118 悪役の登場
春。
まだ寒い日もあるけれど、暖かいより暑い日が多い。私は暑がりだから、ついつい薄着になる。
夕方、お仕事帰りの慎一さんと待ち合わせて一緒にデパートに行った。
婦人服売り場で、薄いカーディガンを買ってもらった。私が薄着すぎるからと、いつでも羽織れるように、軽くて皺にならない素材の、ラベンダー色のカーディガンだった。
「あら、藤原さん?こんばんは」
「こんばんは。吉田さん、でよろしかったでしょうか?」
「そうよ。覚えていてくれて嬉しい。藤原さんの彼?」
「あ、はい」
「こんばんは、吉田です」
「こんばんは」
慎一さんが挨拶をした。私達は、少しだけ立ち話をした。吉田さんと私の共通のお友達の話もした。
「藤原さん、またね」
「ごきげんよう」
吉田さんと別れてから、少しだけ慎一さんの機嫌が悪くなったのがわかった。
「かおり。僕は『彼氏』って紹介されるのは望まないな」
案の定、注意された。
吉田さんとは、大学からお友達になった。大学からお友達になった人は、人数が多すぎたから、結婚していることを言わなかった。幼稚部からのお友達のマヤちゃんによると、一般的には私達の今までの交友関係の方が狭すぎるし少なすぎるのだと言う。
幼稚部から2クラス。高等部を卒業するまでずっと持ち上がりだった。私は大学に入学して、同じ文化芸術学部、同じ芸術学科、同じAクラスのお友達だけで一度に10人以上のお友達が増えて混乱してしまい、お名前とお顔が一致しなかった。制服だった高等部までと違い、髪型やメイク、お洋服も席順も変わり、誰が誰だったかわからない。私は一年たたないうちに妊娠して退学してしまったから、話しかけてくれて嬉しかった。
「ごめんなさい。結婚していること、聞かれないし、お友達が一度にたくさん増えたから名前が覚えられなくて、私から話しかけられなかったの……ごめんなさい」
お友達ができなかった寂しさもあった。
「そうか。隠してる訳じゃなくて、わざわざ言わないだけ……か」
「これから同じ事があったら何て言ったらいいですか?」
「『夫です』とか」
「はい、わかりました。今度からそうします」
機嫌は直ったみたい。納得した……という感じかな。慎一さんは、私の手を優しく握り直してくれた。
「かおり、紳士服売り場にも寄って」
「はい」
エレベーターで上の階に移動した。紳士服売り場のある階に着いたところで、若い男性が「あっ」と言った。私達はエレベーターから降りたところだったけれど、その人はエレベーターに乗らずにそれを見送った。乗らなくてよかったのかな。
「これはこれは、槇・先・生。噂の奥方かな?」
その人は、慎一さんじゃなくて私の方を見た。そんな風に見られたのは初めてで、私は何も言えなかった。
「そうだけど」
慎一さんは無表情で答えた。大学で女の人に囲まれている時と同じ感じだ。お友達、……ではないのかな。
「皆が噂してたけど、見た奴はいない。俺が想像してたのとタイプが違うな。ふうん……、年下の美少女か。ピアノ弾けるんだよね。奥方も上手いって聞いてる。俺、今伴奏者探してるんだ。今度伴奏合わせしてもらいたい。いつ空いてる?」
私の目を見てそう言った。不思議な視線で怖かった。「いつ?」って…………私はどうしたらいいかわからなかった。
慎一さんが直ぐに答えた。
「せっかくだけど、合わないと思うよ」
「『槇・先・生』の言葉だから、そうなのかもしれない。しかし、そうだとしても合わせてもらいたいな。どう合わないのか興味がある」
「断る」
慎一さんが短く答えた。
「何でもお前が決めるんだ?彼女、大人しそう。何でもご主人様の言うこと聞くの?そういうの、好き?」
私の顎に手を掛けて、視線を絡め取られた。慎一さんともパパとも違う、大きな男性に近寄られて、私は怖かった。同じような体格の教授にも、怖いと思ったことはないのに。
「触るな!」
慎一さんが、私の顔を見せないように胸に抱いてくれた。
「震えちゃって……、何だかそそられるね。ますます合わせてみたくなったな。今日はこれで」
俳優が、舞台袖に引きあげたように消えていった。
慎一さんは黙って私の手を引いて、階段で屋上に連れて行った。重たいドアを開けると、もう夕方から夜になるところだった。風が涼しい。子供が遊べる遊具や広場があるけれど、人はあまりいなかった。
「さっき買ったの、着て?」
優しい声だった。慎一さんは私をベンチに座らせて、カーディガンを出して、私にそれを羽織らせた。それから、温かい缶のミルクティーを買ってきてくれた。慎一さんがハンカチで包んでから私に持たせてくれた。
「ごめん。さっきのは僕の同期だ。大学院を出てから留学して帰国したばかりらしい。平山に、彼が伴奏者探してるから、かおりが変な風につかまらないようにって忠告してくれたばかりだ」
「ちょっと怖かったけど、私に出来ないことなら、気にしなくてもいいかな?」
「彼は声楽家として優秀だけど、かおりのピアノが足りないってことじゃないよ。手が早くて有名だ。彼にかおりを見せたくないし、伴奏もさせたくない」
「慎一さんがそう仰るなら、私はしません。声楽家なのに、ピアノが速く弾けるくらい上手な方なの?」
慎一さんは額に手をあてた。困ってる……。
「そうじゃないよ。これから……かおりを大学のレッスンに一人で行かせるのが心配だ」




