第九章 死ぬ瞬間
午後五時四十四分。
住宅街は、さっきまでより静かになっていた。
静かになったというより、人の気配だけが抜け落ちていた。
遼は十字路の手前で足を止めた。
森田も、もう理由を聞かなかった。
二人で塀の切れ目から先を覗く。道路に人はいない。停められた自転車が一台、倒れたままになっている。少し先の家では玄関扉が半分開き、テレビの音だけが外へ漏れていた。
「いないな」
森田が小声で言った。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「絶対なんか分からんでしょ」
遼は先へ出た。
走らない。
角を曲がる前に止まる。
見通せない場所には、先に逃げ道を作る。
一時間前まで意識していなかったことを、今は一つずつ確かめながら歩いていた。
スマートフォンの地図では、自宅までまだかなりある。
最短経路は大通りへ出る道だったが、そこは避けた。学校を出るとき、警察官が幹線道路を規制していると言っていた。車が詰まっていれば、人も集まる。人が集まれば、何か起きたときに逃げる方向が限られる。
遠回りでも、住宅街を抜ける。
今の遼には、その方がましに思えた。
森田がスマートフォンを見た。
「息子からまだ返事ない」
「既読は?」
「つかない」
「電話は?」
「さっきから呼び出しもしない」
森田は画面を消した。
「こんなときに限って、何年もまともに話してないの後悔するな」
遼は返す言葉を探した。
見つからなかった。
自分は美咲と話せている。
子どもたちが家にいることも分かっている。
それでも焦っている。
森田は、息子がどこにいるのかさえ確かめられない。
「行きましょ」
結局、それしか言えなかった。
二人が次の路地へ入ったとき、遠くで大きな衝突音がした。
金属が潰れる音。
続いて、クラクションが長く鳴った。
遼と森田は同時に止まった。
「近いか?」
「分からん」
音は建物に反射して方向が読めない。
遼は音のした方へ行かなかった。
確認しに行く理由がない。
事故なら警察か救急が必要だ。黒殻が関わっているなら、なおさら近づくべきではない。
「逆行きます」
「見なくていいのか?」
「見て何できるんです?」
森田は一瞬黙り、うなずいた。
二人は別の道へ曲がった。
そのとき遼は知らなかった。
今聞いた音とは別の場所で、ほぼ同じ時刻に、一つの記録が残ろうとしていた。
午後五時四十八分。
道路監視カメラの映像には、黒殻が車道の中央に立っていた。
映像は固定されている。
音声はない。
片側二車線の道路を、乗用車が一台、明らかに制御を失った状態で滑ってくる。
運転手が黒殻を避けようとしたのか、それとも直前まで気づかなかったのかは分からない。
車体が斜めを向く。
前輪が縁石へ乗り上げる。
その反動で車が戻り、黒殻へ衝突する。
黒い身体がボンネットへ乗り上げた。
フロントガラスへぶつかり、車体の上を越え、路面へ落ちる。
乗用車はその先のガードレールへ衝突して止まった。
映像右下の時刻表示。
17:48:11。
黒殻が起き上がろうとする。
片腕が動く。
17:48:12。
動きが止まった。
完全に。
倒れた姿勢のまま、指先さえ動かなくなった。
後に現場へ到着した警察官が活動停止を確認することになる。
だが、その映像だけなら特別なものではなかった。
今日一日、日本中で似た記録が増え続けている。
車にはねられた。
高所から落ちた。
拳銃で撃たれた。
火に巻かれた。
感電した。
人間は黒殻を殺せる。
その事実を示す映像の一つにすぎないはずだった。
問題は、別の映像にあった。
最初の道路から三十キロ以上離れた場所。
コンビニエンスストアの駐車場を映した防犯カメラ。
一体の黒殻が、店の前をゆっくり歩いている。
人を追っている様子はない。
店内には避難した客が数人いるが、黒殻はガラス扉へ近づかず、駐車場の端を横切っていた。
17:48:12。
歩いている。
17:48:13。
突然、止まった。
片足を前へ出しかけた姿勢のまま。
17:48:14。
動かない。
17:48:15。
まだ動かない。
17:48:16。
再び歩き始めた。
何事もなかったように。
転倒していない。
何かに衝突したわけでもない。
周囲の人間が攻撃した形跡もない。
映像の中で変化したものは、何もなかった。
ただ、三秒ほど止まった。
その映像が榊原真琴の手元へ届いたのは、十八時を少し前にしたころだった。
「もう一度」
榊原は言った。
研究室のモニターに二つの映像が並ぶ。
左が交通事故。
右がコンビニの駐車場。
助手が再生位置を戻した。
「同期させます」
左。
車が黒殻へ衝突する。
右。
別の黒殻が歩いている。
左の黒殻が路面へ落ちる。
17:48:12。
左が止まる。
その直後、右も止まる。
榊原は画面へ顔を近づけた。
「右の映像、元データの時刻は補正済み?」
「はい。機器側の時計ずれを確認しています。ネットワーク時刻との誤差は一秒未満です」
「距離は?」
「直線で三十キロ以上あります」
「同じ電源系統?」
「違います」
「通信会社は」
「それも一致しません」
榊原は腕を組んだ。
映像を止める。
黒殻が二体。
一体は死んでいる。
一体は遠く離れた場所で、三秒ほど動きを止めている。
それだけだ。
「偶然の可能性は?」
隣にいた久世修一が聞いた。
榊原は画面から目を離さなかった。
「ある」
「どのくらい」
「数字にできるほど材料がない」
久世は椅子の背へ手を置いた。
「じゃあ、何を見てる?」
「時刻」
「それは分かる」
「止まったことじゃない。死んだ瞬間と、別個体の停止が近すぎる」
「一件だけだ」
「だから一件として記録する」
榊原はノートへ書いた。
17:48:12 交通事故個体・活動停止。
17:48:13頃 別地点個体・約3秒停止。
距離 三十キロ以上。
原因不明。
その下に線を引く。
結論は書かなかった。
書けなかった。
今日の朝まで存在すら知られていなかった生物だ。
一つの一致から、都合のいい仕組みを作るべきではない。
それでも榊原は、朝から集めていた別の記録を開いた。
複数地点での短い停止。
急に頭部を上げる動き。
行動が途切れる瞬間。
時刻の精度が悪いものが多い。
映像がないものもある。
警察官の証言だけ。
消防隊員の報告だけ。
「数秒止まった気がする」
「急に動きをやめた」
「何かを聞いたように見えた」
人間の記憶は当てにならない。
混乱の中なら、なおさらだ。
榊原はそれらを証拠として扱っていなかった。
だが、もし。
「次が欲しい」
榊原が言った。
久世が眉を上げる。
「次?」
「別の個体が死んだ正確な時刻。その前後で、離れた場所にいる個体の映像を探す」
「何を見る?」
榊原は少しだけ間を置いた。
「同じことが起きるか」
午後五時五十四分。
遼と森田は、小さな公園の前で足を止めていた。
公園そのものに用はない。
問題は、その先だった。
道路の中央に黒殻が一体立っている。
距離は七十メートルほど。
さっきから動かない。
「またか」
森田が息を吐く。
「横道あります」
遼はすぐ右を見る。
細い道が一本。
ただし先は暗く、曲がっている。
「そっち行く?」
「一回見ます」
遼は道路沿いのカーブミラーを探した。
ない。
塀の向こうも見えない。
「俺がちょっと見る」
森田が前へ出ようとする。
遼は腕を掴んだ。
「一緒に行かんでええです。俺ここ見とくんで」
「お前、俺を信用してないだろ」
「してますよ」
「今の間は何だよ」
「死なん程度には」
森田が小さく笑った。
緊張が少しだけ抜ける。
森田が横道の入口まで行き、角の先を覗く。
「抜けられる。向こうに道路見える」
「行きましょ」
二人が動きかけたとき、遠くの黒殻が頭部をこちらへ向けた。
遼は止まった。
森田も止まる。
「見られた?」
「分からん」
黒殻は動かない。
距離がある。
だが七十メートルは、あれにとって十分な距離ではない。
遼は学校で見た加速を思い出した。
「ゆっくり下がります」
一歩。
二歩。
黒殻は動かない。
三歩。
その瞬間、黒殻が一歩前へ出た。
森田の顔から笑いが消えた。
「来るぞ」
「まだ走らんといて」
「でも」
「角入ったら走る」
黒殻がもう一歩進む。
遼たちは後退する。
横道まで五メートル。
四メートル。
三メートル。
黒殻の姿勢が変わった。
何かを溜めるような動きはない。
それが一番怖い。
次の瞬間には、速さが変わる。
「今!」
二人は横道へ入った。
走る。
角を曲がる。
森田が先。
遼が後ろ。
背後から足音は聞こえない。
聞こえないからこそ怖い。
二十メートル。
次の道路へ出る。
「左!」
遼が叫ぶ。
二人は左へ曲がった。
駐車中のワゴン車の陰へ入る。
遼はそこで初めて後ろを見た。
黒殻はいない。
「追ってない?」
森田が肩で息をしながら聞く。
「たぶん」
「またたぶんか」
「見えへんから」
遼も息を整える。
学校で優斗に言われた言葉が浮かんだ。
逃げるのが上手い。
上手くなったつもりはない。
ただ、黒殻の前で何かを証明しようとする気は、もうなくなっていた。
生きて離れればいい。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
《今どこ?》
遼はすぐ返信する。
《まだ途中。歩いて帰ってる》
少し迷ってから続けた。
《暗くなるけど絶対帰る》
送信。
今度はすぐ既読がついた。
《無理だけはせんといて》
遼は画面を見て、小さく息を吐いた。
「奥さん?」
「はい」
「帰れって?」
「無理すんなって」
「難しい注文だな」
「ほんまに」
二人は再び歩き出した。
午後六時二分。
駅前の臨時規制線では、相沢健吾が拳銃を構えていた。
数十メートル先。
黒殻が一体、横断歩道の中央にいる。
周囲の店舗はシャッターを下ろし、道路には放置された車が何台も残っている。
規制線の内側には、逃げ遅れた人間がまだいた。
「下がってください!」
相沢が叫ぶ。
佐伯菜月は、コンビニの壁際へ移動した。
朝から何度も見た黒い身体。
それでも慣れない。
慣れてはいけないもののように思えた。
「相沢さん!」
別の警察官が声を上げる。
黒殻が動いた。
歩く。
規制線ではなく、道路脇に残された乗用車の方へ。
相沢は銃口を下げない。
「撃つんですか」
菜月が聞いた。
「人に向かえば撃ちます」
「今は?」
「まだです」
短い返事だった。
相沢の額には汗が浮いていた。
今日、すでに黒殻へ発砲している。
撃てば倒せる。
それは分かっている。
だが、撃つ必要がないなら撃たない。
弾数の問題もある。
何より、規制線の向こうにはまだ一般人がいる。
黒殻が突然加速すれば、射線も変わる。
無線が鳴る。
『北側交差点、避難完了まで二分』
相沢が応答する。
「了解」
黒殻が止まった。
頭部が動く。
道路の端。
若い男が一人、建物の陰から飛び出した。
「待て!」
相沢が叫ぶ。
男は聞かない。
道路を横切ろうとする。
黒殻の頭部が男へ向いた。
菜月の背筋が冷えた。
「走らないで!」
声が出た。
遅かった。
男が走る。
黒殻が消えた。
相沢の腕が動く。
銃声。
一発。
黒殻の身体がわずかにぶれる。
止まらない。
二発目。
男との距離が縮まる。
三発目。
黒殻の上体が崩れた。
それでも脚が前へ出る。
四発目。
黒殻が路面へ倒れた。
男が転ぶ。
別の警察官が駆け寄り、引きずるように規制線の内側へ連れてくる。
相沢は銃口を下げなかった。
倒れた黒殻を見る。
動いている。
指先。
肩。
黒い外殻の隙間。
「まだです!」
警察官が叫ぶ。
相沢は一歩だけ射線を変えた。
残弾を意識する。
別の警察官が前へ出る。
拳銃を構える。
一発。
黒殻の動きが止まらない。
二発目。
午後六時三分十四秒。
黒殻の身体から、動きが消えた。
完全に。
相沢は数秒待った。
「活動停止を確認」
誰かが時刻を読み上げる。
「十八時三分十四秒」
菜月は壁へ背中をつけたまま、その数字を聞いた。
数字に意味があるとは思わなかった。
ただ、今日の警察は黒殻が倒れるたびに時刻を残している。
朝なら奇妙に思ったかもしれない。
今は、何でも記録しなければならないのだろうと思った。
相沢が拳銃を収める前に、無線が入った。
『こちら東地区。対象一体、異常行動』
相沢が顔を上げる。
『攻撃なし。突然停止。繰り返す、突然停止』
「時間は?」
無線の向こうで確認する声。
『十八時三分十五秒ごろ。停止は数秒。現在は再び移動しています』
相沢は倒れた黒殻を見た。
「何だ、それ」
菜月にも意味は分からなかった。
だが相沢は、すぐ無線へ返した。
「その時刻、正確に残してください。映像があれば保存を」
『了解』
相沢はもう一度、路面の黒い身体を見る。
「十八時三分十四秒……」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
研究室で電話が鳴ったのは、その二分後だった。
榊原は受話器を取り、相手の所属と名前を聞くより先にメモを開いた。
「死亡確認ではなく、活動停止時刻でお願いします」
電話の向こうで言葉が返る。
榊原のペンが止まった。
「もう一度」
十八時三分十四秒。
銃撃を受けた個体の活動停止。
別地点。
十八時三分十五秒ごろ。
攻撃を受けていない個体が突然停止。
数秒後、再開。
榊原は椅子から立った。
「映像は?」
『あります。警察の記録と、近くの店舗の防犯映像を確保中です』
「元データのまま送ってください。加工しないで」
受話器を置く。
久世がこちらを見る。
「来た?」
「二件目」
「何で死んだ」
「銃撃」
「さっきは車」
「そう」
「離れた個体は?」
「止まった」
「何秒後」
「ほぼ同時。一秒程度」
久世の表情から、わずかに余裕が消えた。
「偶然?」
榊原は答えなかった。
一件なら偶然で済む。
二件でも偶然はあり得る。
観測数が少ない。
時刻精度にも限界がある。
別地点の個体が、何らかの外部刺激に反応した可能性も排除できない。
それでも、死ぬ瞬間だけが二度重なった。
一度目は交通事故。
二度目は銃撃。
死因は違う。
場所も違う。
死んだ個体も違う。
それなのに、遠くの個体が止まった。
榊原はホワイトボードへ向かった。
17:48:12 A個体 交通事故後、活動停止
17:48:13頃 B個体 約3秒停止 → 再開
18:03:14 C個体 銃撃後、活動停止
18:03:15頃 D個体 数秒停止 → 再開
久世が横から見る。
「死んだのが分かるのか?」
「誰に?」
「他の個体に」
榊原はペンを持ったまま止まった。
その言い方を、自分は避けていた。
分かる。
知る。
伝わる。
どれも、仕組みを想定しすぎる。
「まだ分からない」
「でも、そう見える」
「見えるだけ」
「じゃあ仮説は?」
榊原はホワイトボードの二組の時刻を見る。
書くべきではない気がした。
書けば、それが答えになってしまう。
だが仮説がなければ、次に何を調べるかも決められない。
榊原はゆっくり文字を書いた。
死亡時、他個体へ何らかの情報伝達?
疑問符を大きく付ける。
久世が読む。
「情報、か」
「何が伝わっているかは分からない」
「死んだことだけかもしれない」
「それすら分からない」
「痛みかもしれない」
「人間の言葉に置き換えないで」
榊原はすぐ返した。
久世が肩をすくめる。
「厳しいな」
「今は言葉一つで観察を歪める」
榊原は映像をもう一度再生した。
銃撃された黒殻が倒れる。
別の場所の黒殻が止まる。
それだけ。
だが、止まったあとに何をしている。
榊原は映像を拡大した。
「ここ」
「何?」
「再開した直後」
D個体が動き始める。
頭部をわずかに傾ける。
その後、元と同じ方向へ歩き出す。
行動が変わったようには見えない。
銃を避けたわけでもない。
車を避けたわけでもない。
少なくとも、この数秒で何か新しい能力を得たようには見えない。
榊原はそこを重要だと思った。
「止まることと、変わることは別」
「どういう意味だ?」
「今の時点で確認できるのは、死亡の瞬間に別個体の行動が一時的に途切れることだけ」
「共有してるかもしれない。でも、共有した結果はまだ分からない」
「そう」
榊原はペンで「情報伝達?」の下へ追記した。
即時の行動変化は確認できず。
その一行を書いたことで、少しだけ頭が整理された。
現象と解釈を分ける。
それしかない。
「全国の映像を洗いたい」
「無茶言うな」
「死亡時刻が秒単位で取れている個体だけでいい。その前後十秒。離れた場所の個体映像と照合する」
「警察だけじゃ足りない」
「消防、自衛隊、自治体、道路会社、店舗、防犯カメラ。使えるもの全部」
久世は苦笑した。
「今夜寝る気ないだろ」
「寝てる場合なら寝る」
「場合じゃない?」
榊原は答えなかった。
ホワイトボードの四つの時刻を見た。
まだ二組。
たった二組。
だが、もし三組目が出るなら。
もし四組目も同じなら。
黒殻は、一体ずつ独立して存在しているわけではないのかもしれない。
その考えが正しければ、今日、人間が各地で倒している数百体の死は、個別の出来事ではなくなる。
榊原はそこまで考えて、思考を止めた。
先へ行きすぎている。
まだ証拠がない。
「死亡した個体の死因も全部分けて」
榊原が言った。
久世が振り返る。
「車、銃、火、電気、落下、圧迫。分かる範囲で細かく」
「何のために?」
「今は分からない」
「分からないのに?」
「分からないから残すの」
榊原は答えた。
「後で必要になってから、今日の記録は取り直せない」
午後六時十一分。
遼は小さな橋の手前で立ち止まっていた。
橋といっても、住宅街を流れる細い川に架かった二車線の橋だ。
向こう岸へ渡れば、自宅へ近づく。
だが橋の上には車が三台止まっている。
一台は斜めを向き、道を半分塞いでいた。
人はいない。
「通れるな」
森田が言った。
遼はすぐには進まなかった。
橋を見る。
逃げ道が少ない。
左右は川。
前後しかない。
車の陰も見えない。
「嫌やな」
「何が?」
「橋」
「渡らないと遠回りだぞ」
「分かってます」
遼は地図を見る。
次の橋まで回れば、かなり遠い。
暗くなる前に少しでも距離を稼ぎたい。
だが、黒殻が橋の向こうから来れば逃げる方向は一つになる。
「先、俺が見る」
森田が言った。
「二人で端まで行きましょ。あかんかったらすぐ戻る」
二人は橋へ近づいた。
足音がやけに大きく聞こえる。
十メートル。
二十メートル。
止まっている車の中を確認する。
無人。
運転席のエアバッグが開いている車もある。
橋の中央。
川の水が下で黒く流れている。
森田が向こう岸を見た。
「いける」
その瞬間。
遠くで銃声が聞こえた。
一発。
少し間を置いて、もう一発。
さらに二発。
遼は反射的に立ち止まった。
「また撃ってるな」
森田が言う。
「……そうですね」
どこかで誰かが助かっている。
そう思う。
撃てば倒せる。
今日の黒殻は、まだ人間の武器で倒せる。
なら撃つのは当然だ。
遼はそう考えながら、なぜか学校で見た倒れた黒殻を思い出した。
一体目。
二体目。
三体目。
今日だけで、いくつ死んだのだろう。
「真壁?」
「いや、行きましょ」
二人は橋を渡り切った。
向こう岸へ足をつけた瞬間、遼は少しだけ肩の力を抜いた。
橋を渡っただけだ。
それでも、家へ一歩近づいた。
スマートフォンを見る。
午後六時十三分。
美咲へ短く送る。
《また少し近づいた》
送信済みになるまで数秒かかった。
森田が先を見ながら言った。
「息子の家、ここから三キロくらいだ」
「じゃあ途中まで一緒ですね」
「お前の家は?」
「まだ先です」
「今日中に着くのか?」
遼は暗くなり始めた空を見た。
「着きます」
根拠はなかった。
だが、そう言った。
帰ると決めている。
それだけは変えない。
午後六時二十一分。
榊原の机には、追加の報告が積み上がり始めていた。
精度の低いものが多い。
「十七時台、数秒停止した」
「銃撃の直後、別地点で立ち止まったように見える」
「時刻不明」
「映像なし」
使えない。
少なくとも、今は。
榊原は確実な二組だけを残した。
17:48:12。
18:03:14。
十五分ほどしか離れていない。
死因は違う。
それぞれの死亡直後、離れた別個体が数秒停止した。
久世が紙コップのコーヒーを置いた。
「警察から、今日の活動停止個体の一覧が来る」
「時刻は?」
「秒まであるのは一部。分単位ならかなり」
「秒まであるものから」
「了解」
榊原はコーヒーに手をつけなかった。
モニターには、18:03:14の映像が止まっている。
黒殻が路面に倒れた瞬間。
隣の画面には、18:03:15の別個体。
動きを止めた瞬間。
榊原は二つを交互に見る。
「死ぬ瞬間に、何が起きてる」
声に出してから、自分で首を振った。
問いが大きすぎる。
分かっていることだけに戻す。
一体が活動を停止する。
ほぼ同時に、離れた一体の行動が途切れる。
数秒後には戻る。
それが二度。
「共有」
久世が小さく言った。
榊原は彼を見る。
「何?」
「さっきから考えてた。通信とか感知とかより、共有って言葉の方が近くないか」
「何を共有してるの」
「だから、それは分からない」
「ならまだ使わない」
「仮の名前くらい必要だろ」
榊原は黙った。
久世がホワイトボードの疑問符を指す。
「死亡情報共有。仮称」
「強すぎる」
「死亡時反応」
「それなら観測事実に近い」
榊原は新しい紙に書いた。
死亡時反応。
そして、その横に小さく括弧をつけた。
他個体との情報共有の可能性。
まだ可能性だ。
仮説ですら、輪郭が薄い。
けれど、その文字を見た瞬間、榊原の背中に冷たいものが走った。
もし本当に共有しているなら。
人間が一体を殺したとき、その死は一体だけのものではない。
遠くの黒殻が、何かを受け取っている。
何を。
死んだという事実だけなのか。
死ぬ直前の感覚なのか。
死因なのか。
どこまでなのか。
榊原はそこで思考を切った。
証拠がない。
だが、調べるべきものは決まった。
「久世」
「ん?」
「これから黒殻を倒した現場には、必ず正確な時刻を残してもらう」
「全国に?」
「できる限り」
「理由はどう説明する」
榊原は二つの映像を見た。
「別地点の個体に、同時刻の異常が出ている可能性があるって」
「共有とは言わない?」
「まだ言わない」
「慎重だな」
「間違った言葉が広まる方が怖い」
榊原は受話器を取った。
今日の朝、黒殻が現れた。
昼には、人間はそれを殺せると分かった。
夕方には、殺す方法が次々と記録されている。
そして今。
榊原は初めて、黒殻の「死」が一体の中だけで終わっていない可能性を見ていた。
まだ誰にも断言できない。
まだ何も証明されていない。
それでも、ホワイトボードに並んだ四つの時刻は消えなかった。
17:48:12。
17:48:13頃。
18:03:14。
18:03:15頃。
一体が死ぬ。
遠くの一体が止まる。
偶然なら、それでいい。
榊原はそう思った。
偶然であってほしい、と。
だが研究者として、その願いを記録へ混ぜることはできなかった。
彼女は新しい記録用紙の一番上に、時刻を書き込んだ。
次に死ぬ一体を待つために。




