119 悪役につかまる
土曜日。
私は大学でピアノの個人レッスンを受けている。私のレッスンと同じ時間帯と、それからもう二時間、慎一さんは講師として同じ大学でピアノのレッスンをしている。
私はレッスンが終わって、エレベーターに向かう角を曲がると、あの人がいた。その現れ方は、まるでお芝居のワンシーンのようだった。ミュージカルだったら不協和音の効果音があるだろうけれど、現実だからそれがない。私は余計に怖くて立ち止まった。動けなかった。
「松本だ。覚えていてくれたみたいだな」
「……松本さん。こんにちは」
慎一さんのご学友。私はご挨拶だけにして、早々に失礼したかった。でも、私がこのまま帰って、もしついて来られたら家がわかってしまう。私にもそれくらいはわかった。慎一さんのレッスン室に行きたかったけれど、お仕事の邪魔をしてはいけない。慎一さんが終わるまで待って、一緒に帰ればいいかな。
私は用事があるふりをして、大学の図書館に行った。松本さんは、私を観察するように後をついてきた。
私は、今度弾こうと思っている曲の楽譜を借りて、慎一さんのレッスンが終わるまで写譜をすることにした。幸い、いつも五線紙を持ち歩いている。
奥まった席ではなく、司書さんの目の前の席に座った。松本さんは、私の左隣に座った。私はかまわずに写譜をした。定規で大譜表を書き、小節線を引く。そうだ、慎一さんにメールしなきゃ。
(図書館にいます。一緒に帰りたい)
松本さんは私の携帯の画面を覗いた。
「槇に?そんなメールして、可愛いね」
台詞みたいにゆっくりとした抑揚でそう言った。私は警戒した。
「あ、警戒してる」
可愛いなんて、慎一さん以外の人に言われても嬉しくないことがわかった。あ、パパも嬉しい。慎一さんのお父さんも……嬉しい。この人は嬉しくない。私は無言で写譜を続けた。
「譜面書くの、綺麗だね」
私は、一応お礼のつもりで松本さんを見て頭を下げた。
「ようやく俺を見てくれた。伴奏してほしい楽譜、見てくれない?」
松本さんは自分の鞄から楽譜を取り出した。私は無言のまま、目だけでそちらを見た。フランス語だった。思わず歌詞を呟いた。
「お?読めるんだ?しかも発音完璧。ピアノ演奏科でしょ?フランス語も取ってたの?必修科目じゃなかったでしょ?」
しまった。私はこの大学じゃない。それを話したくない。でも、何を否定したらいいかわからない。
「困ってるところも可愛いね」
私は困るのをやめて写譜の続きをした。隣の席に座っていた松本さんは、いつの間にか私に触れるくらい直ぐ近くにいた。どうしよう…………。テーブルの右端まで椅子をぴったりと寄せてみた。すると、松本さんも椅子を寄せてこっちにきた。あ…………、自分で逃げ道を封じてしまった。もう、後ろにしか行けない。松本さんの右手が、私の座っている椅子の背に置かれた。逃げられない。時計を見た。慎一さんのレッスンが終わるまで、あともう少し……。どうしよう。
松本さんは、私が持っていた五線紙を一枚抜き取って何かを書いた。左利き……。
(どこでフランス語を習った?)
あ、これなら大丈夫そう。
(小学校)
私は、わざと時間をかけてゆっくり書いた。
(どこの?)
(日本)
(日本のどこ?)
(東京)
(東京のどこ?)
(大使館の近く)
(どこの大使館?)
(秘密)
「コラ!」
松本さんが私の頬をつねった。
「きゃぁ!」
司書さんがやってきて注意されてしまった。
松本さんは、また紙に書いた。
(伴奏はキライ?)
(あまりしたことがありません)
(今までにどれくらいしたことある?)
(慎一さんのコンチェルトのオケパート)
(あれは先輩が弾いてたでしょ?)
(学内では先輩が弾いて、私はコンクールの時に弾きました)
(それって槇が三年の時に一位獲ったやつでしょ?)
(はい)
(すごいよね。槇のこと尊敬してる)
私はそれを見て嬉しかった。思わず顔がゆるんだ。松本さんを見たら、優しい表情をしていた。そんな顔もするんだ。いい人なのかもしれない……。
「微笑み合うほど仲良くなったの?」
慎一さんの声がした。来てくれてよかった。私はこの紙を見せようとしたけれど、先に松本さんが口を開いた。
「槇ぃ!おかげさまで、仲良くなっちゃった!奥方は伴奏したいって言ってくれたよ?」
「言ってません!」
司書さんに注意されてしまった。
「お静かに願います。二度目ですのでご退出ください」
「すみません」「申し訳ありません」
慎一さんはとっても機嫌が悪そうだ。どうしてこうなっちゃったのかな。
三人とも図書館から出た。
「槇ぃ!奥方、可愛いね。気に入った!伴奏諦めないから、またよろしくねぇ~!」
松本さんは私に強引に譜面を押し付けて帰っていった。
私は何から話したらいいか困った。何を言っても言い訳になってしまいそうで。でも、慎一さんのこと「すごいね」って。尊敬してるって。
「家に帰ったら話を聞くよ」
「はい」
今は、松本さんよりも慎一さんが怖かった。




