第七章 避難所
午後四時十二分。
遼は、三度目のクラクションが鳴ったところでエンジンを切った。
前方には車の列が続いていた。渋滞という言葉では足りない。二車線の道路を乗用車とトラックが塞ぎ、歩道へ乗り上げた軽自動車の脇を、人だけが細い流れになって進んでいる。百メートルほど先では大型トラックが交差点を斜めに塞いでいた。その向こうから黒い煙が上がっている。
ナビは何度目か分からない案内を繰り返した。
「この先、渋滞しています」
「見たら分かる」
返事をしてから、遼は自分が機械に話しかけていることに気づいた。
ハンドルから手を離す。
ここまで何度も迂回した。一本南へ入れば通行止め。戻れば事故。細い道へ入れば、逃げてきた車同士が向かい合ったまま動けなくなっている。
朝から乗り続けた車だった。
仕事道具もある。水もある。モバイルバッテリーも、雨具も、着替えもある。何より、四方を鉄板に囲まれた車内は、外を歩くより安全に思えた。
だから捨てたくなかった。
だが、もう車で進める道ではない。
スマートフォンを開く。
美咲から十二分前に届いたメッセージが一番上にあった。
《こっちはまだ大丈夫》
《千佳さんと子どもも一緒》
《遼も無理しないで》
その下に、娘が送ったらしい音声メッセージがあった。
再生する。
『パパ、はやくかえってきてね』
後ろで息子の声がして、美咲が何か言っている。
遼は途中で止めた。
今聞くものではないと思った。
帰らなければならない。
そのために、焦って死ぬわけにはいかない。
《車置く。歩いて帰る》
送信する。
既読はつかなかった。
遼は助手席のバッグを膝へ載せた。
水のペットボトル二本。モバイルバッテリー。充電ケーブル。タオル。軍手。小型ライト。常備していた簡易救急セット。菓子。工具はドライバーと小さなモンキーレンチだけにした。
腰袋の底から銀色の板を取り出す。
設備工事で余ったアルミ製の化粧板だった。
午前中、黒殻はこれに反応した。
正確には、反応したように見えた。
脚立ほど強くはなかった。
高瀬から送られてきた配線ラックの映像でも、黒殻は銀色のラックを見ていたが、通過した車へすぐ注意を移した。
アルミなら何でもいいわけではない。
それでも捨てる気にはなれなかった。
遼は板をバッグの外ポケットへ差した。
運転席の扉を開ける。
焦げた臭いが入ってきた。
遠くでサイレンが鳴っている。
車外へ出ると、隣の車の運転手が窓を開けた。
「兄ちゃん、どこ行くんだ?」
五十代くらいの男だった。
「歩きます」
「動くかもしれないぞ」
「トラックが交差点塞いでます」
男は前方を見て、舌打ちした。
「最悪だな」
遼は答えず、車のドアをロックした。
いつ戻れるか分からない。
戻ったときに車がある保証もない。
ルーフキャリアを見る。
朝までそこにあった大きなアルミ脚立は、もうない。
あの脚立がなければ、佐伯菜月はどうなっていたか。
自分もどうなっていたか。
考えるのをやめた。
「避難所はこちらです!」
黄色いベストを着た男が道路脇で叫んでいた。
「市立中学校を一時避難所として開放しています! この先は通行できません!」
人の流れが学校の方へ曲がっていく。
遼はスマートフォンの地図を見る。
家へ向かうには逆だった。
「この先、歩いても無理ですか」
男へ聞く。
「橋の手前で規制です。黒いのが出たって」
「黒殻?」
男は一瞬だけ顔をしかめた。
その名前がもう通じた。
「そうです。警察が対応中です。学校へ行ってください」
家から遠ざかる。
遼は数秒迷った。
その間にも、親子連れが横を通り過ぎていく。父親が大きなリュックを背負い、母親が眠った子どもを抱えていた。
遠くで乾いた音がした。
一発。
少し置いて、二発。
銃声だ。
遼は学校へ向かった。
今は進むことより、生きて次に進める場所を探す方がいい。
そう考えられるようになったことが、朝との一番大きな違いだった。
校門には警察官が二人いた。
「走らないでください! 体育館へ順番に入ってください!」
校庭には百人を超える人がいた。ブルーシートの上に水の箱が積まれ、教職員らしい人たちが名簿を作っている。
「お名前お願いします」
「真壁遼」
「住所は?」
遼が答えると、職員の女性が顔を上げた。
「そこから来られたんですか?」
「仕事先からです」
「ご家族は?」
「家にいます」
女性の表情が一瞬だけ曇った。
「今は道路がかなり危険です。ここで情報を確認してください」
「分かりました」
分かってはいない。
それでも遼は体育館へ入った。
むっとする熱気が身体を包んだ。
窓は開けられていたが、人が多すぎる。
泣く子ども。
スマートフォンを掲げて電波を探す男。
床へ座り込んだまま、何もない一点を見ている女性。
「充電器、誰かType-C持ってませんか!」
「水は一人一本です!」
「お父さん、そこ通路だから荷物どけて!」
日常の言葉が、日常ではない場所で飛び交っていた。
壁際には大型テレビが置かれていた。
画面には日本地図。
赤い印が、北海道から九州まで散っている。
『政府は、各地に出現している黒色の人型存在について――』
画面下のテロップに《通称・黒殻》と表示されている。
午前中には名前すらなかった。
数時間で名前がついた。
名前がついただけで、人間の側へ少し取り戻したような錯覚がある。
『警察および自衛隊による対応で、複数の個体が活動を停止したことが確認されています』
映像が切り替わる。
道路上の黒殻。
発砲。
倒れる。
体育館のあちこちから小さな声が漏れた。
「ほら、倒せるんだ」
遼の近くに座っていた四十代くらいの男が言った。
作業着姿だった。額に乾いた血がついている。
「朝はどうなるかと思ったけど、銃効くんだろ?」
隣の老人がうなずく。
「自衛隊まで出たら、もう大丈夫だろ」
男はテレビを指さした。
「そうそう。化け物でも何でも、死ぬなら終わりだ。全部やっちまえばいい」
遼は黙って画面を見た。
黒殻が倒れる。
歓声を上げる人々。
午前中なら、自分も同じように安心したはずだ。
今も、安心したい。
だが頭の片隅に、高瀬から送られてきた映像が浮かんだ。
銀色のラック。
それを見た黒殻。
通過する車。
向きを変えた頭部。
分からないことが多すぎる。
『続いて海外の状況です』
アナウンサーの声で体育館が少し静かになった。
画面が世界地図へ変わる。
『日本時間午後三時までに、韓国、中国、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストラリアなど複数の国で、酷似した人型存在が確認されています』
「海外も?」
誰かが言った。
映像が流れる。
道路を歩く黒い人影。
建物の前で立ち尽くす人々。
武装した警察。
映像の場所が違うだけで、日本と同じだった。
遼の背中に冷たい汗が流れた。
東京で起きた事故ではない。
日本だけの災害でもない。
世界中で、同じものが現れている。
テレビの音量が上げられた。
『現時点で発生原因、相互の関連性は分かっていません』
四十代の男が鼻で笑った。
「宇宙人じゃないのか」
老人が「そんな馬鹿な」と答える。
「じゃあ何なんだよ。世界中いっぺんに出てきて」
遼は会話から離れた。
スマートフォンが震えた。
高瀬直人。
「もしもし」
『遼さん、今どこです?』
「中学校。避難所になってる」
『車は?』
「置いた。もう動かん」
高瀬の向こうで、金属のぶつかる音がした。
「お前は?」
『会社の近くです。社長らと倉庫にいたんですけど、もう出ます』
「黒殻は?」
『さっきの一体はどっか行きました』
「奥さん、連絡ついた?」
一瞬、返事がなかった。
『まだです』
遼は言葉を探した。
見つからない。
高瀬が先に笑った。
『そんな声せんでくださいよ。回線死んでるだけかもしれんし』
「……そうだな」
『基地局かなり落ちてます。停電だけじゃなくて、光も切られてる。道路塞がって保守にも行けない』
仕事の話になった途端、高瀬の声が少し戻った。
『携帯つながってるうちに家族と連絡取っといた方がいいです』
「分かった」
『遼さん』
「ん?」
『あの脚立の話、警察に送ったんですよね』
「送った」
『俺のラックの動画も使ってください』
「いいのか」
『今さら俺の著作権とか言ってる場合ちゃうでしょ』
遼は少しだけ笑った。
「分かった」
『じゃ、俺も動きます』
「高瀬」
『はい』
「倒そうとすんなよ」
数秒、沈黙した。
『遼さん、それ朝からずっと言ってますね』
「悪いか」
『いや。あんたらしいです』
通話が切れた。
遼は画面を見た。
電波表示は二本。
美咲へ電話をかけようとしたとき、校庭側から悲鳴が上がった。
体育館の空気が一瞬で変わった。
「何?」
「来た!」
入口へ人が集まる。
「押さないでください!」
教師が叫ぶ。
遼は立ち上がった。
人垣の隙間から外を見る。
校門の向こう。
道路を何人かが走ってくる。
一人が転んだ。
後ろの男が腕を掴んで起こす。
さらにその後ろ。
黒い人影。
歩いている。
ゆっくりと。
その速度だけを見れば、逃げ切れそうに思える。
遼は知っている。
違う。
あれは、必要になるまで走らない。
「全員、体育館の中へ!」
警察官が校門へ走った。
もう一人が無線へ叫んでいる。
黒殻まで百メートルほど。
「止まれ!」
警察官が拳銃を構えた。
体育館の中で誰かが「撃て」と言った。
別の誰かも叫ぶ。
「撃て!」
黒殻は歩き続ける。
「止まれ!」
二度目の警告。
次の瞬間。
遼の目から黒殻が消えた。
体育館で悲鳴が上がった。
違う。
消えていない。
一瞬前まで道路中央にいた黒い身体が、もう数十メートル手前にいる。
予備動作が見えなかった。
前傾も、踏み込みも。
止まった映像を一枚抜き取ったように、位置だけが変わった。
銃声。
黒殻の肩が跳ねた。
二発目。
胸。
三発目。
身体が傾く。
それでも二歩進んだ。
四発目。
黒殻が前へ倒れた。
校門まで二十メートルもなかった。
静寂。
警察官は拳銃を向けたまま動かない。
黒殻も動かない。
十秒。
二十秒。
誰かが拍手した。
一人。
二人。
それが体育館へ広がった。
「やった!」
「倒した!」
「警察すげえ!」
さっきの作業着の男が拳を握っていた。
「ほらな! 殺せるんだ!」
遼は拍手できなかった。
倒れた黒殻ではなく、道路を見ていた。
百メートル近くあった。
その大半を、ほんのわずかな時間で詰めた。
もし一発目が外れていたら。
もし弾が効かなかったら。
もし、もう一体いたら。
「お父さん!」
校庭から声がした。
逃げてきた人の中に、小学生くらいの女の子がいた。校門の外へ向かって泣いている。
警察官が振り返る。
「中へ!」
「お父さんが!」
道路の向こうに男がいた。
足を引きずっている。
そのさらに後ろ。
建物の陰から、黒い人影が出た。
歓声が止まった。
「もう一体……」
誰かが呟いた。
もう一人の警察官が前へ出た。
拳銃を構える。
男が走ろうとする。
走れない。
黒殻は歩く。
遼はバッグへ手を入れた。
アルミ板。
小さい。
朝の脚立とは違う。
効く保証はない。
それでも指で掴んだ。
警察官が叫ぶ。
「伏せろ!」
男が地面へ倒れ込む。
銃声。
黒殻の胸へ命中した。
黒い身体が揺れる。
二発目。
倒れない。
三発目。
膝をつく。
四発目。
活動を止めた。
男が這うように校門へ向かう。
警察官が駆け寄る。
今度は拍手が起きなかった。
みんな、二体目を見ていた。
一体なら、たまたま銃が効いたとも思える。
二体続けて倒れると、銃が通用するという事実が現実味を帯びた。
それでも銃は効いた。
それが体育館に残った唯一の安心だった。
「中へ戻ってください!」
教師たちが人を押し戻す。
遼も数歩下がった。
そのとき、校舎の裏手から別の悲鳴が聞こえた。
正面ではない。
裏門側。
「こっちにもいる!」
空気が完全に壊れた。
体育館の中で人が動いた。
正面から離れようとする人。
裏口から出ようとしていた人が逆流する。
子どもが転ぶ。
「押すな!」
遼は近くの子どもの腕を掴んで起こした。
「お母さんは?」
泣きながら指を差す。
数メートル先で母親が人波に押されている。
遼は子どもを抱き上げた。
「この子のお母さん!」
女性が振り返った。
「優斗!」
遼は人の流れを横切って子どもを渡す。
「壁際へ! 真ん中行かないで!」
自分でも、なぜそんな指示が出たのか分からない。
工事現場でも同じだった。
人が集中する場所は危ない。
出口が一つなら、出口そのものが障害物になる。
遼は壁沿いに移動した。
体育館の裏口が開いた。
警察官ではない。教師が顔を出し、すぐ引っ込める。
「一体います! 校舎との間!」
悲鳴。
遼は窓へ近づいた。
黒殻がいた。
二十メートルほど先。
こちらを向いている。
ガラス越しでも、黒い表面が夕方の光を鈍く返しているのが分かる。
人間の顔にあるものが何もない。
目も。
口も。
表情も。
なのに、見られていると分かる。
黒殻の頭部が動いた。
体育館。
校舎。
再び体育館。
「窓から離れて!」
遼が叫んだ。
直後、黒殻が動いた。
一瞬だった。
窓際にいた人たちが後ろへ倒れる。
黒殻は体育館へ直接突っ込んではこなかった。
壁沿いを高速で抜けた。
どこへ行った。
遼は窓から顔を出さず、角度を変えて見る。
いない。
「どこ?」
誰かが泣いている。
外から銃声。
一発。
二発。
間を置かず、さらに二発。
体育館の照明が消えた。
悲鳴が上がる。
非常灯が点いた。
「停電?」
「ブレーカーじゃない?」
「静かにしてください!」
静かになるはずがない。
遼はバッグのアルミ板を握った。
使うなら、いつだ。
黒殻が中へ入ってきたときか。
誰かを追ったときか。
投げる方向を間違えれば、人のいる方へ誘導するかもしれない。
朝は自分一人だった。
今は数百人いる。
同じ方法を使えるとは限らない。
遼は板から手を離した。
今は使わない。
使えるから使うのではない。
必要なときだけ使う。
外で短い連射音が響いた。
拳銃ではない。
その後、無線の声。
数分が、異様に長かった。
やがて校内放送が入った。
『現在、警察が周辺の安全確認を行っています。体育館から出ないでください』
誰も安心しなかった。
テレビは消えていた。
携帯回線もさらに弱くなった。
遼は美咲へメッセージを送った。
《避難所に黒殻来た。俺は無事》
《そっちは絶対外出るな》
送信中。
しばらくして、一つ目だけ送れた。
二つ目は回り続ける。
「お兄さん」
声をかけられた。
さっき子どもを渡した母親だった。
「ありがとうございました」
男の子は母親の服を握っている。
「いや」
「助かりました」
遼は何も言えなかった。
助かったかどうかは、まだ分からない。
体育館の入口で警察官が話している。
「裏手の一体も活動停止を確認しました」
その言葉が少しずつ広がった。
三体。
今日、この学校へ来た黒殻は三体とも倒された。
銃が効いた。
人間が勝った。
なのに遼は、朝より安心できなかった。
体育館の隅で、さっきの作業着の男が言った。
「やっぱり全部殺せばいいんだ」
今度は賛同する声が多かった。
「そうだな」
「残す意味ないだろ」
「自衛隊が一気にやればいい」
「海外も同じなら、世界中でやれば終わる」
遼は壁にもたれた。
反論する理由はなかった。
黒殻が何なのか分からない。
何を目的にしているのかも分からない。
人間を襲う。
異常な速度で追う。
なら、殺せるうちに殺す。
理屈は通っている。
遼自身、家の前に一体立っていれば、誰かに撃ってほしいと思う。
美咲と子どもたちの近くにいるなら、なおさらだ。
だから何も言えなかった。
ただ、今日うまくいった方法が、明日も同じように通用する保証はない。
理由は分からない。
それでも遼は、そんな不安を拭えなかった。
体育館の中央では、教職員が避難者をいくつかの区画へ分け始めていた。
「家族が別の避難所にいる方は、名前を書いてください。問い合わせができるようになったら確認します」
長机の前に列ができる。
遼も並んだ。
美咲と子どもたちは避難所にはいない。それでも住所と家族の名前を残しておいた方がいいと思った。
前に並んでいた老人が、職員へ何度も同じ説明をしている。
「女房がな、病院に行ってるんだ。朝から電話がつながらない」
「病院名は分かりますか」
「分かる。でも迎えに行かないと」
「今は外へ出ないでください」
「でも一人なんだ」
職員は困った顔をした。
正しい答えがない。
外へ出れば危険。
待っていても家族の安否は分からない。
今日、この体育館にいる人間のほとんどが同じだった。
遼の番が来る。
住所を書き、家族四人の名前を記入した。
「ご家族はご自宅ですね」
「はい」
「連絡は?」
「今はついてます」
職員が少しだけ安心した顔をした。
その反応で、連絡すらつかない人間がどれだけいるのか分かった。
「今夜ここへ泊まられますか」
遼はペンを止めた。
「分かりません」
「周辺が安全になるまで移動しない方が――」
「家に四歳と二歳の子どもがいるんです」
職員は黙った。
遼も、それ以上言わなかった。
自分が帰ったから何ができるのか。
黒殻が来れば、拳銃も持っていない自分に戦う力はない。
それでも父親が避難所で安全に座り、妻と幼い子どもだけを家に残すという選択はできなかった。
列を離れると、体育館の入口付近に佐伯菜月からの着信履歴が残っていることに気づいた。
一時間ほど前だった。
遼はかけ直した。
数回の呼び出し音。
『真壁さん?』
「佐伯さん。大丈夫?」
『はい。今、警察の人と一緒です』
背後で無線の音がしている。
『相沢さんっていう人で……駅前で会って、そのまま一緒にいます』
遼は知らない名前だった。
「警察なら、その方がいい」
『真壁さんは?』
「避難所。中学校」
『家にはまだ?』
「帰れてない」
短い沈黙。
『あの脚立のこと、警察の人にも話しました』
「何て?」
『分からないけど、報告は上げるって。相沢さんも、変な話だとは思ってないみたいです』
それだけでも十分だった。
朝の時点では、自分でも信じ切れていなかった。
『真壁さん』
「うん」
『朝、助けてもらったから言うんですけど』
菜月の声が少し低くなる。
『無茶しないでくださいね』
遼は苦笑した。
「みんな同じこと言うな」
『じゃあ、みんな正しいんですよ』
通話が途切れた。
切れたのか、回線が落ちたのか分からない。
かけ直さなかった。
相沢という警察官。
菜月。
高瀬。
美咲。
朝には自分と家族だけだった世界に、少しずつ名前が増えている。
それは守るものが増えたという意味ではない。
ただ、誰も一人でこの一日を生きているわけではないのだと分かった。
体育館の反対側で、小さな言い争いが起きた。
「一本だけって言ったでしょ!」
「子どもが二人いるんだぞ!」
水の配布だった。
男性がペットボトルを二本取ろうとして、係の女性と揉めている。
「次の搬入がいつ来るか分からないんです!」
「じゃあ子どもに飲ませるなって言うのか!」
周囲がざわつく。
遼はバッグの中の水を見た。
二本。
車に残してきた分を持てば、もっとあった。
だが重量を考えて置いてきた。
一本を取り出した。
「これ使ってください」
男が振り返る。
「え?」
「俺のです」
「いや、でも」
「まだ一本あるんで」
嘘ではない。
男は少し迷って受け取った。
「……すみません」
遼は首を振った。
格好をつけたいわけではなかった。
自分一人なら、一晩一本でも耐えられる。
幼い子どもは違う。
それだけだった。
壁際へ戻る途中、作業着の男が声をかけてきた。
「兄ちゃん、人が良すぎるぞ」
「そうですか」
「こういう時は自分の分を確保しておかないと」
男は自分のリュックを叩いた。
かなり膨らんでいる。
「コンビニで取れるだけ取ってきた。金は置いてきたけどな」
遼は何も言わなかった。
男が続ける。
「俺、森田。森田修司」
「真壁です」
「家族は?」
「家に」
「そりゃ帰りたいよな」
森田は窓の外を見た。
「俺は嫁と別れた。息子は向こう。連絡がつかない」
さっきまで「全部殺せ」と言っていた男の声が、初めて弱くなった。
「だから余計に思うんだよ。あんなもの、見つけたら全部殺せばいい。生かしておく理由ないだろ」
遼は否定しなかった。
「家族の近くにいたら、俺もそう思います」
「だろ?」
「でも俺には殺せないんで、逃げます」
森田が遼を見る。
数秒後、鼻で笑った。
「それも正解か」
その言葉が妙に残った。
殺す人間。
逃げる人間。
どちらが正しいのかを決められるほど、まだ誰も黒殻を知らない。
体育館の外では、警察官たちが倒れた個体を遠巻きに確認していた。
一人が時刻を読み上げ、別の警察官が記録している。
遼には、その数字が何の意味を持つのか分からなかった。
今はただ、倒した時刻を残しているだけに見えた。
午後五時を過ぎた。
校庭へ出る許可はまだ出ない。
窓の外には、倒れた黒殻が見えた。
警察官が近づかないよう規制線を張っている。
夕日が黒い外殻に反射する。
遼はスマートフォンを見る。
美咲への二つ目のメッセージに、ようやく送信済みの印がついた。
すぐ返信が来た。
《分かった》
《子どもたちと待ってる》
その下にもう一つ。
《帰ってきて》
遼は画面を閉じた。
帰る。
そのために、ここを出る。
だが今はまだ動かない。
外が安全になったという確認を待つ。
それが正しい。
頭では分かっている。
五分後。
校門側で、また声が上がった。
今度は悲鳴ではなかった。
「もう大丈夫らしい」
誰かが言った。
「警察が全部倒したって」
体育館の空気が少し緩む。
その瞬間だった。
遼は窓の外を見た。
倒れている黒殻のさらに向こう。
道路の端。
夕闇の中に、黒い人影が一つ立っていた。
距離がある。
動かない。
こちらへ来る様子もない。
遼は目を細めた。
一体。
その後ろ。
建物の影から、もう一体。
さらに遠くに、もう一つ。
三体。
いや。
四体。
誰もまだ気づいていない。
遼は立ち上がった。
「警察の人!」
声を上げた瞬間。
一番手前の黒殻が、ゆっくりとこちらへ歩き始めた。




