第三章 家の中
午前九時十九分。
美咲はテレビを消した。
四歳の娘が不満そうに振り返る。
「なんで消すの?」
「ちょっとテレビ休憩」
「見たい」
「あとでね」
できるだけ普通の声を出した。
二歳の息子は床に座り、積み木を縦に重ねている。三つ積んでは崩し、また積む。テレビさえ見なければ、いつもの朝だった。
カーテンの向こうからサイレンが聞こえる。
近い。
美咲はスマートフォンを確認した。遼との通話から十五分ほど。新しいメッセージは来ていない。
ニュースアプリには速報が並んでいた。都内各所で正体不明の人型、埼玉・千葉・神奈川でも目撃、警察官が発砲、政府が情報収集中。
SNSを開く。
やめた方がいいと思いながら、指が動いた。
駅のホームを逃げる人々。交差点で拳銃を構える警察官。黒い人影が弾を受けてよろめき、倒れる動画。
コメント欄には《普通に銃効く》《自衛隊出せば終わり》《フェイクだろ》という言葉が高速で流れている。
美咲は画面を閉じた。
安心したくて見たのに、余計に気分が悪くなった。
娘がカーテンへ近づく。
「外見たい」
「今日はだめ」
「なんで?」
「危ないから」
「何が危ないの?」
答えに詰まった。
黒い怪物。
そんな言葉を四歳の子供へ言いたくない。
「車がいっぱいだから」
苦しい説明だった。娘は納得していない顔をしたが、カーテンから離れた。
そのとき、家の前で車が止まる音がした。
美咲の心臓が跳ねた。
遼。
時計を見る。早すぎる。
それでもカーテンの端を指二本分だけ開ける。
宅配便のトラックだった。
制服姿の運転手が降り、スマートフォンを耳に当てて道路を見回している。荷物は持っていない。
美咲はカーテンを戻しかけた。
道路の奥。
黒いものが立っていた。
息が止まる。
動画と同じだった。
いや、動画で見るのとはまるで違う。
自分の家の前にいる。
数十メートル先にいる。
それだけで現実味が変わった。
美咲はカーテンを閉じた。
「二人とも、こっち来て」
娘が首を傾げる。
「なんで?」
「かくれんぼしよう」
息子を抱き上げ、娘の手を取る。玄関から離れた廊下へ連れていく。テレビを消していてよかった。照明も消す。スマートフォンを消音にする。
外で男の声がした。
「おい!」
美咲は身体を固くした。
遼が電話で言っていた。近づかないで。
男は知らないのかもしれない。知っていても、自分の目の前に現れたとき同じ判断ができなかったのかもしれない。
足音。
走る音。
大きな衝突音。
娘が泣きそうな顔になる。
美咲は口元へ指を当てた。
「しーっ」
息子が小さく「ママ」と言った。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
外で金属が歪む音がした。
一度。二度。三度。
そのあと、キイィ、と長く擦れる音へ変わった。
トラックの車体を引っ掻いているようだった。
美咲は子供たちを抱き寄せた。
時間の感覚がなくなる。
実際には数分だったのだろう。
音が止んだ。
静かになる。
すぐには動かなかった。
五分。十分。
娘が小声で言う。
「もう終わった?」
「まだ待って」
十五分。
美咲はようやく立った。子供たちを廊下へ残し、一人でリビングへ戻る。
カーテンの端を開ける。
黒いものはいない。
宅配トラックだけが残っていた。側面が大きくへこんでいる。運転手の姿は見えない。
道路の中央に銀色の部品が落ちていた。荷台で使う台車か何かの一部。
美咲はスマートフォンで写真を撮った。
遼へ送る。
《家の前にも来た》
《今はいなくなった》
《私たちは無事》
続けて写真。
既読にならない。
美咲は窓から離れた。玄関の鍵を確認する。上。下。チェーン。勝手口。窓。
全部確認した。
キッチンへ行き、水を入れられる容器を集める。ペットボトル、水筒、鍋。浴槽にも水を張った。停電や断水になるかもしれない。災害時にはそうすると聞いたことがある。
何を準備すればいいのか分からないから、知っていることを一つずつやる。
冷蔵庫を開ける。
米。冷凍食品。子供用のパン。牛乳。
数日は大丈夫。
でも数日とは何だ。
今日中に終わるかもしれない。一週間続くかもしれない。
考えるのをやめた。
スマートフォンが鳴る。
遼かと思って飛びついた。
母親からだった。
『美咲、大丈夫?』
「うん。家にいる」
『こっちでも変なの出たって。子供ら連れて来る?』
美咲は一瞬迷った。
実家へ行くには車で移動しなければならない。遼は外へ出るなと言った。
「今は動かない」
『でも――』
「遼が帰ってきてるから」
言った瞬間、その言葉にすがっている自分に気づいた。
遼が帰れば大丈夫。
何が大丈夫になるのか分からない。
それでも帰ってきてほしかった。
電話を切る。
娘がリビングへ来た。
「パパいつ帰る?」
「もうすぐ」
「何分?」
子供は残酷なくらい具体的な答えを求める。
美咲は時計を見た。
「ちょっと分からない」
「じゃあ百?」
「何が百?」
「百分」
美咲は少しだけ笑った。
「それくらいかな」
娘は納得して玩具のところへ戻った。
スマートフォンが震える。
遼からではない。
緊急速報。
《不要不急の外出を控えてください》
美咲は画面を閉じた。
外に出ない。
それだけならできる。
問題は、外にいる遼だった。
午前九時を過ぎるころ、美咲のスマートフォンには、同じ幼稚園の保護者からメッセージが次々に届いていた。
《今日は休園だって》
《外に出ない方がいいみたい》
《黒い人みたいなの見た人いる?》
普段なら、連絡網は遠足の持ち物や発熱者の情報で埋まる。そこに「警察」「襲われた」「動画」という言葉が混ざっていることが、美咲には現実味を欠いて感じられた。
娘がリビングの床で積み木を並べている。
息子はテレビの前に座り、画面に流れる速報より、手に持ったミニカーの方を気にしていた。
美咲はカーテンを少しだけ開けた。
向かいの家の門が開き、隣家の藤原千佳が顔を出した。
三十四歳。小学一年生の息子と三歳の娘を育てている。引っ越してきた当初から何かと声をかけてくれた人だった。
目が合う。
千佳が小さく手招きした。
美咲は玄関を開けず、窓越しにスマートフォンを示した。
すぐ電話が鳴った。
『美咲ちゃん、外出ない方がいいよ』
「うん。ニュース見てる」
『駅の方で人が襲われたって。うちの旦那、もう会社着いてるんだけど帰れないって』
美咲は喉の奥が乾くのを感じた。
「遼も外」
『連絡つく?』
「さっきは。今は既読つかない」
言葉にした途端、不安が輪郭を持った。
千佳が少し黙った。
『水、ある?』
「ペットボトル少し」
『うちもそんなにない。水道止まるかもしれないから、お風呂ためとこ』
美咲は反射的に浴室を見る。
そこまで考えていなかった。
「分かった」
『何かあったら電話して。外には出ない。子どもだけでは絶対出さない』
「千佳さんも」
通話を切る。
美咲は浴槽の栓を確認し、水を出した。
次に空の鍋とケトルを台所へ並べた。
テレビでは専門家らしい男が「現時点では詳細不明」と繰り返していた。
詳細不明。
その言葉だけが何度も耳に残る。
家の中には、昨日と同じ家具がある。
昨日と同じ玩具が散らかっている。
冷蔵庫には昨夜の残り物がある。
なのに窓一枚の向こう側だけが、知らない世界へ変わり始めていた。




