第四章 殺せるもの
午前十時四十一分。
榊原真琴は、黒い死体の前で腕時計を見た。
正確には、死体と呼んでいいのかどうかもまだ分からない。
千葉県内の大学医学部に急造された検査室。普段なら解剖実習に使われる白い台の上に、二メートル近い黒い人型が横たわっている。頭部、胸部、四肢。輪郭だけなら人間に近い。だが、近づけば似ているという印象はすぐに崩れた。
皮膚に見えた黒い表面は皮膚ではなかった。
薄い板が何百、何千と重なり、それぞれがわずかにずれている。甲虫の翅にも、魚の鱗にも似ている。しかし一枚をピンセットで持ち上げようとすると、硬いはずの板が指の動きに合わせてしなる。
「弾丸は三発です」
背後から声がした。
県警から派遣された鑑識官が、透明袋に入れた変形弾を掲げた。
「胸部二発、頸部一発。活動停止は頸部への着弾直後と現場では見ています」
「死亡、とはまだ書かないでください」
榊原は言った。
「活動停止で」
鑑識官は一瞬だけ困った顔をしたが、すぐ頷いた。
隣の台では、久世修一が黒い胸部へメスを入れていた。
四十三歳。生体材料工学を専門にする准教授で、榊原とは以前から共同研究で顔を合わせている。仕事は速い。結論も速い。それが長所であり、榊原が最も警戒しているところでもあった。
「真琴、これ見ろ」
「職場で下の名前はやめてください」
「じゃあ榊原先生。もっと面白い」
切開部の内側に、筋肉らしい赤色はなかった。
黒い繊維の束が幾層にも走っている。
久世がピンセットで一本をつまむ。
「炭素含有率が異常に高い。けど単純な炭素繊維じゃない。水分もある。タンパク質反応も一部出てる」
「生体組織?」
「生体と材料の境目が分からん」
榊原は顔を近づけた。
銃弾で裂けた部分には、骨がない。血管もない。少なくとも人間の解剖学で名付けられるものは見当たらない。
「循環器官なしで、どうやってあの速度を出すの」
「そこなんだよ」
久世が笑った。
楽しんでいるわけではない。未知の構造を前にした研究者の顔だ。榊原にもその感覚は分かる。だからこそ、自分まで同じ顔をしないよう意識した。
この台の上にあるものは、数時間前まで人を追っていた。
そして警察官に撃たれた。
検査室の外では、その警察官を英雄のように扱う報道が始まっている。
モニターの一つにニュース映像が流れていた。
《警察官が発砲し、黒い人型の存在を無力化――》
字幕の横には、視聴者が撮影した縦長の動画が何度も再生されている。
黒い影が走る。
警察官が両手で拳銃を構える。
乾いた発砲音。
黒い身体が道路へ転がる。
人々が歓声を上げる。
「殺せる」
久世がテレビを見たまま言った。
「少なくとも今は」
榊原は答えた。
「その言い方、嫌いだな」
「分からないことを分かったように言う方が嫌いです」
十時四十一分二十三秒。
榊原が再び切開部へ視線を戻した瞬間だった。
黒い繊維が縮んだ。
ほんの数ミリ。
だが見間違いではない。
「待って」
榊原の声で室内が止まった。
久世が手を離す。
「動いた?」
「カメラ」
助手が録画を巻き戻した。
十時四十一分二十三秒。
黒い繊維束の一部が、同時に収縮している。
一度だけ。
その後は何も起きなかった。
「残存電位じゃないか?」
久世が言った。
「可能性はあります」
「死後収縮みたいなものなら説明できる」
「だから時刻を残します」
榊原はホワイトボードへ書いた。
10:41:23 繊維収縮。
その下に小さく疑問符を付ける。
検査室のドアが開いた。
制服姿ではなく作業服姿の男が二人入ってきた。先頭の男は短く名乗った。
「陸上自衛隊、三浦達也一尉です。災害派遣準備部隊から情報連絡で来ました」
三十八歳。日に焼けた顔。声は低く、必要なことしか言わない印象だった。
「現場で二体、隊員が確認しています。こちらから質問していいですか」
榊原が頷く。
「小銃で止められますか」
最初の質問がそれだった。
研究室と現場の距離を、榊原は一瞬で理解した。
「拳銃弾で活動停止した個体はあります。ただし――」
「なら、小銃弾も有効である可能性が高い」
久世が先に答えた。
榊原は久世を見る。
三浦は二人の表情を交互に見た。
「意見が違う?」
「私は、まだ一例から一般化したくありません」
「私は、現場に一例以上を待つ時間がないと思ってます」
久世が言った。
三浦は数秒黙った。
「どちらも分かります。ただ、こっちは人の前に立つ仕事です。撃たずに済むなら撃ちません。でも、後ろに民間人がいたら撃つ」
榊原は返事をしなかった。
正しい。
少なくとも今日の午前十時四十一分には、正しい。
問題は、それが明日も正しいかどうかだった。
まだ、その疑問に根拠はなかった。
だから口にはしなかった。
代わりに榊原は三浦へ頼んだ。
「活動停止させた場合、必ず時刻を秒単位で残してください。方法、距離、使用した弾薬、命中部位も」
「理由は?」
「分からないからです」
三浦の眉がわずかに動いた。
「分からないものほど、記録が必要です」
三浦は頷いた。
「了解」
同じころ、真壁遼は国道から一本外れた道で車を止めていた。
スマートフォンには、高瀬直人から七件の未読メッセージが入っている。
《真壁さん生きてます?》
《こっち現場中止です》
《会社戻れ言われたけど道死んでます》
《ニュース見ました? あいつ撃ったら死ぬみたいです》
最後の一文を、遼は二度読んだ。
撃ったら死ぬ。
朝、五メートル先から輪郭が消えたように見えた黒いもの。
あれが死ぬ。
その事実は安心になるはずだった。
なのに、胸の奥に残った感覚は違った。
ルーフキャリアは空だった。
あの脚立は、もうない。
代わりに助手席には、コンビニで拾った小さなアルミ片と、工具箱がある。
遼は高瀬へ電話した。
三回目でつながった。
『真壁さん!』
「声でかい」
『いや、生きてるんすね』
「そっちどこや」
『倉庫の近くです。社長が全員戻れって。無理っすよ。道、事故だらけで』
「黒いやつ見た?」
一瞬、向こうが静かになった。
『遠くで一体。走ってないです。歩いてました』
「近づくなよ」
『分かってます。ニュースで警察が倒してたし、最悪工具で――』
「やめとけ」
自分でも驚くほど強い声が出た。
『……はい』
「殺せるからって、近づく理由にはならん」
朝から遼が学んだことは、それだけだった。
勝てるかどうかではない。
逃げられるなら逃げる。
電話の向こうで、高瀬が息を吐いた。
『真壁さん、家帰るんすよね』
「ああ」
『俺も嫁に連絡つかんくて』
遼は言葉を止めた。
高瀬が結婚して一年なのは知っていた。奥さんが都内の保育園で働いていることも、飲み会で聞いたことがある。
『だから、俺も帰ります』
「無茶すんな」
『それ真壁さんが言います?』
少しだけ、二人とも笑った。
笑えたことに、遼は驚いた。
通話を切る直前、高瀬が言った。
『真壁さん。あれ、ほんまに生き物なんすかね』
遼は答えられなかった。
検査室では、榊原も同じ問いを考えていた。
生き物なのか。
死ぬのか。
そして、死んだあとにも何かが残るのか。
ホワイトボードには、十時四十一分二十三秒という数字だけが残っていた。
まだ意味を持たない数字。
だが榊原は、それを消さなかった。




