40寝室
練習というか、リストの『バラード』を少し流してさらっただけで切り上げた。
本格的に暖房をつけないと寒い。僕もかおりも暖房をあまりつけないタイプで、わざわざ部屋を暖かくしない。それでも流石にこれでは寒い。集中してやるのは、明日にしよう。
「かおり?」
声をかけた。かおりは僕の母親とは違って、普通にしていたら気配がない。小さい頃から静かに遊んでいたな……。どこにいるのかな?……かおりにレッスンするショパンエチュードは全部、といってもどれから始めようか。ドビュッシーのプレリュード2巻はひとまず最初から譜読みさせるか……。そんなことを考えながらかおりを探したら、寝室のベッドの上にいた。
かおりはベッドの上で、向こうを向いて座っていた。頭は下を向いていた。何を見ている?僕は近づいてみた。
「どうした?かおり」
かおりは返事をしなかった。
「それは?」
「……今日、お友達の皆からもらった、結婚祝いのプレゼント。皆でハッピーウェディングを歌ってくれたの。それから、ケーキを食べたの」
僕もベッドに乗り、後ろから優しくかおりを抱きしめた。
制服姿のかおりを、こんな風に抱くのは初めてだ。
かおりの制服姿も、あと卒業式だけ……。
このまま、かおりがいやがらなければ……。
かおりのお父さんに、何も言わずに、何も言わせずに連れてきてしまった。
でも、……帰したくない。
かおりがいやがらなければ、このまま……。
「かおり、何を考えてる?」
少し時間を置いて、かおりはゆっくり口を開いた。
「……私だけ」
「うん、なあに?」
「……仲良しのお友達の中で、私だけずっと彼がいなかったの」
「そうだったのか」
「……だから私は……わからないんだけど……先生は……私が……」
「うん」
「私が……これを着たら……」
「うん」
「……先生は、……うれしい?」
「嬉しいよ」
「……私が……これを着たら……先生は、……私に……何をするの?」
かおりは怖がるだろうか。でも。
出来るだけ優しく、ゆっくり耳元で囁いた。
「かおりに、キスして、さわって、僕の手でぬがしたい。それから、かおりの裸を見たい。きっと、綺麗だから、体じゅうにキスして、それから、……まだたくさんある。言えないけど」
かおりは、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
消えそうな程の、小さい声だった。
「……私が……こわいって言ったら?」
「かおりがこわくても、したい」
かおりが緊張したのが判った。
「今まで、キスから先は結婚するまでしないと約束した。もう結婚したから、拒んでほしくない」
僕は返事をする暇を与えずに質問した。
「お父さんには、メモに何て書いた?」
「……先生が言ったとおりに。先生と新居に行きますって」
「帰る時間は?」
ここで、かおりは僕に嘘をついてもよかったんだ。
僕は、かおりに逃げ道をつくってやったつもりだった。
こわいなら、家に帰してやる。
「書いていない」
決まり。
僕は途端にうれしくなった。
「じゃあ、帰さない。嬉しいよ。今日から、ここが僕たちの家だ。かおり、これからずっと一緒だ。ケンカしていても、こうして抱きしめたまま寝たい。そうしたら、いつでも頬にキスして……」
僕は、かおりを後ろから抱きしめたまま、嬉しさのあまり力を込めた。
かおりは、僕の舞い上がった様子に、力が抜けたみたいだった。
「……どうしたら、……こわくなくなるかな……」
消えそうな声ではなく、前を向いた質問をした。
「かおり、まだこわい?何がこわい?僕のことがこわい?僕にされること?わからないこと?」
「先生のことはこわくない」
「それでいい。それだけでいいよ。シャワーを浴びてくるから、待ってて」
僕はシャワーを浴びて、浴槽にお湯を溜めた。
かおりは、お友達に綺麗な下着とネグリジェをプレゼントされていた。僕は僕で、父親が高級そうなバスローブを買っておいてくれた。市販のパジャマは手も足も丈が短くて持っていなかった。これは丈が長くて有難い。色の濃さも、しっかりした質感も好みだった。
バスルームから寝室に戻ると、かおりはまだそのままだった。確かに、僕は待っててと言ったが。本当にそのまま待っていただけなのか、何か考えて動けなかったのか、どうなんだろう?……どっちでもいい。もう、僕のものにするつもりだ。
僕は、ベッドの上にいるかおりの前に座った。まだ制服姿のままのかおりに、キスをして抱きよせた。キスしたまま、ゆっくりスカーフをほどいた。シュルシュルと……、シルクのほどける音が堪らなかった。首もとのボレロの金具を外して、かおりの肩からずらし、ゆっくり片方ずつ、手から落とした。かおりは僕にキスをされながら、力を抜いていた。
ここまでで、かおりはいやがらなかった。
ブラウスとスカート、この制服姿で抱きしめた覚えがある。唇を離して、ゆっくり抱きしめた。かおりの背中、柔らかい胸。逆に、ここから先は、僕はまだ知らない。
お湯がたまった頃だ。僕は立ち上がってバスルームに行った。
かおりを呼び、使い方を教え、近くにバスタオルを置いた。かおりは、プレゼントを胸に抱いていた。
僕は部屋を暗くした。
枕元に小さい照明を置いた。灯してみると、優しくて、やわらかくて、暖かい灯だった。もうすぐ、この光の視界の中に、かおりの表情が入るのだろうか。
どんな表情をするのだろうか……。
水音がしなくなってから、長い時間が過ぎた。
バスルームから、かおりの小さい声がきこえた。
僕は、ドアの外から小さく呼んだ。
「……かおり?」
「……あの……ベッドまで行くのが恥ずかしかったの」
ドアが少し開いて、ゆっくり出てきた。
プレゼントを身につけていた。
ため息が出るほど綺麗だった。
「かおり、綺麗だ」
僕は、下を向いて恥じらったかおりを抱いてベッドに連れていった。
「かおり。こわい思いなんてさせないから、何も考えずに僕に全部預けて」
「はい。慎一さん、愛してる」
かおりは、にこっとして、静かに目を閉じた。
今まで、ゆっくりしたテンポを打ち続けたメトロノームが、長い時間を経過した後、ゼンマイが止まり、そのままフェルマータで静寂が訪れたような……。そんな穏やかな気持ちで、かおりにキスをした。
そして、ゆっくりとネグリジェの上から、かおりの形を指先でたどった。
それから、それらを全て取り去った。
長い髪のかおりは肌が白くて、アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』のように美しかった。




