114 僕の両親6
予定日は三月末と言われた。
るり子を家まで送ってから出社した。
会社に着いてから、藤原さんに会議室に呼ばれた。二人だけだった。俺はそのまま報告した。
「おめでとう。三月末か……。できるだけ配慮するけど。るり子さんには、産まれる前と産まれた後のどちらに多く休みが欲しいか聞いておいて。人員配置の関係で、急かしてすまないね」
「いえ。ご面倒おかけします」
「いや、羨ましいよ……ここからはプライベートだけど、うちはまだだから。まだ男が怖いんだろうと思う。まだ絵が描けない。鉛筆を持って書こうとすると、もうダメなんだ。まぁ、少し前までは鉛筆を持てなかったくらいだし……。リビングの隣はアトリエにしてるんだけど、結婚してから書いたものは一枚もないんだ。心を切られちゃってるみたいで、どうしたらいいのか……」
「そうだったんですか……」
「暗い話をしてしまって申し訳ない。るり子さんに赤ちゃんが出来たことで、こちらにも明るい話題ができるといいなと思ってしまってね。ありがとう、戻っていいよ」
「はい。失礼します」
藤原さんは、最後は笑顔だった。
俺は、藤原さんの配慮に感謝した。同僚はまだ誰も結婚していないし、身近な社員には奥さんが出産した人が見当たらなかったのだ。また一人増えればそれこそ手続きやらいろいろある。しかし、藤原さんの「まだ」は何の「まだ」だろうか。「まだ子供は出来ていない」よりも、もっと手前だろうか……。
俺は気持ちを切り替えて仕事をした。父親になるんだ。なるべくるり子の近くにいて、安心させてやりたい。俺自身がるり子の側にいたい。それに、稼げるようになりたい。
俺はどうも外見なのか態度なのか軽く見られる節がある。妊娠のことは藤原さんだけに話して他には伏せてあるが、早く結婚したこと、仕事の態度や付き合いなど、周りからの見る目が変わってきたようだった。しかしそれは、もともと真面目そうな人が真面目なのではなく、真面目じゃなさそうなのに意外に真面目……といった評価だ。業界全体も好調だったが、社内の業績も順調で個人的な仕事の成果もあり、それは夏のボーナスに反映された。俺は出産にいくらかかるのかも知らなかったが、これだけあれば当面は大丈夫だろうと思えた。
藤原さんから、出世の為に行かなければならない長期出張というノルマがあると聞かされた。それを出産より大分前の、今のうちに行くかどうか打診された。後でもいいとは言われたが。
もっと妊娠について勉強しておくべきだった。約9ヶ月の妊娠中、いつ頃どんな辛さ、大変さがあるのか。妻は夫にどんなサポートをしてほしいのか。今ほど母親に聞きたかったことはない。母親といっても俺には実母と、育ての母の二人がいる。時代が違うか……そんなことを思いつつ、目の前の仕事の忙しさに追われていた。
俺はるり子と子供の生命力を信じて、妊娠中に長期出張に行くことを切り出してみようと帰宅した。了解してくれるだろうか。いや、るり子がなんと言おうと仕事は仕事だ。
帰宅するとリビングにピアノが届いていた。
るり子がピアノを弾いていた。
「マキくん!このピアノすごく素敵なの!」
るり子は跳び跳ねてこちらに来た。最近、食べられないらしく、体調がよくなさそうだったが、具合が悪くなくて安心した。ピアノのおかげか。
「るり子!跳ねたらダメだ!」
「あっ、そうだった!ごめんなさい」
俺はるり子をソファに座らせて自分も横に座った。
「このピアノは、俺が子供の頃から実家にあった。誰か……名前は忘れたけど海外のピアニストが日本でリサイタルをする時に使うお気に入りのピアノで、実家が預かっていた。もう、だいぶ前に亡くなっている。亡くなる直前だったか後だったか連絡が来て、譲るって……だから、すごく良いものなんじゃないかと思う。定期的に決まった調律師を呼ぶ必要があるけど」
「そんな素敵なピアノだったのね。私、こんなピアノ弾いたことがない。ありがとう。大切に使わせてもらいます。調律もお願いします」
俺はその言葉に、こんなに美しくて慎ましい女性と結婚できて本当によかったと思った。
そして、神に祈るように長期出張の話をした。
「るり子。俺は近いうちに長期出張に行かなければならない。出世と給料に関わることだ。希望が通るかわからないが、子供が産まれる前と後と、選べるとしたらどちらがいい?」
るり子は何と言うだろうか。
「あなたの判断でいつでも行ってきてください。私はずっと健康だったし、過信しないで、赤ちゃんも自分も大切にします」
俺はるり子を抱きしめた。
翌日、俺は藤原さんに直ぐに行くと申告した。




