115 僕の両親7
長期出張に行くと決まった時から、また怒涛の忙しさになった。
最初の長期出張は半年と言われた。思ったより長いというか短くて済んだというか。国内だから電話もできる。俺はるり子が心配だったが、残されたるり子の方が心配は大きいだろう。
留守中は、藤原さんにいつでも頼っていいからと、藤原夫妻と俺達夫婦の四人でよろしくと言い合った。時期を選ばせてくれただけでも有り難かった。
出発前の休日、俺はるり子を連れて銀座の楽器店に行き、好きな楽譜を選ばせた。半年間でどのくらい必要なのか、俺にはわからなかった。るり子はお嬢様育ちではあるが贅沢は弁えていた。正直、有り難かった。この会社である程度歳を重ねれば出世して給料も上がるだろう。だが俺は社会人一年目、来年は税金がたくさん引かれる。子供にもかかる筈だ。それとて全員健康でこそだ。俺は神に祈っていた。
るり子が選んだのは、バッハの『ゴルドベルグ変奏曲』、『フランス組曲』、ベートーヴェンの『皇帝』だった。本当にそれだけでいいのか?合わせても一万円程度だ。もっと沢山選ぶと思ったし、輸入ものの楽譜は国内のものより高いと知っていた。もう一つゼロがつくのかと思った。それでも買ってやりたかった。
俺はるり子に聞いた。
「『皇帝』……はコンチェルトでしょ?」
「うん。男の子だったら『皇帝』で、女の子だったら『フランス組曲』を聴かせたいなって」
「ありがとう。元気ならどっちでも嬉しいよ。たくさん聴かせてやって」
「はい。あなた、どうかご無事で」
こんなに離れがたいなんて……るり子はいじらしくて、俺達はそうやって励まし合ってばかりだった。
七月下旬に、俺は出発した。
どうか元気でいてほしい。るり子とは玄関で別れた。
俺は遠距離恋愛をしたことがない。
結婚していても、会えないのが辛いと思う自分に驚いた。仕事をしている時は忘れられたが、休憩時間がダメだった。ふとした時に思い出しては、悪阻になっていないかとか、倒れて誰にも助けを呼べない状態になっていないかとか、酷いときには藤原さんがるり子を慰めていないかとか、変な想像をして最悪だった。
るり子とは電話する時間を決めてあったから、それ以外の時間は仕事に没頭した。
どうか練習をしたり悦子さんと過ごしたりして、元気でいてほしい。守るものがあると頑張れる等という人がいたが、実際はそんな美しい話ではなかった。結構辛かったが、どうしようもない。
俺は、こちらの寮に来てから日を空けずに届く、るり子からの手紙に癒されていた。手紙には、そんなに大したことは書いていない。電話だったら通話料がかかるからと、急ぎの用件ではないものや、独り言のようなもの、検診に行った記録等だった。尤も、検診に行ったことは電話でその日に伝えられた為、手紙で後から同じ情報が来ただけだというのに「成長していない?どういうことだ?」と一瞬心配になったりしていた。バッハの譜読みがここまで進んだとか、『皇帝』のどこが難しいとか、小節番号が書かれたピアノの進捗は、業務報告のようで面白かった。曲を仕上げるための練習のことが、俺にわかる言葉で書かれていて、一度出来たからといって次も必ず出来るわけではないとか、集中力を自らコントロールするくだりなどは、意外とストイックで大変なものなんだなとか、知らないことが沢山あった。
七月の下旬から半年間の予定の出張の内容は、五ヶ月で終わる目処がついた。早く帰れると密かに喜んだ次の瞬間、先方の上司から、あと三ヶ月残ってくれないかと言われた。
「あと三ヶ月分を一ヶ月でやるつもりでもいいですか?」
と聞いて、るり子には何も言わずに追加の仕事を引き受けた。
そんなわけで、俺は当初の予定通りほぼ半年で東京に帰れることになった。
出張の頑張りは、年末のボーナスを見て通帳を握りしめたくなるくらい嬉しかった。るり子に何か買ってやりたかった。お嬢様育ちなのに質素なるり子は何を喜ぶのだろうか。
女性向けの雑誌で見た、今一番人気の宝石店がこちらの都市にもあった。まだ、指環も買っていない。サイズもわからない。るり子のイメージに近い……一番品質の良い、一番慎ましくて美しく感じたダイヤモンドのネックレスを買った。
年明けの一月下旬、俺はようやく東京に帰れることになった。
るり子はどうしても空港に迎えに行きたいと言った。俺は家にいてほしかったが、俺こそ早く会いたい気持ちもあった。俺は、乗る予定の航空会社と便名を教えた。早く会いたいが、無理しないでほしい。
羽田に着いた。到着ロビーから真っ先に目にしたのは、お腹の大きくなったるり子の姿だった。コートを着ていたからあまり目立たないが、細かったるり子がふっくらと元気そうに見えて、俺は心から安堵した。
「るり子!」
俺は遠くから呼んだ。
「マキくん!」
しまった…………駆け寄ってくる妻を叱る羽目になった。
「るり子、走っちゃダメだ!」
「そうだった、ごめんなさい……」
俺はるり子を抱きしめてキスをした。止めたくなかったが、るり子のお腹が俺に当たって、体を離した。無事でよかった。
「これ、ボーナス出たから。今まで、何も贈れなくてごめん」
俺は綺麗にラッピングされた箱を渡した。るり子はゆっくりそれを開けた。
「着けて」
俺は向かい合ったるり子の首の後ろでそれを試みたが、気温も低い。手がかじかんでいたし、妙に緊張して出来なかった。そもそも金具が小さすぎるだろ。るり子はそのうち、ふふっと笑って自分で着けた。
「ピアニストは器用だな」
るり子は静かに微笑んだ。
「綺麗だ」
るり子の元に、帰ってきた。
これからは、しばらく一緒にいてやれる。
鼓動が落ち着き、自分の気持ちが安定していくのが判った。




