第六章 午後の勝利
午後三時二十七分。
「黒殻」という名前が、いつの間にか定着していた。
誰が最初に呼んだのかは分からない。
黒い外殻。
黒い殻。
SNSで使われ始め、ニュースサイトが拾い、午後にはテレビのテロップにも現れた。
《各地に出現する通称“黒殻”》
《自衛隊が災害派遣 警察と連携》
《銃撃・車両衝突・火災で活動停止を確認》
画面だけを見れば、人類は立て直し始めていた。
埼玉県内の幹線道路では、自衛隊員が小銃を構えている。
三浦達也一尉は、双眼鏡を下ろした。
交差点の先に黒殻が一体。
距離百二十メートル。
その後方に、動けなくなった路線バスがある。車内にはまだ人がいる。
「射線確認」
「後方クリア」
「単射」
三浦は命じた。
乾いた銃声。
黒殻の肩が弾ける。
倒れない。
二発目。
胸部。
三発目。
黒い身体が道路へ崩れた。
「停止確認まで近づくな」
隊員たちの緊張が少しだけ緩む。
バスの中から拍手が聞こえた。
三浦は腕時計を見る。
十五時二十八分四十六秒。
「時刻記録。使用弾、距離、命中部位も」
若い隊員が怪訝な顔をした。
「そこまで残すんですか」
「研究班からの依頼だ」
三浦は答えた。
「あとで役に立つかもしれない」
自分でも、その意味は分かっていない。
だが午前中に会った榊原の目が気になっていた。
殺せると分かったとき、普通なら少しは安心する。
彼女は逆だった。
情報が増えるほど、不安そうに見えた。
同じころ、相沢健吾巡査部長は駅前の仮設規制線にいた。
午前から四体を撃った。
うち三体は自分の弾で活動を停止した可能性が高い。
右手が重い。
反動のせいではない。
「相沢さん」
振り返ると、佐伯菜月がペットボトルを差し出していた。
「これ」
「避難者用ですよ」
「警察の人も避難者みたいなもんでしょ」
相沢は少し笑って受け取った。
菜月はまだここにいる。
家へ帰る道が封鎖され、臨時避難所へ移るバスを待っていた。
「さっき、ありがとうございました」
「仕事です」
「でも、あれが来たとき、みんな逃げたのに」
相沢はペットボトルの蓋を開けた。
「俺も逃げたかったですよ」
菜月が意外そうな顔をする。
「拳銃持ってても?」
「持ってるから逃げられない時があるだけです」
その言葉を自分で聞いて、相沢は少し嫌になった。
格好をつけたように聞こえた。
実際は怖かった。
最初の一体を撃ったとき、照準は震えていた。
それでも倒れた。
二体目も倒れた。
三体目も。
経験が恐怖を薄くしている。
それが良いことなのかは分からない。
無線が鳴った。
『北側交差点、黒殻一。南進中』
相沢はすぐ立ち上がった。
菜月の顔が強張る。
「建物の中へ」
「また撃つんですか」
「人がいたら」
相沢は答えた。
その判断に迷いはなかった。
今はまだ。
大学の検査室には、午前より三体増えていた。
交通事故で活動停止した個体。
工場火災で焼損した個体。
高圧設備へ接触し、感電したとみられる個体。
久世は上機嫌ではなかったが、研究者として明らかに興奮していた。
「構造が変だ」
「どこが?」
榊原が聞く。
「全部だよ」
久世は焼損個体の断面画像を拡大した。
「熱で表面は炭化してる。でも内部の繊維配列はかなり保たれてる。こっちは衝突個体。外殻が割れても、力が一方向に集中しないよう層が滑ってる」
「防御構造として合理的」
「合理的すぎる」
久世は画面を切り替えた。
「進化でこうなったなら、何に対して進化した?」
榊原は答えなかった。
助手が別のモニターから呼んだ。
「先生、映像データなんですが」
全国から送られてきた動画は、すでに数百本を超えている。
その大半は役に立たない。撮影時刻がずれている。位置が不明。編集されている。SNSから再圧縮されてフレームが落ちている。
それでも捨てずに分類させていた。
「これ、黒殻が何もないところで止まってます」
映像はコンビニの防犯カメラだった。
一体の黒殻が駐車場を横切る。
突然、止まる。
約三秒。
それから何事もなかったように歩き出す。
「人か車に反応した?」
「画角内にはありません」
「音は?」
「記録なしです」
久世が覗き込む。
「故障じゃないか」
「もう一本あります」
別県。
別時刻。
こちらも黒殻が数秒だけ止まっている。
榊原は時刻を見る。
一致していない。
「関連づけないで」
助手が顔を上げる。
「でも似てます」
「似ていることと、同じ原因であることは違う。撮影機器の時刻も検証できてない」
「削除します?」
「しない。保留」
榊原は午前に書いたホワイトボードを見る。
10:41:23。
繊維収縮。
まだ線を引く材料はない。
そのとき別の助手がタブレットを持ってきた。
「警察経由で一般提供の映像です。今朝のもの」
映っていたのはワンボックス車だった。
運転手がルーフキャリアから大きな脚立を外す。
道路へ投げる。
追っていた黒殻が進路を変える。
榊原は映像を最初から見直した。
「提供者は?」
「真壁遼、三十五歳。通信設備工事会社勤務」
「脚立の材質」
「本人申告ではアルミ。型番確認中です」
映像を切り替える。
別の投稿動画。
コンビニ前で、黒殻が落ちた飲料缶を拾い、胸部付近へ押し込むような動作をする。
「缶は?」
「商品特定済みです。アルミ缶」
助手が言った。
「アルミに誘引されてる?」
「まだ言わない」
「二件あります」
「二件しかない」
久世が椅子を引いた。
「でも仮説としては面白い。アルミを並べて反応を見るか?」
「今はやらない」
「なぜ」
「対象を確保できていない。野外で刺激を与えて、何が起きるか分からない」
「分からないから試すんだろ」
「人がいる街中で?」
久世は口を閉じた。
榊原は脚立の静止画を拡大した。
大きい。
無塗装に近く、表面が広く露出している。
飲料缶は小さいが、薄いアルミがほぼ全面に出ている。
「アルミなら街中にいくらでもあります」
榊原は言った。
「窓のサッシ、車両部品、自転車、建材。存在するだけで全部へ同じ強さで反応するなら、今までの行動と合わない」
助手が尋ねる。
「量ですか?」
「量かもしれない。露出面積かもしれない。合金組成、表面処理、形状、距離。そもそもアルミそのものが原因じゃない可能性も残す」
久世が笑った。
「相変わらず慎重だな」
「あなたが速すぎるんです」
「人が死んでる。科学だけゆっくり歩くわけにはいかない」
榊原は久世を見た。
「だからこそ、間違った法則を広めたらもっと死にます」
二人の間に沈黙が落ちた。
テレビでは、自衛隊が黒殻を射撃する映像が流れている。
命中。
黒殻が倒れる。
避難していた人々が拍手する。
アナウンサーの声にも、朝にはなかった安堵が混じっていた。
《各地で対処方法が確立されつつあります》
榊原はその言葉を聞いた。
確立。
まだ数時間しか経っていない。
高瀬直人は、そのニュースを会社の倉庫で見ていた。
社長と社員二人。シャッターは閉めてある。
「ほら見ろ。自衛隊が出たら終わりだ」
社長が言った。
高瀬は返事をしなかった。
妻にはまだ連絡がつかない。
スマートフォンには、真壁から送られてきた短いメッセージがある。
《逃げれるなら逃げろ。倒そうとすんな》
「真壁さんらしいわ」
高瀬は呟いた。
同僚が聞く。
「何が?」
「いや。あの人、喧嘩弱そうやのに逃げ足だけは速そうやなって」
笑いは起きなかった。
倉庫の外で何かがぶつかる音がした。
全員が黙る。
二度目。
金属が擦れる。
高瀬はシャッターの小窓へ近づいた。
社長が腕を掴む。
「見るな」
「でも」
三度目の音。
高瀬はゆっくり小窓を開けた。
外には誰もいない。
道路の向こうに黒い人型が一体立っている。
その頭部は、こちらではなく、倉庫脇に積まれた長尺材の方を向いていた。
高瀬は息を止める。
銀色の材料。
アルミの配線ラックだった。
真壁から以前聞いた話が頭をよぎる。
脚立。
高瀬はスマートフォンを出した。
撮影を始める。
黒殻はすぐには近づかない。
十秒。
二十秒。
道路を一台の車が通る。
黒殻の頭部が車へ向く。
次の瞬間、配線ラックから意識を外したように道路へ一歩出た。
高瀬は録画を止めた。
「なんやねん……」
アルミに必ず反応するわけではない。
遼が言っていた意味が少し分かった。
高瀬は動画を送った。
《真壁さん。これアルミラックです。見て》
午後四時前。
遼のスマートフォンが震えた。
高瀬からの動画。
再生する。
遼は車を路肩に止めた。
黒殻。
銀色のラック。
一度そちらを見ている。
しかし車が通ると向きを変える。
朝の脚立ほどではない。
化粧材とも違う。
「条件がある……」
遼は呟いた。
美咲へ電話する。
今度はすぐにつながった。
『遼?』
声を聞くだけで身体の力が抜けそうになった。
「今どこ?」
『家。千佳さんも子ども連れてこっち来てる。外に黒いの一回見えた』
藤原千佳。近所に住む美咲の知人。子ども同士も顔見知りだ。
「絶対出るな」
『分かってる。遼は?』
ナビを見る。
「まだ遠い」
本当の距離は言わなかった。
『ニュースでは、もう倒せるって』
遼は窓の外を見る。
道路脇のテレビ販売店。展示モニター全部に同じ映像が流れている。
黒殻が撃たれて倒れる。
人間が拍手する。
「うん」
『じゃあ、大丈夫になる?』
遼は返事ができなかった。
今日、倒せる。
それは事実だ。
警察も、自衛隊も、消防も、現場にいる人間は目の前の命を救うために動いている。
「……たぶん、大丈夫になる」
ようやく出た言葉は、自分に言い聞かせるためのものにも聞こえた。
通話が切れたあとも、遼はしばらくスマートフォンを耳から離せなかった。
遠くで、また銃声がした。
一発。少し間を置いて、もう一発。
黒殻は殺せる。
人間の武器が通用する。
それなら、まだどうにかなる。
そう考えているのは、遼だけではなかった。
警察も、自衛隊も、避難所でニュースを見つめる人々も、倒れていく黒い身体を希望として受け取っていた。
午後のニュースは、人類の勝利を伝え続けていた。
同じ頃。
その「勝利」の記録が集まり続ける研究室で、榊原真琴だけは、別のものを見ていた。
榊原はホワイトボードの前に立った。
十時四十一分二十三秒。
数秒停止した個体の映像。
アルミ缶。
アルミ脚立。
活動停止した黒殻の一覧。
まだ、何もつながらない。
だから線は引かない。
ただ一番下に、一行だけ書いた。
「死亡時刻を秒単位で保存」
久世がそれを見た。
「何を疑ってる?」
榊原はマーカーの蓋を閉めた。
「まだ何も」
「嘘つけ」
榊原は窓の外を見た。
夕方の光が建物を赤く染めている。
「今日うまくいった方法が、明日も同じように通用する保証がない。それだけです」
久世は何も言わなかった。
テレビではまた一体、黒殻が倒れた。
拍手が起きた。
人類にとって、希望に満ちた午後だった。




