第十章 最初の夜
午後六時四十八分。
森田修司の足が止まった。
住宅街の角を曲がった先に、二階建てのアパートが見えた。外壁は薄い灰色で、階段の踊り場に自転車が一台置かれている。道路に面した窓のいくつかには明かりがあった。
「ここだ」
森田の声が、それまでより低かった。
遼も足を止めた。
「息子さん?」
「二階。203」
森田はスマートフォンを見る。何度目か分からない発信履歴が並んでいる。
「まだ連絡は?」
「ない」
答えてから、森田はアパートへ向かった。
遼はついて行かなかった。
道路の端に立ち、周囲を見る。
右。
左。
駐車場。
アパートの階段。
向かいの家の塀。
黒い人影は見えない。
森田が数歩進み、振り返った。
「来ないのか?」
「ここ見ときます」
「俺の息子だぞ」
「せやからです。中見てる間に外から来たら分からんでしょ」
森田は何か言いかけて、やめた。
「……分かった」
階段を上がる。
鉄骨の階段が鳴った。
二階の廊下。
203号室。
森田がインターホンを押す。
反応はない。
もう一度。
「おい!」
ドアを叩く。
「俺だ!」
返事はない。
遼は道路を見たまま、耳だけをそちらへ向けた。
「いるなら開けろ!」
ドアノブが動く音。
鍵がかかっている。
森田が電話をかける。
すぐ切る。
またドアを叩く。
「くそ……」
力の抜けた声が、階段の上から聞こえた。
遼は時計を見る。
午後六時五十一分。
暗くなる速度が早い。
空はまだ完全な夜ではないが、建物の隙間はもう黒い。
遠くでサイレンが鳴っている。
別の方向から、短い銃声。
今日、それを聞くたびに誰かが助かっていると思ってきた。
今もそうであってほしい。
「真壁」
森田が階段を下りてきた。
顔が変わっていた。
「いませんでした?」
「分からん。鍵は閉まってる。中から音もしない」
「近所の人は?」
「聞いてみる」
一階の部屋。
インターホン。
出ない。
隣。
出ない。
三つ目で、カーテンがわずかに動いた。
「すみません!」
森田が声を上げる。
「203の子、見ませんでしたか!」
しばらくして、窓越しに女の声がした。
「昼すぎに出ていきました」
森田が窓へ近づく。
「どこへ!」
「分かりません。友達と……駅の方に行くって」
「何時です?」
「二時くらい……」
森田が動かなくなった。
駅。
遼は学校で聞いた話を思い出した。
規制線。
避難。
黒殻。
人の多い場所。
森田が振り返る。
「駅へ行く」
即答だった。
遼は少しだけ黙った。
「今から?」
「行く」
「駅前は規制されてるかもしれません」
「だから何だ」
「止められるかもしれん」
「息子がいるかもしれない」
遼はそれ以上止めなかった。
自分も同じだ。
美咲と子どもたちが家にいる。
だから帰ろうとしている。
危険だと言われても。
森田はリュックの肩紐を引き上げた。
「お前は?」
「家帰ります」
「ここから別か」
「たぶん」
二人はスマートフォンの地図を並べた。
森田は北へ。
遼は西へ。
次の大きな交差点までは同じだが、その先で分かれる。
「じゃあ、そこまで」
森田が言った。
「はい」
歩き出す。
十分ほど。
二人ともほとんど話さなかった。
住宅街の窓に明かりが増えていた。
その一方で、完全に暗い家もある。
停電なのか。
避難しているのか。
分からない。
交差点が見えた。
信号は動いている。
だが車はほとんど走っていない。
森田が立ち止まった。
「俺、こっちだ」
「気ぃつけて」
「お前もな」
数秒。
森田は何かを迷うように遼を見た。
「さっきの学校でさ」
「はい」
「全部殺せばいいって言っただろ」
遼はうなずいた。
「今もそう思ってる」
森田は言った。
「息子の近くにあれがいたら、誰でもいいから撃ってほしい。自衛隊でも警察でも」
「俺も家の近くにおったら、そう思います」
「だよな」
森田は笑わなかった。
「でも、お前が逃げろって言ってた意味も少し分かった」
「俺もよう分かってないですけどね」
「分かってないのかよ」
「今日覚えたばっかなんで」
森田が鼻で笑った。
今度は少しだけ、いつもの声に戻った。
「生きてたら、また会うかもな」
「その言い方やめましょ」
「じゃあな、電話屋」
「森田さんも」
森田は手を上げ、北へ歩いた。
遼は反対へ向かった。
一人になった。
その瞬間、街が急に広くなった気がした。
さっきまで隣に足音があった。
誰かが角の向こうを見てくれた。
くだらない話でも声があった。
今は自分の靴音しかない。
遼はスマートフォンを開いた。
美咲へ電話する。
一度目はつながらない。
二度目。
呼び出し音。
『もしもし』
声が聞こえた瞬間、遼は足を止めた。
「美咲」
『今どこ?』
「まだ遠い」
『大丈夫なん?』
「大丈夫」
嘘ではない。
今は。
『子どもら、さっきご飯食べた』
「何食べた?」
『冷凍のうどん。電気まだ来てるから』
遼は少し笑った。
「ええやん」
『笑い事ちゃうで。冷蔵庫もいつまで使えるか分からんし』
「水は?」
『浴槽いっぱい。鍋もケトルも入れた。ペットボトルもある』
「窓は?」
『カーテン閉めてる。外も見てない』
「それでええ」
一瞬、子どもの声が聞こえた。
『パパ?』
娘だった。
遼は目を閉じた。
「おるで」
『いつ帰ってくる?』
答えが出ない。
「もうちょいや」
『今日?』
胸の奥が詰まる。
「今日帰る」
美咲が何も言わなかった。
遼も、それ以上言わなかった。
電話の向こうで息子が何かを言い、娘が笑った。
家の音。
朝まで当たり前だった音。
『遼』
「ん?」
『ほんまに無理したらあかんで』
「分かってる」
『帰ってきてほしいけど、死んだら意味ないから』
遼は返事をするまで少しかかった。
「分かってる」
通話を切る。
画面に地図を出す。
最短距離。
だが最短の道は使えない。
幹線道路の一部が通行止め。
橋の一つが封鎖。
別の道路では事故情報。
地図アプリの情報が今の状況を正確に反映している保証もない。
遼は細い道を選んだ。
午後七時三十六分。
街灯が一斉に消えた。
遼はその場で立ち止まった。
信号も消える。
住宅の明かりが何軒も落ちた。
一瞬だけ、町全体が息を止めたように暗くなる。
その直後。
あちこちから声が上がった。
「停電?」
「ブレーカーじゃない!」
車のクラクション。
懐中電灯。
スマートフォンのライト。
遼は自分のライトを点けなかった。
暗闇の中で、自分の位置を知らせるものになる気がした。
黒殻が光へ反応するかどうかは知らない。
知らないなら、余計なことはしない。
目が暗さに慣れるまで、塀際で待つ。
数十秒。
輪郭が戻ってくる。
空の明るさ。
家の屋根。
道路の白線。
遠くの交差点だけ、非常電源なのか信号が点滅している。
スマートフォンが震えた。
美咲。
《停電した》
遼はすぐ返す。
《こっちも》
《ライト必要な時だけ》
《窓際行かんといて》
送信。
少しして既読。
《分かった》
その文字を見てから、遼は歩き出した。
停電は十数分で一部が戻った。
戻らない区画もあった。
町がまだらになった。
明るい道。
暗い道。
遼は明るい方が安全なのか、暗い方が安全なのか判断できなかった。
人間なら明るい方が安心する。
黒殻にとってはどうなのか。
分からない。
だから、見通しの良さを優先した。
午後八時十二分。
遠くの空が赤かった。
最初は夕焼けの残りだと思った。
違った。
煙が上がっている。
火事。
一か所ではない。
二つ。
さらに離れた場所にも、薄い橙色が見える。
消防車のサイレンが途切れず続く。
遼は立ち止まらなかった。
火が黒殻に効くという話を、昼から何度も聞いた。
燃えた車。
工場火災。
ガソリン。
火炎。
どこまで本当なのか分からない。
だが、火事そのものは人間にも同じように危険だ。
風向きを見る。
煙は自分の進路とはずれている。
そのまま進む。
途中、小さなドラッグストアの前に人が集まっていた。
シャッターは半分下りている。
店員らしい男が叫んでいる。
「一人二本までです!」
水。
乾電池。
簡易食。
人が押し合っている。
遼は通り過ぎた。
バッグには水が一本。
少ない。
だが人混みに入る方が怖かった。
少し先の自動販売機。
電源は落ちている。
足元に何本か飲料が転がっていた。
誰かが取り出そうとしたのか、取り出し口が壊されている。
遼は近づかなかった。
アルミ缶。
朝ならただのゴミだった。
今は、それが何を呼ぶのか分からない。
午後八時四十七分。
警察の臨時相談番号へ電話した。
つながるまで七分かかった。
『はい、緊急対策窓口です』
疲れた男の声だった。
「すみません。家に帰りたいんですけど、今通れる道って分かりますか」
『現在地をお願いします』
遼は町名と近くの交差点を伝えた。
キーボードを叩く音。
『幹線道路の一部で規制があります。避難所へ移動できる場合は、最寄りの指定避難所へ避難してください』
「家に妻と四歳と二歳の子どもがおるんです」
『ご家族は安全な屋内にいらっしゃいますか』
「今は家です」
『外へ出ないようお伝えください。ご本人も、可能であれば近くの避難所へ』
「どの道が通れるかは分からんのですか」
少し間があった。
『状況が変化しており、個別の道路の安全は保証できません』
「黒殻がどこに出てるかは?」
『確認情報はありますが、移動しているため現在位置は案内できません』
「銃で倒せるんですよね」
また間。
『警察からは、黒い人型の対象を見かけても近づかず、屋内へ避難するようお願いしています』
答えになっていない。
だが、答えられないのだと分かった。
「分かりました」
『危険を感じた場合は110番を――』
「はい」
通話を切った。
腹は立たなかった。
電話の向こうも、分からないのだ。
今日の朝まで存在しなかったものが、日本中を歩いている。
誰にも安全な道など分からない。
遼は地図を閉じた。
自分で見るしかない。
午後九時十八分。
道路の先に人影を見つけた。
遼はすぐに塀の陰へ入った。
黒い。
動かない。
距離は百メートルほど。
街灯が消えているため輪郭しか見えない。
人間かもしれない。
黒殻かもしれない。
確認しに行かない。
横道へ入る。
三百メートルほど遠回り。
次の交差点。
また規制線。
警察車両。
「この先は通れません!」
警察官が手を上げる。
「何があったんです?」
「複数の対象を確認しています。戻ってください!」
「西側へ抜けたいんです」
「ここからは無理です!」
遼は地図を見る。
また遠回り。
「どっちなら?」
「南へ下がって大通りを避けてください。ただし安全は確認できていません!」
安全は確認できていない。
今日、何度聞いたか分からない言葉だった。
遼は礼を言って戻った。
走らない。
焦るほど、道を間違える。
午後九時五十二分。
スマートフォンのバッテリーは三十八パーセント。
モバイルバッテリーはある。
だが使い切るわけにはいかない。
画面の明るさを落とす。
位置情報を必要なときだけ見る。
美咲からメッセージ。
《電気戻った》
続いて。
《近所で救急車ずっと鳴ってる》
遼は返信する。
《外見んでいい》
《鍵そのまま》
《俺まだかかる》
送信。
すぐに返事。
《分かった》
《待ってる》
遼は画面を消した。
「待ってる」
その三文字が重かった。
午後十時十六分。
榊原真琴は、研究室の床に置かれた資料箱をまたいだ。
机の上には紙が増え続けていた。
警察。
消防。
自衛隊。
自治体。
病院。
民間の映像提供。
確実なものと、確実でないもの。
死亡時刻が秒まで残っているもの。
「だいたい夕方」という証言しかないもの。
死因も混ざっている。
銃撃。
車両衝突。
焼損。
感電。
高所からの落下。
重量物による圧迫。
刃物による損傷。
複数の要因が重なり、どれが致命的だったか分からない例。
久世が紙を一枚持ち上げた。
「人間、何でもやるな」
「生きるためならね」
榊原は答えた。
「これ、分類どうする。車で壁に挟んだあと燃えてる」
「複合。決めつけない」
「こっちは工場の設備に巻き込まれた」
「圧迫と切断。活動停止の瞬間が分かるなら映像も」
「全部残す?」
「全部」
久世が紙を置く。
「さっきの二件以外にも、死亡時刻の前後で別個体が止まったって報告が来てる」
「時刻精度は?」
「秒まで合うのはまだ弱い。監視カメラの時計がずれてる」
「補正できるものだけ」
「慎重だな」
「慎重じゃない方が怖い」
榊原はモニターを見る。
全国地図。
黒い印。
発見地点。
赤い印。
活動停止が確認された地点。
数は増えている。
人間が押し返しているようにも見える。
少なくとも今日の武器は通じている。
警察の拳銃。
自衛隊の小銃。
車。
火。
電気。
落下。
圧迫。
黒殻は不死身ではない。
その事実が、ニュースでは希望として繰り返されている。
榊原も、それを否定するつもりはなかった。
今日、倒せなければ死んでいた人間がいる。
現場で撃つなとは言えない。
だが。
「何体?」
榊原が聞いた。
「何が」
「今日、活動停止が確認された数」
久世は端末を見る。
「集計中。数字はまだ動いてる」
「死因別も」
「やってる」
榊原はうなずいた。
数ではなく、一つ一つの死因を見る。
もし死亡時に何かが他個体へ伝わっているなら。
何が伝わるのか。
その答えは、今日の記録の中にしかないかもしれない。
「明日の同じ時刻も映像残して」
榊原が言った。
久世が顔を上げる。
「明日?」
「比較用」
「何と何を」
榊原は一瞬だけ黙った。
自分でも、まだ説明できない。
「今日と明日」
「広すぎるだろ」
「分かってる」
榊原はノートに時刻を書いた。
17:48:12。
18:03:14。
その横に、翌日の同時刻を書きかける。
そして止めた。
まだ根拠はない。
ただの勘を、記録へ混ぜるべきではない。
線を引いて消した。
午後十時五十九分。
遼はコンビニの駐車場の端に座っていた。
店は閉まっている。
ガラス扉の内側は暗い。
駐車場には誰もいない。
壁を背にし、道路と二つの出口が見える位置を選んだ。
足が痛かった。
靴の中で、かかとが擦れている。
朝から車を運転し、走り、歩き、また走った。
腹も減っている。
バッグから小さな栄養補助食品を出す。
半分食べる。
水を一口。
残りを見る。
飲みたい。
だが全部は飲まない。
スマートフォンを開く。
ニュース。
通信が遅い。
文字だけの記事を選ぶ。
《黒い人型の存在 各地で活動停止を確認》
《警察・自衛隊が対応》
《海外でも同様の目撃情報》
動画は開かない。
バッテリーを使う。
記事の中には、今日確認された対処例が並んでいた。
銃撃。
車両による衝突。
火災。
感電。
高所からの転落。
大型機械への巻き込み。
どれも、人間が勝った記録として書かれている。
コメント欄には、もっと強い武器を使えという言葉が並ぶ。
全部殺せ。
明日までに終わらせろ。
自衛隊は何をしている。
海外と協力しろ。
森田の言葉を思い出す。
見つけたら全部殺せばいい。
遼は否定できない。
家の前に黒殻が立っていたら。
美咲と子どもたちへ近づいていたら。
撃てる人間がいるなら撃ってほしい。
そう思う。
なのに。
画面に並ぶ「活動停止」の文字を見ていると、胸の奥に朝から続く違和感が残る。
理由はない。
証拠もない。
ただ、今日一日で黒殻について分かったことが少なすぎる。
何のために現れたのか。
なぜ人を追うのか。
なぜアルミに反応するのか。
なぜ、歩いていると思った次の瞬間に、あれほど速く動けるのか。
分からないまま、殺し方だけが増えている。
遼はニュースを閉じた。
考えても答えは出ない。
今の自分が考えるべきなのは、家へ帰ることだ。
立ち上がる。
足の裏が痛む。
「まだ行ける」
声に出した。
誰も聞いていない。
午後十一時二十六分。
また停電した。
今度は広かった。
遠くのビルの明かりまで消える。
空だけが妙に明るい。
火事の赤。
非常灯。
車のヘッドライト。
そして、星。
普段なら気づかない数の星が見えた。
遼は住宅街の細い道を歩いていた。
さっきよりさらに慎重に。
角。
止まる。
見る。
進む。
門。
駐車場。
抜け道。
黒い影。
見つけたら離れる。
一度、道路の先を黒殻が横切った。
距離は遠かった。
遼はすぐに一つ前の角まで戻り、別の道へ入った。
追ってこなかった。
一度、民家の庭から男に呼び止められた。
「避難所どっちですか!」
遼は知らなかった。
「分かりません!」
それしか言えなかった。
一度、泣いている女の声が聞こえた。
家の中からだった。
遼は立ち止まりかけた。
だが、叫び声ではない。
助けを求めているのかも分からない。
行かなかった。
自分ができることには限界がある。
今日、そのことを何度も思い知らされた。
午後十一時五十七分。
遼は歩道橋の下で足を止めた。
地図を確認する。
自宅まで、直線でも十キロ以上。
道路をたどれば、もっとある。
朝から帰ろうとしているのに。
まだ十キロ以上。
画面を見たまま、遼はしばらく動けなかった。
疲れではない。
いや、疲れている。
足も痛い。
腹も減った。
眠い。
だが一番重いのは、今日一日かけても家へ帰れていないという事実だった。
スマートフォンが震えた。
美咲。
《起きてる?》
遼はすぐ電話をかけた。
『遼?』
「起きてたん」
『寝られるわけないやろ』
「子どもらは?」
『寝た。娘は何回も起きてるけど』
「そっか」
『今どこ?』
遼は地図を見る。
言いたくなかった。
『まだ遠いん?』
「……十キロ以上ある」
沈黙。
美咲が息を吐く音。
『今日はもうどっか入った方がええんちゃう』
「でも」
『暗いし、黒いの見えへんやろ』
「うん」
『明るくなってからでもええやん』
遼は歩道橋の柱へ背中をつけた。
帰る。
今日帰る。
娘にもそう言った。
自分にも何度も言った。
けれど、夜の住宅街で黒殻と鉢合わせれば、朝より逃げにくい。
見つけるのが遅れる。
足も落ちている。
バッテリーも水も減っている。
「……ちょっと考える」
『うん』
「そっちは変わりない?」
『今は。外でたまにサイレン聞こえるくらい』
「絶対出たらあかんで」
『分かってる』
「鍵も」
『閉めてる』
「カーテンも」
『閉めてるって』
少しだけ、美咲の声にいつもの苛立ちが混じった。
それがうれしかった。
「ごめん」
『何が』
「帰られへんくて」
『それは謝らんでええ』
遼は目を閉じた。
遠くで銃声がした。
一発。
二発。
夜になっても続いている。
誰かが黒殻を見つけた。
誰かが撃っている。
誰かを守るためかもしれない。
『今の音は?』
「遠い。大丈夫」
『ほんま?』
「大丈夫」
また言った。
今日、何度言ったか分からない。
通話を切る前に、娘の寝息を聞かせてもらった。
小さな音。
息子は隣で寝ているらしい。
遼は何も言わずに聞いた。
午前零時まで、あと一分。
遼は通話を終えても、すぐには歩き出さなかった。
歩道橋の階段を見上げる。
上へ行けば周囲を見渡せるかもしれない。
同時に、逃げ道は階段の二方向だけになる。
やめた。
少し先に、シャッターを下ろした小さな事務所がある。軒下が道路から少し引っ込み、左右の道も見える。
今夜ずっと眠る場所にはならない。
それでも、足を休めるには歩道橋の下よりましだった。
遼は近づく前に建物の周囲を一周した。
裏口。
細い路地。
低いフェンス。
もし黒殻が正面から来ても、裏へ抜けられる。
それを確認してから、軒下へ入った。
朝なら、雨宿りでもないのに建物の逃げ道を調べる自分を想像できなかった。
今は、座る場所より先に出口を見る。
バッグを枕にはしない。
靴も脱がない。
スマートフォンとライトはすぐ取れる位置。
遼はバッグからモバイルバッテリーを取り出した。
充電ケーブルをつなぐ。
三十八パーセント。まだ動く。だが、明日も地図と連絡手段は必要になる。
使える場所で、使えるうちに充電しておく。
水を一口だけ飲む。
目を閉じるのは五分だけにしようと思った。
だが、目を閉じた瞬間に黒い身体が浮かんだ。
道路の中央。
学校の窓の外。
一瞬で距離を詰めた影。
遼はすぐ目を開けた。
眠れない。
なら、無理に眠らなくていい。
家へ帰るために必要なのは、今夜を越えることだ。
帰ることと、急ぐことは同じではない。
その違いを、遼はようやく理解し始めていた。
研究室では、榊原が時計を見ていた。
今日の記録はまだ終わっていない。
全国から数字が入り続けている。
活動停止。
死亡。
負傷。
避難。
停電。
火災。
銃撃。
事故。
一日で起きたこととは思えない量だった。
黒殻は殺せる。
それは今日、証明された。
人間の武器は通じた。
車も。
火も。
電気も。
高所からの落下も。
強い衝撃も。
現場では、それが希望だった。
今夜眠れる人間がいるとすれば、その希望のおかげかもしれない。
榊原は否定しない。
否定できない。
ただ、机の前には別の記録がある。
17:48:12。
18:03:14。
一体の死と、遠く離れた個体の数秒の停止。
死亡時反応。
他個体との情報共有の可能性。
まだ、それだけ。
午前零時。
日付が変わった。
遼は歩道橋の下でスマートフォンの時刻が変わるのを見た。
00:00。
朝七時四十二分から、まだ十七時間も経っていない。
それなのに、昨日までの生活が何日も前のことに思えた。
家には帰れていない。
黒殻はまだ町を歩いている。
世界中で同じものが見つかっている。
そして人間は、今日一日でいくつもの殺し方を覚えた。
遼はそれが何を意味するのか知らない。
榊原も、まだ知らない。
警察も。
自衛隊も。
世界中の誰も。
最初の一日が終わった。
そして、人類が黒殻へ与えた最初の授業が終わった。




