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黒殻  作者: みっち


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8/11

第八章 逃げる技術

午後五時十一分。

「警察の人!」

遼の声に、校門近くの警察官が振り返った。

「道路! 四体おる!」

指を差す。

夕闇の中を、一番手前の黒殻《こっかく》が歩いていた。

その後ろに三体。

間隔を空け、同じ方向へ進んでいる。

体育館の中でも気づいた者がいた。

ざわめきが広がる。

「また来た……」

「四体?」

「さっき全部倒したんじゃないのかよ!」

校門にいた警察官が無線を取った。

もう一人が規制線の内側へ下がりながら拳銃を抜く。

遼は窓から離れた。

さっき見た。

百メートルという距離は、安全を意味しない。

歩いているから遅いわけでもない。

黒殻は、必要になるまで速く動かないだけだ。

「窓から離れてください!」

教職員が叫ぶ。

人が一斉に体育館の中央へ動いた。

遼は逆に壁際へ寄った。

中央へ集まれば、何かあったときに動けなくなる。

それをさっき経験したばかりだった。

「森田さん」

作業着の男が振り向く。

「何だ?」

「出口、正面以外にどこあります?」

森田修司は一瞬、遼の顔を見た。

「逃げる気か?」

「今すぐちゃいます。逃げ道だけ見ときたい」

森田は体育館を見回した。

「舞台の横に扉がある。さっき教師が出入りしてた」

遼も見る。

舞台袖の脇に、緑色の非常口表示。

その先がどこへつながるかは分からない。

もう一つ、器具庫の横にも扉がある。

正面玄関を含めて三つ。

ただし、外に黒殻がいる方向へ出れば意味がない。

遼はスマートフォンを取り出した。

学校の航空写真を開こうとする。

地図が白いまま止まった。

電波は一本。

「くそ」

校庭から怒鳴り声がした。

「止まれ!」

黒殻は止まらない。

体育館の中が静かになった。

一発目の銃声。

続いて二発。

窓際から離れた遼には命中したか分からない。

三発目。

四発目。

誰かが言った。

「倒れた?」

返事はない。

無線の声が重なった。

外から別の発砲音がする。

さっき聞いた拳銃より低く、鋭い。

応援に来た警察官か、それとも別の部隊か。

遼には分からない。

ただ、撃てば倒せる。

今日のところは。

その事実だけが、体育館にいる全員をここへ留めていた。

「一体、活動停止!」

外から声が飛んだ。

小さな歓声が起きる。

遼は息を吐かなかった。

まだ三体いる。

そして、黒殻が四体だけだという保証もない。

「真壁さん」

さっき助けた男の子の母親が近づいてきた。

優斗と呼ばれていた子どもは、母親の腰にしがみついている。

「大丈夫なんでしょうか」

「分かりません」

遼は正直に答えた。

女性の顔が強張る。

言い方を間違えたと思った。

「でも、もし動くことになったら、人が集まってる真ん中より壁際の方がええと思います。出口も見えるんで」

「逃げるんですか?」

「逃げなあかん状況になった時の話です」

女性はうなずいた。

「私、藤本です。藤本理恵。この子が優斗」

「真壁です」

名前を覚える余裕なんてないと思った。

それでも、遼は覚えた。

今日だけで、知らない人間の名前が増えていく。

そのたびに、その人間が死なないでほしいと思う自分がいた。

外で再び銃声がした。

今度は連続している。

悲鳴。

校門側ではない。

体育館の右手。

「横から来てる!」

誰かが叫んだ。

人の群れが左へ動く。

「走らないで!」

教師の声は届かない。

遼は壁へ背中をつけた。

視線だけを動かす。

右側の窓。

正面入口。

舞台横の非常口。

藤本親子。

森田。

自分のバッグ。

アルミ板。

一度に全部を見る。

朝なら、黒殻そのものしか見ていなかった。

今は違う。

黒殻を見るだけでは逃げられない。

どこへ逃げるか。

何が邪魔になるか。

誰が動けば人の流れが変わるか。

そっちを見る。

「先生!」

遼は近くの男性教員へ声をかけた。

「舞台横の扉、どこ出ます?」

「え?」

「非常口です!」

「校舎との渡り廊下の手前です。外廊下に出ます」

「裏門には?」

「そのまま校舎沿いに行けば――」

教員の言葉が止まった。

窓の外を見ている。

遼も振り向く。

黒い身体が、校庭を横切った。

速い。

視界の端から端まで、一秒もかからない。

直後、金属が激しく鳴った。

校門のフェンスだった。

「入ってきた!」

体育館が崩れた。

人が正面入口から離れる。

奥へ。

舞台へ。

壁へ。

逃げる方向がばらばらだった。

遼は藤本の腕を掴みそうになって、やめた。

「藤本さん、優斗くんの手、絶対離さんといて!」

「はい!」

「森田さん!」

「分かってる!」

森田がリュックを背負う。

その手には、いつの間にか体育館のモップが握られていた。

「それ置いた方がええ!」

「何でだよ!」

「戦う気になるから!」

森田が目を見開いた。

「来たら殴るしかないだろ!」

「殴って止まる相手ちゃう!」

「じゃあどうする!」

「逃げる!」

言い切った瞬間、遼自身が驚いた。

朝から何度も逃げた。

車で。

路地で。

脚立を投げて。

そのたびに、逃げることを負けのように感じていた。

今は違う。

生きて家へ帰るために必要なら、逃げる。

それでいい。

体育館の正面扉が閉められた。

教師が内側から鍵をかける。

「カーテン閉めて!」

窓際の人間が動く。

だが全部を閉める前に、外から銃声がした。

一発。

二発。

その直後。

窓ガラスの向こうを黒い影が通った。

速すぎて、どちらへ行ったのか分からない。

優斗が泣き出した。

理恵が口元を押さえるように抱き寄せる。

「大丈夫、大丈夫だから」

母親自身が信じていない声だった。

遼はバッグの外ポケットへ手を伸ばした。

アルミ板に指が触れる。

使うか。

まだ早い。

黒殻の位置が分からない。

投げた先に人がいれば、そちらへ向かわせるかもしれない。

それに、この小さな板へどれだけ反応するかも分からない。

朝の脚立とは量も大きさも違う。

「正面、離れて!」

警察官の声。

次の瞬間、体育館の扉が外側から大きく鳴った。

一度。

二度。

人々が悲鳴を上げる。

扉そのものがへこんだわけではない。

何かがぶつかった音でもない。

取っ手のあたりが揺れた。

遼は息を止めた。

壊そうとしているのか。

触っているだけなのか。

分からない。

三度目はなかった。

代わりに、扉の向こうを何かが横切る気配がした。

「今のうちに裏から出た方がいいんじゃない?」

女性が言った。

「そうだ、裏から!」

数人が舞台横へ走り始める。

「待って!」

男性教員が両手を広げた。

「外の安全確認ができてません!」

「ここにいたら入ってくるだろ!」

「でも外にいるかもしれない!」

「じゃあどうしろってんだ!」

怒鳴り声が重なる。

遼は舞台横の扉を見る。

閉まっている。

その向こうは外廊下。

黒殻がいるかどうかは誰にも分からない。

正面も危険。

裏も分からない。

こういうとき、人は安全な道を探す。

だが安全な道なんてない。

あるのは、危険が少なそうな道だけだ。

遼は男性教員へ聞いた。

「裏門まで、曲がり角何個あります?」

「二つです。校舎の角を曲がって、給食室の先を右です」

「フェンス?」

「裏門は引き戸です」

「鍵は?」

「開いてるはずです。避難者の搬入で――」

銃声。

今度は近い。

体育館の壁の向こう。

誰かが叫んだ。

「警察官が倒れた!」

空気が凍った。

「撃たれたの?」

「違う、黒いのに!」

正面扉の外から無線の叫び声が聞こえる。

言葉までは分からない。

だが状況が悪くなったことだけは分かった。

遼は舞台横の非常口を見る。

「先生。開けて、外だけ確認できません?」

「危険です」

「全開にせんでええ。少しだけ」

教員は迷った。

森田が割って入る。

「俺が見る」

「森田さん」

「逃げるんだろ。出口くらい見ないと始まらない」

モップはもう持っていなかった。

遼はうなずいた。

教員が非常口へ近づく。

周囲の人間を下がらせる。

鍵を外す音。

扉を数センチだけ開く。

夕方の空気が細い隙間から入った。

教員が覗く。

森田も少し離れて見る。

「見える?」

「外廊下にはいません」

「校舎の角は?」

「ここからは見えない」

そのとき。

正面側でガラスが割れた。

体育館全体が叫んだ。

遼は振り向く。

割れたのは扉ではない。

正面脇の窓。

黒殻が突っ込んだのではなかった。

外から逃げ込もうとした男が、窓へ身体をぶつけたのだ。

「開けて! 開けてくれ!」

額から血を流し、窓を叩いている。

その後ろ。

黒殻がいた。

十数メートル。

歩いている。

男が正面扉へ走る。

「開けろ!」

中の教師が鍵へ手を伸ばす。

「待って!」

誰かが止める。

「入ってくる!」

「人がいるんだぞ!」

一瞬の迷い。

その一瞬で、黒殻が消えた。

男の背後へ現れる。

遼の身体が先に動いた。

バッグからアルミ板を抜く。

窓際へ走る。

「真壁!」

森田の声。

遼は割れた窓から腕だけを出した。

黒殻へ向けて投げない。

人のいない校庭の端。

砂場のさらに向こう。

銀色の板を、できるだけ遠くへ投げた。

夕日を受け、板が一度光った。

地面へ落ちる。

乾いた音。

黒殻の頭部が動いた。

男ではなく。

銀色の板の方へ。

ほんの一瞬。

止まった。

「今!」

正面扉が開く。

男が転がり込む。

警察官も一人、肩を押さえながら入ってきた。

扉が閉まる。

鍵。

遼は窓から離れた。

外を見る。

黒殻はアルミ板へ向かって走ってはいない。

数歩だけ方向を変えた。

そして止まる。

頭部が再び体育館へ向いた。

「短い……」

朝の脚立とは違う。

脚立のときは、もっとはっきり引かれていた。

小さな板では、注意を奪える時間が短い。

それでも。

数秒あった。

数秒で、一人が中へ入れた。

「今の何だ?」

森田が遼の腕を掴んだ。

「アルミです」

「アルミ?」

「反応することがある」

「じゃあもっと投げろ!」

「もうない」

森田が黙る。

「それに、いつでも効くか分からん」

遼は窓の外を見た。

黒殻はもう板を見ていない。

体育館へ歩いてくる。

「数秒や」

自分に言い聞かせるように言った。

「数秒あったら、逃げ道は作れる」

肩を負傷した警察官が壁へ座り込んだ。

制服の肩口が裂けている。

血は出ているが、自分で動けている。

別の警察官が無線を取る。

「体育館内に避難。正面側一体接近。裏手の安全確認を要請」

返事。

「裏門側、現時点で目視なし」

その言葉を聞いた人々が一斉に舞台横へ向いた。

男性教員が叫ぶ。

「順番に! 押さないでください!」

無理だった。

全員が同じ出口へ向かえば、すぐ詰まる。

遼は舞台の階段へ上がった。

「走ったら詰まる!」

自分でも驚くほど大きな声が出た。

何人かがこちらを見る。

「子どもと足悪い人先! 出口の前で止まったらあかん! 出たらそのまま校舎沿い!」

「誰だあんた!」

男が怒鳴る。

「誰でもええ! ここで押し合ったら出られへん!」

一瞬だけ、流れが止まった。

男性教員がすぐ引き継ぐ。

「その通りです! 小さいお子さん、高齢者から! 外へ出たら裏門方向へ進んでください!」

別の教員も動く。

「一列にしてください!」

完全ではない。

それでも人の流れに方向ができた。

藤本が優斗の手を握る。

「真壁さんは?」

「後ろ行きます」

「でも――」

「先行ってください」

優斗が遼を見る。

泣いていた顔に涙の跡が残っている。

「おじちゃんも来る?」

「行くで」

「絶対?」

遼は一瞬だけ言葉に詰まった。

「絶対行く」

藤本親子が列へ入る。

森田が隣へ来た。

「お前、家に帰るんじゃなかったのか」

「帰りますよ」

「最後に残ってたら帰れないぞ」

「森田さんも残ってるやないですか」

「俺は……」

森田は言葉を切った。

「何となくだ」

遼は少し笑った。

「俺もです」

正面扉がまた鳴った。

今度は一度だけ。

鍵の金具が震える。

列が乱れかける。

「押さない!」

教員が叫ぶ。

遼は時計を見る。

人が外へ出始めてから、まだ一分も経っていない。

一分が長い。

非常口から外へ出た人々が、校舎沿いを裏門へ向かっている。

だが体育館にはまだ百人近く残っている。

正面の窓から黒殻が見えた。

扉の前にはいない。

数メートル離れ、頭部を左右へ動かしている。

何をしている。

入口を探しているのか。

人の動きを見ているのか。

アルミ板を気にしているのか。

分からない。

遼は答えを考えるのをやめた。

分からないものの答えを待っていたら、逃げる時間を失う。

「森田さん、行って」

「お前は?」

「次行く」

「一緒でいいだろ」

そのとき、正面とは反対側から叫び声がした。

「裏門に一体!」

列が止まった。

最悪だった。

外へ出た人間が戻ろうとする。

体育館から出ようとする人間とぶつかる。

「戻らないで!」

教師が叫ぶ。

「裏門じゃない! 校舎の北側!」

外から別の声。

情報が錯綜する。

遼は非常口から半身を出した。

外廊下。

左に体育館の壁。

右に校舎。

四十メートルほど先で、人が立ち止まっている。

そのさらに向こう、校舎の角。

黒い頭部が見えた。

裏門そのものではない。

だが進路上に近い。

人の群れが止まれば追いつかれる。

「校舎の中、通れます?」

遼が教員へ聞く。

「一階の廊下なら! でも正面玄関側へ出ます!」

「途中に別の出口は?」

「職員玄関があります。駐車場側です!」

「そっち黒殻は?」

「分かりません!」

安全な道はない。

また同じだった。

遼は外の黒殻を見る。

歩いている。

こちらへまっすぐではない。

校舎の壁に沿うように進んでいる。

その進路と避難者の列が、このままなら交わる。

「学校の中通ろう!」

遼は叫んだ。

「外の列止めて! 校舎入って職員玄関!」

男性教員が判断した。

「分かりました! こちらです!」

校舎側の扉が開く。

人の流れが曲がる。

黒殻を倒す必要はない。

黒殻のいない方へ動けばいい。

遼はその単純なことを、ようやく身体で理解し始めていた。

相手を止めようとすると、相手を見る。

逃げようとすると、周囲を見る。

出口を見る。

道を見る。

人を見る。

それだけで、生き残るために必要な情報が増える。

「真壁!」

森田が叫んだ。

黒殻が加速した。

校舎の角から、外廊下へ。

距離は五十メートルほど。

遼は走った。

体育館へ戻るのではない。

校舎の扉へ。

森田も続く。

「閉めろ!」

最後尾の教員が扉を押さえている。

遼と森田が飛び込む。

扉が閉まる。

直後。

外を黒い影が通過した。

衝突はしなかった。

黒殻は扉の前で止まらず、そのまま先へ抜けた。

「行った……?」

森田が息を切らす。

遼は返事をしなかった。

廊下には避難者が連なっている。

蛍光灯は停電で消え、非常灯だけが床を照らしていた。

「職員玄関まで進んで!」

教員が先頭で誘導する。

遼は走らず、早足で進んだ。

窓の外を確認する。

黒殻はいない。

角を曲がる。

階段前。

職員室。

壁に貼られた行事予定。

昨日までなら何でもなかった学校の廊下が、今は迷路に見える。

前方で人が止まった。

「何?」

「玄関の外にいる!」

まただ。

遼は人の間を抜け、前へ出た。

職員玄関のガラス越し。

駐車場に黒殻が一体いた。

動いていない。

こちらを向いているようにも見える。

「出られない……」

藤本が優斗を抱き寄せる。

遼は周囲を見る。

廊下。

教室。

階段。

窓。

「二階行ったら逃げ道なくなる」

森田が言った。

「分かってます」

「じゃあどうする」

遼は答えず、職員玄関の横を見る。

靴箱。

傘立て。

掲示板。

その奥に、資源回収用らしい箱が積まれている。

空き缶。

大量ではない。

だが銀色の缶がいくつか見えた。

遼の足が止まる。

「先生、あれ捨てるやつ?」

「え?」

「缶です」

「たぶん資源回収の――」

遼は箱へ近づいた。

アルミ缶を一つ取る。

軽い。

朝、自販機のそばで見た反応を思い出す。

小さな缶一個では弱い。

さっきの板も数秒だった。

箱の中を見る。

十数本。

全部がアルミとは限らない。

一本ずつ確かめる時間もない。

遼は箱ごと持ち上げた。

「何する気だ?」

森田が聞く。

「分からん」

「おい」

「でも試す」

職員玄関から外へ出るのではない。

廊下を少し戻り、駐車場に面した窓を探す。

人のいない方向。

校庭とは反対側に、小さな植え込みと物置が見える。

黒殻から二十メートル以上離れている。

窓を開ける。

「真壁さん、危ない!」

遼は箱の中身を掴んだ。

一缶ではない。

両手で五、六本。

物置の向こうへ投げる。

缶がアスファルトへ落ちる。

軽い金属音が連続した。

黒殻の頭部が動く。

止まる。

遼は息を呑んだ。

さっきの板より反応が弱いようにも見える。

だが見ている。

「もう一回」

残りを別の方向ではなく、同じ場所へ投げる。

数本が物置の壁へ当たる。

黒殻が一歩動いた。

二歩。

職員玄関から離れる。

「今や!」

教員が玄関を開ける。

人が外へ出る。

「走らない! 右へ! 道路まで出たら散らばらないで!」

遼は黒殻を見続けた。

缶の方へ向かっている。

ただし、まっすぐ吸い寄せられているわけではない。

途中で止まる。

頭部が人の列へ戻る。

また缶へ向く。

迷っているように見えた。

違う。

迷うという言葉を、人間ではないものへ当てはめていいのか分からない。

複数の刺激のどれを優先するかが変わっている。

それだけかもしれない。

「早く!」

森田が遼の肩を叩く。

ほとんどの避難者が外へ出た。

藤本親子もいる。

優斗が振り返っている。

遼は窓を閉めた。

「行こ」

職員玄関を抜ける。

外へ。

夕方の空気が冷たく感じた。

駐車場を横切る。

背後で金属音がした。

振り返らない。

見れば遅くなる。

「道路まで!」

警察官が誘導している。

学校の正面とは反対側の生活道路へ出る。

そこに黒殻はいない。

少なくとも今は。

百人以上の人間が道路へ流れ出す。

遼は走る速度を落とした。

集団の真ん中へ入らない。

端を歩く。

曲がり角の先を見る。

駐車車両の下を見る。

開いている門を見る。

逃げ込める場所ではなく、抜けられる場所を探す。

森田が横へ並んだ。

「お前、何者なんだよ」

「電話屋です」

「絶対違うだろ」

「ほんまです」

森田が息を吐きながら笑った。

「電話屋が化け物から逃げる方法なんか知ってるかよ」

「知らんから逃げてるんです」

「それ、答えになってないぞ」

遼は後ろを見た。

学校の校舎が遠ざかる。

黒殻は見えない。

銃声も止まっている。

「倒し方は警察とか自衛隊に任せたらええ」

遼は言った。

「俺らは、逃げ方覚えた方がええと思う」

森田は返事をしなかった。

少し先で、避難者の列が二つに分かれ始めた。

警察官が拡声器で叫んでいる。

「西側の公民館へ移動してください! 学校周辺は封鎖します!」

遼は足を止めた。

公民館は家とは逆方向だった。

また遠ざかる。

スマートフォンを見る。

午後五時三十八分。

美咲から新しいメッセージはない。

電波は一本。

ここで公民館へ行けば、夜になる。

家までの距離はまだある。

道路の状況も分からない。

だが学校に留まる選択肢は消えた。

「真壁さん」

藤本が声をかけた。

「公民館、行きます?」

遼は答えようとして、止まった。

自分が決めることではない。

藤本には藤本の事情がある。

森田にも。

「俺は家に帰ります」

「今から?」

「はい」

「危ないですよ」

「危ないです」

否定しなかった。

「でも、暗くなったらもっと動きにくい」

藤本は優斗を見る。

「私たちは公民館へ行きます」

「その方がええと思います」

「さっきは、本当にありがとうございました」

「いや」

優斗が遼を見上げる。

「おじちゃん、逃げるの上手やな」

遼は思わず笑った。

「そうか?」

「うん」

褒められている気はしなかった。

それでも、その言葉は妙に残った。

逃げるのが上手い。

朝までなら、情けない言葉に聞こえただろう。

今は違う。

生きて帰れるなら、それでいい。

藤本親子が公民館へ向かう列へ入る。

森田は動かなかった。

「森田さんは?」

「俺も公民館は逆だ」

「家?」

「いや。息子の家」

森田はスマートフォンを見た。

「元嫁とは連絡つかない。でも住所は知ってる」

「方向は?」

森田が指を差す。

遼が帰る方向とは途中まで同じだった。

「じゃあ、そこまで一緒に行きます?」

「お前、人が良すぎるって言っただろ」

「途中までです」

森田は少し考えた。

「分かった」

二人は避難者の列から外れた。

警察官に止められる。

「どこへ行くんですか!」

「家族のところです」

「今は公民館へ避難してください!」

遼は学校の方を見る。

「ここから先、通行禁止ですか?」

「幹線道路は規制しています。住宅地側も安全確認できていません」

「通行禁止ではない?」

警察官が顔をしかめた。

「推奨しません」

「分かりました」

「本当に危険ですよ」

「分かってます」

分かっていない。

危険がどこにあるか分からないから危険なのだ。

それでも行く。

遼と森田は細い住宅街へ入った。

大通りより人が少ない。

車も少ない。

代わりに、見通しが悪い。

塀。

曲がり角。

駐車場。

家と家の隙間。

黒殻が立っていても、近づくまで分からない。

遼は歩く速度を落とした。

「走らないのか?」

森田が聞く。

「見えへんから」

「何が」

「角の先」

遼は十字路の手前で止まる。

いきなり顔を出さず、道路の反対側にある家の窓ガラスを見る。

薄暗いガラスに、交差する道路の一部が映っている。

誰もいない。

少しだけ前へ出る。

左右を見る。

「工事現場みたいだな」

森田が言った。

「似たようなもんです。見えへんとこに何あるか分からんのは」

「電話屋ってそんなことするのか」

「高いとこも入るし、狭いとこも入るし、知らん建物も入ります」

遼は歩き出す。

「先に逃げ道見る癖つけた方がええ」

自分で言ってから、朝の自分ならそんなことは考えなかったと思った。

黒殻に会わないこと。

会ったら距離を取ること。

距離があっても、あの加速を前提にすること。

行き止まりへ入らないこと。

人混みの中央へ入らないこと。

使えるものがあっても、すぐ使わないこと。

戦わないこと。

勝とうとしないこと。

一つ一つは大した知恵ではない。

だが朝から生き残った結果、身体に残ったものだった。

森田が突然、遼の腕を掴んだ。

「止まれ」

前方。

五十メートルほど先の交差点。

黒い人影が立っていた。

一体。

こちらを向いているかは分からない。

遼と森田は動かなかった。

黒殻も動かない。

森田が小声で言う。

「戻るか」

遼は後ろを見る。

さっき曲がった道。

さらに右へ抜ける細い路地。

左には月極駐車場。

フェンスの向こうに別の道路が見える。

「戻らん」

「は?」

「横行きます」

「気づかれてないのか?」

「分からん。でも、近づく理由ない」

遼はゆっくり後退した。

走らない。

急な動きが何を引き起こすか分からない。

十メートル戻る。

黒殻は動かない。

路地へ入る。

視界から外れる。

そこで初めて速度を上げた。

二人は早足で次の道路へ抜ける。

森田が振り返る。

「追ってこない」

「見んでええ」

「いや、確認はいるだろ」

「止まって確認するより、次の道見た方がええ」

森田が苦笑する。

「本当に逃げることしか考えてないな」

「今日はそれでええんです」

遼はスマートフォンを開いた。

地図がようやく読み込まれる。

現在地。

家までの道。

直線では行けない。

橋の規制を避ける必要がある。

少なくとも、あと数時間はかかる。

空は暗くなり始めていた。

遠くでサイレン。

別の方向で銃声。

今日だけで何発聞いたか分からない。

その一発一発が、人を救っている。

遼はそう思った。

同時に、なぜか胸の奥に引っかかるものがあった。

理由は分からない。

銃が効くなら撃つ。

襲われるなら倒す。

当たり前だ。

自分だって、さっき警察官が撃ってくれなければ生きていなかったかもしれない。

それでも。

倒れた黒殻の数が増えるほど、安心できなくなっている。

「行こう」

森田が言った。

遼はうなずいた。

二人は暗くなり始めた住宅街を進む。

角へ来るたびに止まる。

先を見る。

抜け道を探す。

戻れる道を残す。

黒い影を見つけたら、近づかない。

倒そうとしない。

遼はまだ知らなかった。

それを技術と呼んでいいのかどうかも分からなかった。

ただ一つだけ、朝よりはっきりしていた。

黒殻に勝つ必要はない。

生きて、そこから離れればいい。

そして家へ帰る。

それだけでいい。

住宅街の向こうで、夕闇に紛れた黒い影が一つ、ゆっくりと道路を横切った。

遼は立ち止まった。

森田も止まる。

二人は声を出さず、別の道へ曲がった。

今度は、迷わなかった。

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