第二章 帰る
八時を少し過ぎたころ、遼は会社へ電話をかけた。
呼び出し音が続く。誰も出ない。切って、社長の携帯へかける。こちらも出なかった。
会社のグループチャットには新しい書き込みが増えていた。池袋方面で騒ぎが起きていること、警察車両が集まっていること、黒い人影を撮影した動画が回ってきたこと。最後に、今日の現場をどうするのかという質問がある。答える者はいない。
遼は信号待ちで短く入力した。
《俺は戻ります。途中で黒いの見ました。近づかない方がいいです》
送信して顔を上げる。信号は青になっていた。それでも前の車は動かない。運転手がスマートフォンを見ている。後ろからクラクションが鳴った。
ナビは次々と経路を変更した。事故、通行止め、渋滞。到着予想は九時三十一分から九時四十八分へ、さらに十時二分へ延びた。
「増えてるじゃないか」
遼は幹線道路を諦め、住宅街へ入った。道幅は狭いが車は少ない。普段なら仕事車で好んで入る道ではない。今日は少しでも家へ近づける道が正解だった。
右側の路地から若い女性が飛び出してきた。
遼は急ブレーキを踏んだ。
女性は片方の靴を失っていた。髪が乱れ、肩からバッグがずり落ちている。車の前を横切りながら振り返った。
「助けて!」
その声で遼も路地を見る。
黒いものが出てきた。
朝に見た個体より少し小さい。肩の外殻が薄く、脚が長い。それでも見間違えることはなかった。顔のない黒い頭部。板を重ねたような外殻。人間に似ているのに、人間の動きから少しずつ外れている身体。
女性が走る。黒殻も走った。
距離が縮まる。
遼はハンドルを握ったまま考えた。車でぶつけるか。だが朝、男を一撃で飛ばした力を思い出す。車なら勝てるのか。勝ったとして車は動くのか。
迷っているうちに、黒殻は女性の十メートル後ろまで迫った。
遼はクラクションを鳴らした。
長く、何度も。
黒い頭部が動いた。
女性ではなく遼の車へ向く。
「こっちだ!」
窓を閉めたまま叫び、アクセルを踏んだ。
女性の横を通過する。バックミラーを見る。黒殻が進路を変えた。
車を追ってくる。
「よし……いや、よくないな」
女性は反対方向へ逃げていった。少なくとも今は助かった。代わりに遼が追われている。
住宅街では速度を上げられない。角から自転車が出てくる。通学途中らしい学生もいる。事故を起こせば家へ帰れなくなる。 道端には何台もの自転車が停められていた。銀色のリムや部品は見えるが、フレームが鉄なのかアルミなのか、塗装の下まで遼に分かるはずもない。黒いものも、それらへ片端から飛びつくわけではなかった。もし本当にアルミへ反応しているのだとしても、材質の有無だけで決まるほど単純ではないらしい。
ミラーの中で黒殻は一定の距離を保っていた。速い。人間の全力疾走より明らかに速い。それでも呼吸が乱れる様子も、走り方が崩れる様子もない。
車体の上で、固定金具が小さく鳴った。
ガシャン。
工具かと思った。
もう一度。
アルミ脚立だった。
遼の頭に、コンビニの前で見た光景が戻った。潰れたアルミ缶。開いた胸部。そして自分の顔ではなく、車の屋根を探るように上を向いた頭部。屋根にはアルミ脚立がある。
「まさか」
偶然かもしれない。
だが、試さなければ追いつかれる。
遼は少し先の空き地脇へ車を寄せ、急停車した。ハザードを点けて外へ飛び出す。ルーフキャリアの固定ベルトへ手を伸ばした。普段なら数秒で外せるバックルが、震える指ではうまく動かない。一本、もう一本。ようやく脚立を屋根から引きずり下ろす。伸縮式とはいえ軽くはない。車体を擦って甲高い金属音が鳴った。
黒殻は百メートルも離れていなかった。
「早く……!」
脚立を道路の反対側へ放る。
大きな金属音が響いた。
黒殻が止まった。
遼も動きを止める。
黒い頭部が、ゆっくり脚立へ向いた。
一歩。二歩。
次の瞬間、走った。
遼へではない。
脚立へ。
「本当に……?」
黒殻は脚立の前でしゃがんだ。黒い指先がアルミの支柱へ触れる。表面をなぞるように動く。
遼は見届けずに車へ戻った。ドアを閉め、アクセルを踏む。角を二つ曲がり、三つ目を曲がってからバックミラーを確認する。
来ない。
数百メートル先で車を止めた。
ハンドルへ額をつける。胸が激しく上下している。
「アルミ……」
声にすると馬鹿げて聞こえた。
怪物がアルミに寄ってくる。そんな話を誰が信じる。
だが映像は残っている。朝のコンビニも、今の脚立も、ドライブレコーダーが記録しているはずだった。
遼は警察の情報提供窓口を探した。回線が混雑し、ページが何度も止まる。ようやく開いたフォームへ入力する。
《黒い人型のものがアルミ製品に反応している可能性があります。最初の個体がコンビニから銀色の飲料缶を持ち出しました。先ほど別個体に追跡された際、ルーフキャリア上の無塗装アルミ脚立を外して投げると、追跡を中断して脚立へ向かいました。材質だけが原因かは不明です。映像があります》
送信した。
すぐに何かが変わるわけではない。
それでも、自分だけが知っているかもしれない情報を黙っているよりはよかった。
美咲へ電話をかける。
『もしもし』
「大丈夫?」
『こっちは大丈夫。遼は?』
「帰ってる。まだちょっとかかる」
『ニュース見た? 東京だけじゃないみたい』
「ラジオで聞いた」
電話の向こうでテレビの音がする。アナウンサーが警察官の発砲について伝えていた。
『黒いの、撃たれて倒れたって』
「倒れた?」
『うん。映像も出てる』
遼は黙った。
殺せる。
その事実は、安心材料に思えた。警察の拳銃が効くなら、自衛隊が出ればもっと何とかなる。
自分は戦う必要がない。
家へ帰ればいい。
『遼?』
「聞いてる」
『気をつけてね』
「うん」
通話を切った。
ナビを見る。
到着予想、十時五十一分。
まだ二時間近い。
遼はエンジンをかけた。
屋根には、もう脚立がない。ルーフキャリアだけが空のまま残っている。
たったそれだけのことなのに、車の中が急に心細く感じられた。
女の名前を、遼が知るのは少し後だった。
佐伯菜月、二十八歳。
都内の不動産会社へ向かう途中だった。
彼女自身はその朝の出来事を、後に「最初は痴漢か強盗だと思った」と説明している。
菜月が異常に気づいたのは、駅へ向かうバスが途中で止まったときだった。前方で車が斜めに停まり、運転手が降りた。乗客の何人かが窓際へ寄った。
黒い人影がいた。
誰かが動画を撮り始めた。
誰かが「映画の撮影じゃない?」と言った。
その数十秒後、道路へ出た男性が跳ね飛ばされた。
車内の空気が変わった。
菜月は後部ドアが開いた瞬間、他の乗客と一緒に外へ出た。逃げる方向など考えていなかった。ただ、黒いものから遠ざかりたかった。
途中でパンプスの踵が側溝にはまり、片方を脱いだ。
スマートフォンには母親から着信が三件入っていた。
電話をかけ返す余裕がなかった。
振り向くたび、黒い人影が近づいていた。
走っているようには見えない。
それなのに距離だけが縮まる。
菜月は初めて、本気で自分が死ぬかもしれないと思った。
そのとき、道路脇に白いワンボックスが停まった。
運転席から男が降りる。
「こっち!」
男は菜月ではなく、その背後を見ていた。
車の屋根へ手を伸ばし、固定ベルトを外し始める。
菜月には意味が分からなかった。
逃げればいいのに。
どうして脚立なんか外しているのか。
次の瞬間、銀色の脚立が路面へ落ち、乾いた金属音が響いた。
黒い人影の頭部が動いた。
菜月はその瞬間を、生涯忘れなかった。




