116 僕の両親8
出張から東京の本社に戻った俺は、るり子の出産前後に少しまとめて休暇が貰えることになった。「新婚旅行休暇」みたいなのと「出産休暇」をまとめてくれることになった。ついでに「育児休暇」もあったか?正式な名前があるらしいが、皆まとめて使わせて頂いた。
藤原さんに御礼を伝えると、「頑張ってきたみたいだね。先方が誉めてたよ。お疲れ様」と笑ってくれた。
「それから、……悦子が、鉛筆で線が描けるようになったんだ」
嬉しそうにしていた。少し進展があったんだ。よかった。るり子からの手紙にもあったが、集中力や精神的に自分を律することが不可欠だ。芸術とは、何て繊細な心から産まれるのだろうかと思った。
「家にいると安心するみたいなんだ。ちょっと常識は通用しないが、そんな感じでこれからも付き合ってもらえるかな……」
「こちらも妻が長い期間お世話になりました。精神的にもとても助けていただきました」
俺が面倒を見てもらっている直属の上司なのに、勝手に戦友の絆のように感じた。
三月末の出産予定日が近づいてきた。病院に行くタイミングはいつだろうと聞いたら、るり子が「私にもわからない」と言って笑った。ここはタクシーを呼ぶのに説明が難しかった。俺はいつでも入院できるようにと、車を購入しておいた。
俺は休暇になり、るり子は毎日ピアノを聴かせてくれた。『皇帝』を弾くと力が入ってお腹が張ると言って、『ゴルドベルグ』と『フランス組曲』をよく弾いていた。両方ともバッハだ。胎教にはモーツァルトが良いと聞くが、バッハも良いだろう。本人が好んで演奏するのだから。それに、産まれた子供も何れピアノを弾くかもしれない。そんな楽しみもあった。
予定日が過ぎ、四月になった。
るり子のピアノの音色が変わった気がした。力が抜けたような、柔らかい音になった。出産が近いのだろうか。
翌日の朝方。
俺が目覚めた時に見たのは、るり子が痛みに耐えている姿だった。
「るり子!大丈夫?病院行こう」
「待って、……時間測ってるから……まだ大丈夫」
るり子は痛みに耐えながら時計を見て、紙にメモしていた。そんなに痛そうなのに、まだ病院に行くタイミングではないのか……。
「……ごめんなさい。行く準備は出来てるの。10分間隔になったら病院に連絡するの。そしたら連れて行ってくれる?」
「わかった」
俺はるり子を抱きしめた。
そう、るり子はパジャマじゃなくて既に洋服に着替えてあった。
何回めかの痛みに耐えた後、るり子は病院に電話をした。
電話を置いたるり子は落ち着いていた。
「行ってきます。お願いします」
「立てる?気をつけて」
俺はるり子が入院するために用意したバッグを持った。
助手席に座った時も、痛そうにしていたが、何も言わなかった。運転中の俺に心配かけまいとしているんだろう。
病院に着いてからるり子は陣痛室の中に入り、俺は待合室で座っていた。
無事に産まれてくれるようにと、一心に祈った。




