113 僕の両親5
思えば、区役所の手続きは簡単なものだった。
結婚するということは、意外にも会社の手続きがいろいろ大変だった。大きい会社だし、何を何処に提出するのかわからなかった。あっちに行ったりこっちに行ったりすれば、タダでは済まされずに冷やかされたりした。仕事の忙しさに加え、流石の俺もそれどころじゃなかったというのが本音だった。しかし俺の役目だ。
「槇、結婚したって?本当かよ?」嘘なんてつくかよ。
「どんな美人なんだ?見せろよ」見せる予定はないな。
「身を固めてから遊ぶつもりか?」悪い冗談はよしてくれ。
同僚や上の人からも……それらの言葉に嫌悪感すら感じた。俺も独身の立場だったら普通に加わっていたかもしれないのに。そう、もう此方側の立場だ。
嫌悪感……。俺には兄が四人いる。父も母も使用人も、俺を五人兄弟の末っ子として他の兄弟と同じように可愛がってくれた。しかし明らかに俺だけがいろいろ違った。
当たり前だ。母親が違う。顔、体型、性格、成績……。おそらく、芸術が好きな父のことだから、俺の実母は芸事に長けた女性だったのだろうか。もう、覚えていない。
「今日から、ここがお前の家だ」と言われた日を覚えている。育ててくれた母親には可愛がってもらったから、俺も甘えてみたり勉強を頑張ってみたりした。なんとなく、そうした方がいいだろうと考えた。他の兄達にもかなり気を使って仲良くしてもらえるように過ごした。兄達は俺を虐めるようなこともなく遊んでくれたし、喧嘩もしたことがなかった。
本当の母親の顔は覚えていない。最後に抱きしめられた感触を覚えていたのも、いつまでだっただろうか。それだって子供の頃だ。おぼろげにしか、覚えていない。
俺は普通の家庭を持ちたかった。子供にとって仲の良いお父さんとお母さんのいる家庭。厳格な雰囲気ではない、ちょっと友達っぽい雰囲気の夫婦、親子喧嘩とかするような、そんな家庭を持ちたかった。
高校を卒業してから大学に入る前に、籍を抜いて母親の『槇』姓にした。地元ではあの名前を言えば誰もが知っている。特別扱いされたり、コネで何でも決められるのは気が進まなかった。兄弟で一人だけ東京に出してもらった。勿論、金も出してもらった。その分、勉強して人気の商社に就職したのだ。裏でコネが働いたのかどうか、自分にすら判らないことはどうでもいい。これからは自分でやっていきたい。こんなに早く、結婚したい相手に逢えたのは幸運だ。
るり子は真面目な家庭に育っていることがよくわかる。気が強そうだと思ったけれど、箱入り娘で社会のことはわかっていない。でも意外に素直で、年下の俺の言うことでも聞く。頭の回転が速く、美人でよく気がつくし、家庭的で料理も上手かった。これを母親から習ったのなら、そりゃあ外食などしないわけだ。
俺もなるべく早く帰宅したかった。そう思いつつ、いつも帰りは遅くなった。新婚だからって早く仕事が終わる訳ではない。当然だ。
帰りに上の人に呼び止められて遠くの階まで行って書類を受け取った。今度は何をもらったのかと思ったら、るり子の保険証だった。それは、婚姻届よりも現実的に責任を感じさせるものだった。
るり子は大丈夫だろうか……。そう、俺は避妊しなかったことを気にしていた。俺は結婚したいと思ったし、子供は欲しいから妊娠してもいいと思った。
しかし、妊娠してから大変なのはるり子だし、本当は留学したかったことも知っている。るり子は男と付き合ったこともなかったのだから、あまりわかっていないか、わかっていても避妊のことは言いづらかっただろう。あれから三週間近く経っていた。
俺は急いで帰った。
「ただいま」
るり子は来なかった。電気はついているが、いないのか?いつもなら走って出迎えてくれるのに。るり子はキッチンでうずくまっていた。顔色が良くないみたいだ。
「るり子、どうした?」
「マキくんごめんなさい、まだ夕食が出来てなくて……」
本当は嬉しい筈の、嫌な予感がした。
「るり子、体は大丈夫か?」
るり子は口許を押さえた。
「……食材の匂いが……気分が悪くて……ごめんなさい」
俺はるり子を抱き上げてソファに座らせた。びっくりする程軽かった。痩せたか?
「るり子、子供が出来た?」
「え?……あ……」
「保険証ができたから、明日病院に行こう。俺も行くから」
「……はい」
俺は藤原さんに連絡した。あまり他人に言いたくなかったが、藤原さんだけは別だ。仕事のこともある。藤原さんからは、内密にするし仕事は心配いらないから終わり次第合流してくれと言われた。
もうすぐ夏になる。
外は蒸し暑かった。
「おめでとう。赤ちゃんがいますよ」
医師の言葉に、俺はるり子が喜ぶのかどうかを探るように見た。
「予定日は3月末ですね。お大事にね」
病院を出て二人になった。
俺を見たるり子は、幸せそうな表情をしていた。
「マキくん……」
後悔してないなんて思ったのはどこのどいつだ!
詫びるように言った。
「いいのか?留学したかっただろう?」
「あなたの赤ちゃんの方が嬉しい」
なんのためらいもなくそう言った、ように見えた。
俺はるり子を抱きしめつつ、「ごめん」と言わなかった。知らないフリ、気づかないフリをしていいのだろうか。るり子の無念さがあったのか、なかったのか、隠してでもそう言ってくれたのは優しさだと思っている。俺のせいにしてもよかったのに、自分から家を出たと言った強さを思い出した。
ただのお嬢様ではない、芯のある女だ。
そんな女の可能性を狭めてしまったことだけは忘れまい。
俺は一生るり子を大切にすると自分に誓った。
この女の、俺の子も。




