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黒殻  作者: みっち


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5/11

第五章 三体

午前十一時二分。

自宅まで十六・八キロ。

真壁遼《まかべ・りょう》は、その数字を見てスマートフォンの画面を消した。

数字だけなら歩ける。

だが、今の十六キロは昨日までの十六キロではない。

大通りは事故車で詰まり、信号は生きていても誰も守らない。歩道には放置された自転車、買い物袋、片方だけの靴。遠くで煙が上がっている。

そして、交差点の先に三体いた。

遼は反射的にブレーキを踏んだ。

一体なら朝に見た。

二体が同時にいる映像もニュースで見た。

三体を自分の目で見るのは初めてだった。

三体とも、動いていない。

正確には、人間のような意味では動いていない。

頭部らしい部分がわずかに角度を変え、黒い板状の表面が呼吸とも違う周期で細かくずれている。

一体は道路中央。

一体はコンビニの駐車場。

もう一体は歩道橋の下。

さらに、横転した配送トラックの向こうに黒い脚が見えた。

四体目。

「うそやろ……」

遼は声を落とした。

バックミラーを見る。

後ろには軽自動車が一台。運転席の男が遼を睨んでいる。早く行け、と手を振った。

遼は窓を少しだけ開けた。

「前、黒いやつおる!」

男の顔色が変わった。

軽自動車がすぐに後退を始める。

その動きに、道路中央の一体が反応した。

黒い頭部が回る。

速い。

首を振ったというより、次の瞬間には向きが変わっていた。

軽自動車が急加速で逃げる。

黒殻《こっかく》は追わなかった。

遼は助手席を見る。

朝の脚立はない。

大きな、露出したアルミの塊はもう使えない。

残っているのは、現場で余ったアルミ製の化粧材。長さ四十センチほどの細い部材が二本。

脚立と比べれば、頼りない。

そもそも、朝の出来事がアルミのせいだったという確証すらない。

遼は一分近く迷った。

迂回するべきだ。

だがナビでは、この先の橋を使わなければ大きく南へ回される。

美咲から届いたメッセージを開く。

《こっちは大丈夫。外には出てない。子どもらも一緒》

写真が一枚。

カーテンを閉めたリビング。娘が弟を抱くように座っている。

帰る。

それ以外の目的はない。

遼は車を道路脇へ寄せた。

ドアを開ける前に周囲を見る。

黒殻まで約六十メートル。

朝の加速が頭に浮かぶ。

五メートルが消えた。

六十メートルも、安全な距離ではない。

遼は化粧材を一本だけ手に取り、窓を開けたまま腕を伸ばした。

投げる。

銀色の棒がアスファルトを跳ねた。

甲高い音。

三体のうち、歩道橋の下の一体がこちらを向いた。

遼の心臓が跳ねる。

違う。

棒ではなく、自分を見たのかもしれない。

黒殻は一歩出た。

遼はアクセルへ足を置く。

だが二歩目はなかった。

頭部が下がる。

地面の銀色の棒へ向いたように見えた。

ゆっくり歩く。

一歩。

二歩。

朝、脚立へ向かったときほど強くない。

道路中央の一体は反応しない。

コンビニ駐車場の一体も動かない。

「弱い……?」

遼は呟いた。

何が弱いのかは分からない。

量か。

大きさか。

光り方か。

材質が違うのか。

もう一本を、最初の棒から十メートルほど離れた場所へ投げた。

今度は道路中央の一体が動いた。

同時に、歩道橋下の個体も一瞬だけ頭を上げる。

二本目へ向かう。

二体が、別々の銀色へ引かれた。

「いける」

言った直後、自分で否定した。

いける、ではない。

効く条件が分からない。

遼は車を発進させた。

ゆっくり。

エンジン音を抑える意味があるのかも分からないが、急加速する勇気がなかった。

交差点まで四十メートル。

道路中央の個体は化粧材へ近づいている。

残り二体は動かない。

二十メートル。

コンビニ駐車場の個体がこちらを向いた。

遼の背中が冷える。

十メートル。

黒殻が沈んだ。

膝を曲げたようには見えなかった。

ただ輪郭が一瞬だけ低くなった。

次の瞬間、消えた。

遼は考えるより先にハンドルを切った。

黒い影がフロントガラスの右側を横切る。

衝撃。

サイドミラーが吹き飛んだ。

「うわっ!」

遼は狭い脇道へ車を突っ込ませた。

ミラーの破片が路面を跳ねる。

黒殻は後ろにいる。

アクセルを踏む。

住宅街の道幅は狭い。電柱。植木鉢。自転車。軽自動車一台がぎりぎり通れる幅。

バックミラーには黒い姿。

走っている。

人間の走り方ではない。

腕を大きく振らない。上体もほとんど揺れない。それでも距離が縮む。

遼は次の角を曲がった。

後輪が縁石に乗り上げる。

車体が跳ねた。

黒殻が角へ入る。

そこで速度が落ちた。

ほんのわずか。

だが直線道路で見せた異常な加速ではない。

狭さなのか、曲がることが苦手なのか、それとも別の理由か。

遼は二つ目の角を曲がった。

三つ目。

後ろの黒殻が見えなくなる。

それでも止まらない。

二百メートルほど進み、工場の壁沿いでようやくアクセルを緩めた。

手が震えていた。

右のサイドミラーは根元からない。

ドアには三本の傷。

もしあと二十センチ内側だったら。

考えない。

遼は深呼吸した。

スマートフォンの録音を起動する。

時刻は十一時十八分。

「アルミ製の化粧材に反応。一個より二個……いや、個数ちゃうかもしれん。脚立より反応弱い。量か面積か、距離か、まだ不明」

一度止める。

追加する。

「黒いやつ、直線はめちゃくちゃ速い。狭い道、曲がり角では少し落ちた。たぶん」

“たぶん”を強調した。

一回見ただけだ。

一回生き残っただけだ。

それを法則だと思い込めば、次に死ぬ。

工場の向こうに銀色の足場が見えた。

黒殻らしい影が一体、その方向へ歩いている。

遼は目を細めた。

足場がアルミかどうかは分からない。鋼製かもしれない。

記録には入れなかった。

分からないものを、分かったことにしない。

朝から何度も自分に言い聞かせている。

電話が鳴った。

佐伯菜月《さえき・なつき》だった。

連絡先だけ交換した女性。

『真壁さん? 今、大丈夫ですか』

「大丈夫。佐伯さんは?」

『今、警察の人と一緒です。相沢さんっていう人で……駅前で会って、そのまま一緒にいます』

遼は少し安心した。

『駅の近くに避難所を作るって。でも人が多すぎて。私、家に戻るか迷ってて』

「黒いやつ近くにおる?」

『二体見えます。でも警察が撃てば倒せるって』

遼は返事を止めた。

ニュースでも同じことを言っている。

殺せる。

だから大丈夫。

朝なら自分もそう思ったかもしれない。

「佐伯さん」

『はい』

「撃てる人がおっても、黒いやつには近づかん方がええ。逃げ道あるなら逃げた方がいい」

『……真壁さん、何か知ってるんですか』

「何も知らん。知らんからや」

電話の向こうで、誰かが大声を出した。

次に乾いた発砲音。

一発。

二発。

三発。

菜月の息が止まる。

『倒れた……』

周囲から歓声が上がった。

遼にも聞こえた。

『本当に倒れました』

「佐伯さん、そこ離れて」

『でも警察が――』

「もう一体おるんやろ」

数秒後、相沢らしい男の声が遠くで響いた。

「下がって! 全員建物の中へ!」

菜月が走り出す音。

通話は切れなかった。

遼はスマートフォンを耳へ押しつけたまま、何もできずに聞いた。

誰かの悲鳴。

発砲。

また発砲。

そして沈黙。

『……二体目も、倒れました』

菜月の声は震えていた。

その場所では、人間が勝った。

遼は目を閉じた。

勝ったはずなのに、なぜか安心できなかった。

十一時二十一分。

自宅まで十五・九キロ。

数字は少ししか減っていない。

それでも遼は車を出した。

家に帰る。

そのために、勝たなくていい。

生きて通り抜ければいい。


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