37マリッジリング
年が明けた。
僕の写真集のサンプルを見せるために、かおりを僕の部屋に呼んだ。
かおりは想像以上に喜んでくれた。かおりは僕の方に両手を伸ばして、これを欲しがった。僕は満足して、かおりにそれを渡した。かおりは両手で大切に受け取り、一枚一枚丁寧に見ていた。
僕の写真をそんなに喜んでくれるなんて、素直に嬉しかった。しかし、僕の前で僕を見ないで写真に見入るかおりに不満を感じ、一旦取りあげた。その瞬間の残念そうな表情や、わずかに漏れ出た声が、僕をドキドキさせた。かおりは、まだわかっていないんだな……。暖房もない、僕の狭い部屋の狭いスペースで、こんなに近くにいるかおりに、キスしたり、抱きしめたり、本当はいろいろしたい。かおりは僕の前ですっかり心を許してくれているが、今は僕を男として意識していない。我慢するのも辛くなってきていた。
かおりは、今まで通った高等部の系列の女子大学に進学する。同時に、僕が講師をする音楽大学附属音楽教室の特待生になる。担当講師二人のレッスンを受け、大学の公式行事に参加することができる。本当は教授と奥様がレッスン担当になるはずだったが、事情が変わって奥様と入れ代わりに来日するフランス人のピアニストと僕になる。これで、かおりと大学での公式な繋がりができ、かおりに関することは全て僕が責任者となった。
音楽教室の内定をもらっていただけだったが、正式に登録するために、僕たちは結婚式より早く入籍した。
婚約指輪を贈った日にもらっておいた婚姻届を一緒に書いた。僕とかおりの名前を並べて書き、教員住宅の住所と部屋番号を書いた。教授と奥様の住まいだったところだ。鍵をもらったので、もう今日から住める。いつ、どんなタイミングで一緒に暮らすのか、僕は密かに考え始めた。
外国人教授のための特別なフロアで、ヨーロピアンな内装、外国のメーカーのコンサートグランドピアノが2台並んでいる。ソファーのある広いリビングと、キングサイズのダブルベッドのある寝室がある。他の世帯は普通の広さの、普通の家具付きのマンションで、備え付けのピアノは普通のグランドピアノが1台だ。
僕の戸籍名は『藤原慎一』となり、免許証も書き換え、銀行名義も変更した。そのうち、かおりと一緒にパスポートも作ろう。大学講師やピアニストとしての活動は、今まで通りの『槇慎一』という通称で行う。
結婚指輪も用意した。かおりはピアノを弾くのに差し支えるからつけてもつけなくてもどちらでもよいが、僕は自分でつけたかった。既婚者の証として昔から憧れていて、つけたかったのだ。だから、結婚指輪は僕に選ばせてもらった。銀色に光る、細身のものだ。これならピアノを弾いても大丈夫そうだった。僕は早速つけて生活した。
かおりは大きなダイヤモンドのついた婚約指輪と、小さなダイヤモンドがいくつか埋め込まれた結婚指輪を、長さを変えたチェーンをつけて、二連のネックレスにしている。
音楽教室の書類を提出する日、かおりを大学に呼んだ。
大学のロビーには、同じ書類を提出する親子連れや学生がたくさん来ていた。音大受験目的の高校生までが多く、かおりのように他の大学に通いながらレッスンを受ける目的の大学生はいない。音大附属音楽教室は、他の音楽教室より高額だ。かおりの音楽教室の特待生というのは前例がなく、初めての試みだったが、これも教授と奥様のおかげだった。
夕方、待ち合わせしたロビーで待っていると、かおりが来た。マヤちゃんもいる。
「先生、遅くなってごめんなさい」
「槇さん!こんにちは!」
「まだ時間前だ。大丈夫だよ。やあ、マヤちゃん。君も生徒になる?え、ヴァイオリン持ってる。本当に?」
「私は趣味ですから。定期的にレッスンなんて遠慮しておきます!でも、今日は書類提出でいろいろな人が学内にいるなら、紛れても大丈夫かな、なんて。かおりの護衛がてら見学に来ちゃいました!ヴァイオリン持っていると、それっぽいでしょ?あ、招待状を受け取りました!ご結婚おめでとうございます!お祝いはまた改めて」
「ありがとう。じゃ、提出に行こうか」
動き出そうとしたら、同じクラスだったか同じ学年だったか違う学年だったか忘れたが、顔を見たことのある音大の女たちがわらわらと近づいてきて、僕だけを囲んだ。
「あれ~槇くん!こんなところで何してるの?」
「……来年度の音楽教室の生徒の事務手続き」
僕はサービス精神ゼロの低い声で答えた。
「講師になるって本当なんだ?何で大学院に行かないの?絶対行くと思ってたのに!」
「……そもそも院に行くつもりなかったから。通してくれない?」
「受からなかったわけじゃないんでしょ?受けてもいないの?何で行かないの?留学もしないの?」
答える必要性も感じない。賑やかだけど、マヤちゃんの方が礼儀正しくて気持ちがいい。通れないし。
そこへ、
「藤原先生!」
と声がした。
振り向くと、教授の門下の後輩の高橋だった。
「あ!高橋くんだ!槇くんと高橋くんが揃った~!キャー!」
余計にうるさくなった……。
「もう、名前が馴染んでいるんですか?早速指輪着けて、愛妻家ですね。向こうから光って見えましたよ?」
高橋が女たちに聞こえるように言った。
女子たちは静かになった。
「高橋の声がしたから振り向いただけだ。……目敏いな」
「それだけ長身なんですから、いやでも目立ちますよ。指輪もね」
そこへ、マヤちゃんが僕のところにやってきた。
「あの!槇さん、こちらの方、私に紹介していただけませんか?」
「え、あぁ、教授の門下の後輩で、高橋だ」
マヤちゃんは、嬉しそうにハキハキと高橋に自己紹介をした。
「お名前は存じ上げておりました。初めまして。私は小石川ミヤ子の娘で、マヤと申します。お会いできて嬉しいです」
「マヤちゃんのお母さんが、小石川先生?ヴァイオリンの助教授の?」
僕はびっくりして、思わず口をはさんだ。マヤちゃんは屈託なく笑顔で僕に答えた。
「はい。申し遅れました。ですから、母とヴァイオリンコンチェルトの演奏会に行った時に、招待席にいらっしゃる槇さんとかおりのこと、遠くから何度か拝見しておりました」
「あぁ、だから僕の顔と名前を知っていたのか。」
「えぇ、槇さんはやっぱり目立ちますから。それで、高橋さん」
そう言って、マヤちゃんは女の子みたいな表情で高橋を見た。何だ?高橋を気に入ったのか?彼氏がいるから違うよな。
「高橋さんの演奏、聴かせていただきたいです。機会をいただけませんか?」
意外に、高橋が面白そうに返事をした。
「ヴァイオリンが弾けるの?じゃ君はヴァイオリン聴かせてくれる?」
「私は趣味ですけど……かおり、伴奏してくれる?」
「うん。初見で弾けるくらいしか出来ないけど」
「はい。私も弾きます!お願いします!」
僕はこの場を後にしたくて、促した。
「書類を提出したら、レッスン室に案内する予定だから、そこでどうかな」
「ありがとうございます!」
女たちを撒いて、かおりとマヤちゃんを事務室の方に案内した。
高橋はついてきた。
「槇先輩。僕、いいことしたつもりなんですけど」
「そうだったのか。ありがとう」
わざとやってくれたとは。
高橋は何を考えているんだ?
マヤちゃんも……。




