわかるほど、……ニスや、魂柱の良さを伺うことのできる張りのあるボディで、高価そうなヴァイオリンだった。僕はヴァイオリンのことはわからないが、そのヴァイオリンは、母親と共演するヴァイオリニストの音と同じ感じがした。小石川ミヤ子先生のお嬢様だったのか。この音大の助教授だし、母も知っているし、世間の狭いこと。何だか可笑しい。
マヤちゃんはお辞儀をして、深呼吸をした。かおりを見て合図し、静かに演奏を始めた。
礼儀正しいマヤちゃんの演奏は、正統派できちんとしていて、楽器の良さを抜きにしても、ヴァイオリン専攻の音大生と同じくらいに上手かった。だが、外部のコンクールで首位を争うレベルではない……。細かい練習はあまり好きじゃないのかな。
かおりも、初見だけれどなかなか良く弾いていた。かおりはソロも弾けるし、アンサンブルの感覚もいい。僕と連弾や2台ピアノもしてほしい。僕は欲張りだな。
演奏が終わった。マヤちゃんは、真正面で聴いていた高橋に、丁寧にお辞儀をした。
「マヤさん、ありがとう」
高橋は、それまで半分だけ上げていたピアノの蓋を全開にして、椅子を調整して座った。
同時に、マヤちゃんは楽器をケースに戻して観客となった。
高橋は、ベートーヴェンのピアノソナタ『ワルトシュタイン』を全楽章弾いた。約30分の作品だ。それを、会ったばかりの女の子のためだけに真剣に弾いたのだ。……何だ?どういうつもりだ?
演奏後、誰も口を開かなかった。試験のような真面目な演奏で、それでいて古典派のスタイルの範囲内の、静かな情熱も確かにあった。もちろん、僕が試験官だったら満点をつけるだろう。コンクールだったら、……厳しいことを言えば、彼よりも多少の技術がなくても彼を上回るほどわくわくさせてくれる人物がいないならば、一位にするか、一位無しの二位になるか、といったところだ。しかし、今ここで、高橋がそこまでの真剣な演奏をした意味がわからなかった。
マヤちゃんが、一言ずつ高橋に伝えた。
「高橋さん、ありがとうございました。感激です。……かおりは、槇さんと帰るでしょ?高橋さん、駅までご一緒していただけますか?」
高橋は、また意外なことに、
「そうだね。疲れたな。マヤさん、何か食べていく?」
と返した。
「いいんですか?ぜひ!」
僕たちは、正門のところで二手に別れた。
翌日。
高橋が僕のところに来た。
「槇先輩、昨日はありがとうございました」
「あぁ、マヤちゃんと食事したのか?」
「はい。お陰様で楽しかったです。相性も良さそうなので、付き合うことにしました。僕も槇先輩のように、平山になってもいいかなとか、考えちゃいました」
「平山?」
「平山マヤ、小石川先生の名前は旧姓です」
「あぁ、そうだったのか。平山マヤちゃんていうのか。……だからずっとマヤちゃんの後ろにかおりがいたのか」
「……確かに名前の順でも前後かもしれませんが、座席は誕生日順だと聞きました。藤原さんは学年の最後だとも。マヤさんは2月生まれで藤原さんと幼稚部から高等部、大学まで同じと、仲がいいそうですね」
「そうだね。誕生日も近いのか。知らなかったな。マヤちゃんには、かおりが特別お世話になっているみたいだ。とても慕っている」
「だからいろいろ話すんですね。まだ2回とか」
僕は止まった。
高橋は続けた。
「驚きました。槇先輩、入籍もして指輪もしているのに、藤原さんとはまだ2回とか。しかもそれキスって、本当ですか?」
僕は何も言わなかった。
マヤちゃんが勝手にペラペラしゃべったとは思わなかった。高橋が僕のことを聞き出したのだろう。事実だったわけだし……。僕が大切にしているかおりのことを、そんな風に言われることは……欲求がないわけではない。僕は表情を固定した。
「マヤさんは親が決めた婚約者も、親には内緒の彼氏もいたみたいですけど、僕がいいから数日以内に綺麗にするって約束してくれました。相性も確かめたんですけど、何をしてほしいか聞いたら、控えめに、大胆なリクエストをしてくれて楽しめました。だから自分も、相性も良かったから正式に付き合おうって言いました。近々、小石川先生と会わせてくれることになりました。槇先輩のお陰です。ご報告まで」
「何のことかわからないけど、よかったね」
僕は、それだけ言って教室を出た。




