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黒殻  作者: みっち


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11/11

第十一章 二十四時間後

午前六時四十二分。

遼は目を覚ました。

シャッターの下りた事務所の軒下。

背中を壁につけたまま、いつの間にか眠っていた。

スマートフォンを見る。

バッテリーは七十八パーセント。

昨夜つないだモバイルバッテリーのおかげで、ひとまず余裕は戻った。

空はもう明るい。

昨夜は、暗い道を進むより朝を待つ方を選んだ。

家へ帰ることと、急ぐことは同じではない。

そう考えられるようになっただけでも、昨日の朝とは違っていた。

遼は立ち上がった。

かかとが痛む。

足全体が重い。

それでも歩ける。

水を一口飲み、周囲を見る。

道路。

駐車場。

家と家の隙間。

交差点の先。

黒い姿はない。

「行こか」

誰もいない道へ出た。

午前七時十一分。

美咲へメッセージを送る。

《起きた》

《今からまた歩く》

すぐに既読がついた。

《こっちも大丈夫》

《子どもらまだ寝てる》

遼は少しだけ笑った。

《焦らんでいいから》

最後に届いた一文を見て、画面を消す。

焦らない。

見えない角では止まる。

人が集まっている場所へ不用意に入らない。

黒殻《こっかく》を見つけても、倒そうとしない。

昨日一日で覚えたことは、それくらいだった。

だが、それでいい。

自分は警察でも、自衛隊でもない。

家へ帰る。

それだけだ。

同じころ。

榊原真琴《さかきばら・まこと》は研究室で、前日の記録を並べ直していた。

机の上には、夜の間に届いた資料が積まれている。

警察。

消防。

自衛隊。

自治体。

電力会社。

道路管理者。

病院。

民間の監視カメラ。

昨日の昼には「撃ったら倒れた」という情報しかなかった事例にも、少しずつ正確な記録がつき始めていた。

久世修一《くぜ・しゅういち》が端末を操作する。

「県警の最初の検体。時刻取れた」

榊原が顔を上げた。

「秒まで?」

「ボディカメラと無線記録を補正した。前日、八時十七分三十六秒」

画面に映像が出る。

交差点。

逃げる人。

黒殻。

警察官。

榊原は、この個体を知っていた。

昨日の午前。

検査台に運ばれてきた個体。

胸部に二発。

頸部に一発。

活動停止は、頸部への着弾直後。

ニュースで何度も流れた映像でもある。

「弾薬は?」

「県警から回答あり。使用拳銃と弾薬の規格、製造番号まで来てる」

「保存して」

「もう入れた」

久世が別の資料を開く。

「ただし、これが最初の銃撃死とは断定できない。国内だけでも発生直後の記録はぐちゃぐちゃだ。海外の報告は、もっと粗い」

「分かってる」

榊原は答えた。

昨日の午前八時を過ぎたころには、すでに警察官の発砲で黒殻が倒れたという映像がニュースに出ていた。

その後も銃撃による活動停止は増えた。

相沢健吾《あいざわ・けんご》も複数体を撃っている。

避難所でも警察官が黒殻を倒した。

自衛隊の小銃も通用した。

銃が効く。

昨日は、それが人間側の希望だった。

「車両衝突は?」

榊原が聞く。

「正確な記録が取れたものは複数。ただ、速度も車種も当たり方も違いすぎる」

「火災」

「温度が分からない」

「感電」

「電圧だけなら取れる。でも接触時間が違う」

榊原は息を吐いた。

条件が揃わない。

現場で起きているのは実験ではない。

人が生き残るために、使えるものを使った結果だ。

だから比較は難しい。

それでも記録するしかない。

榊原はホワイトボードを見る。

17:48:12 交通事故個体・活動停止。

18:03:14 銃撃個体・活動停止。

その直後。

離れた場所の別個体が数秒止まった。

昨日確認できたのは、そこまでだった。

死亡時に何かが伝わっている可能性。

だが、伝わった直後に身体が強くなったわけではない。

18:03:14の銃撃後も、別の場所では銃で黒殻が倒されている。

共有と変化の間に、時間がある。

もし本当に二つがつながっているなら。

その時間がどれくらいなのか。

まだ分からない。

午前八時十二分。

相沢は規制線の内側で、道路の先を見ていた。

黒殻が一体。

距離はおよそ七十メートル。

周囲の住民は退避させている。

今すぐ撃つ必要はない。

「動きませんね」

隣の警察官が言った。

「近づくな」

相沢は答えた。

昨日なら、もっと早く拳銃を抜いていたかもしれない。

撃てば倒せる。

実際、昨日はそれで人を助けた。

だが、榊原たちから警察へ回ってきた連絡には、妙な一文があった。

《昨日有効であった対処法についても、効果の変化に注意すること》

理由は書かれていない。

研究中。

それだけだった。

午前八時十六分。

道路の反対側から自転車が来た。

高校生くらいの少年。

規制に気づいていない。

「止まって!」

警察官が叫ぶ。

少年がブレーキをかける。

黒殻の頭部が動いた。

相沢の手が拳銃へ伸びる。

「下がれ!」

少年が自転車を捨てた。

黒殻が動く。

一歩目は見えた。

二歩目は分からなかった。

距離が一気に縮む。

相沢が拳銃を抜く。

昨日と同じ。

人へ向かうなら撃つ。

午前八時十七分。

「止まれ!」

引き金を引く。

一発。

黒殻の胸部に当たった。

高い音がした。

相沢の目がわずかに開く。

昨日と違う。

外殻の表面が欠けた。

だが、弾が内部へ入ったようには見えない。

二発目。

肩。

黒殻の身体が少し揺れる。

止まらない。

「何だ……?」

少年が走る。

黒殻が追う。

相沢は射線を変えた。

三発目。

首に近い部分。

前日なら。

そこで倒れた個体がいた。

今朝の黒殻は倒れなかった。

表面に傷が残っただけだった。

「下がれ!」

別の警察官が少年を建物の陰へ引き込む。

黒殻が一瞬止まる。

人間を見失ったからか。

別の何かへ注意が向いたのか。

相沢には分からない。

黒い頭部がゆっくり動く。

そして、道路の先へ歩き始めた。

相沢は追わなかった。

拳銃を向けたまま、距離を取る。

「発砲中止」

誰かが息を吐く。

相沢は自分の拳銃を見る。

故障ではない。

発射できている。

命中もした。

「昨日と同じ弾ですよね」

若い警察官が言った。

「確認する」

相沢は短く答えた。

だが、頭の中には別の言葉が浮かんでいた。

昨日は通った。

午前八時二十三分。

映像と報告が研究室へ届いた。

久世が立ち上がる。

「真琴」

榊原はすぐ画面を見る。

「時刻は?」

「最初の命中が八時十七分四十一秒」

榊原の視線が止まった。

前日の記録。

08:17:36。

五秒。

久世も同じ数字を見ている。

「ほぼ二十四時間」

「待って」

榊原は言った。

「何を」

「前日の八時十七分三十六秒が、最初の銃撃による活動停止とは限らない。国内より先に海外で起きていても、今の記録じゃ分からない」

「でも同じ規格の弾だ」

「同じ規格だからこそ比較材料にはなる。でも、この死亡が起点なのかも、耐性がいつ始まったのかも分からない」

久世が椅子へ戻る。

「相変わらず慎重だな」

「ここで間違えたら、現場が死ぬ」

榊原は映像を再生する。

一発目。

胸部。

表面が欠ける。

二発目。

肩。

三発目。

頸部付近。

昨日の検体と比較する。

前日の弾丸は外殻を抜き、内部組織へ達している。

今朝は浅い。

同じではない。

「個体差は?」

「ある」

「角度」

「完全一致じゃない」

「距離」

「近い」

「弾薬」

「同規格。詳細照合中」

榊原はメモする。

拳銃弾に対する耐性上昇の可能性。

その下に。

発現時刻不明。

久世が横から見る。

「二十四時間って書かないのか」

「まだ」

午前八時四十六分。

別の地域から同様の報告が入った。

警察官が発砲。

命中。

活動継続。

午前九時三分。

さらに一件。

前日なら内部まで損傷したと考えられる命中位置。

今朝は外殻の損傷が浅い。

偶然では説明しにくくなっていく。

それでも榊原は、ホワイトボードに「二十四時間」とは書かなかった。

午前九時二十一分。

遼は小さな公園で水道を見つけた。

蛇口をひねる。

水が出る。

手を洗い、ペットボトルへ補充する。

ベンチには座らない。

周囲を見ながらスマートフォンを確認した。

速報。

《黒殻に拳銃弾が効きにくい事例 複数地点で確認》

遼の指が止まる。

記事を開く。

警察官の発砲後も黒い人型の対象が活動を継続した。

前日と反応が異なる可能性がある。

警察は不用意に近づかないよう呼びかけている。

「昨日は効いてたやろ……」

学校を思い出す。

銃声。

倒れた黒殻。

体育館の中に広がった安堵。

森田の言葉。

殺せるうちに殺した方がいい。

昨日なら、それも一つの答えに聞こえた。

今朝は違う。

遼はニュースを閉じる。

理由は分からない。

なら、分からないままでいい。

自分が覚えることは一つ。

警察官が近くにいても、安全とは限らない。

銃があるから近づいていいわけではない。

遼は歩き出した。

午前十時三十二分。

研究室へ、道路管理会社から前日の映像が届いた。

黒殻が車両にはねられている。

久世が再生する。

「これ、昨日の午前中」

「活動停止?」

「確認されてる。ただし速度は推定」

榊原は首を振る。

「今日の比較対象がない」

「車でぶつけてもらう?」

「そのために人を危険に出すつもり?」

「冗談だ」

「今は冗談に聞こえない」

久世は黙った。

榊原は前日の一覧を見る。

車両衝突。

工場火災。

高圧設備への接触。

午後三時を過ぎた時点で、研究室にはそれぞれの活動停止個体が運ばれていた。

つまり、銃撃だけが早朝から使われていたわけではない。

複数の方法で黒殻は死んでいる。

もし今朝の変化が、単に出現から一日経ったことで全個体が強くなっただけなら。

銃だけではないはずだ。

すべての攻撃に、同じ時刻から強くなるはずだ。

逆に。

死亡した方法ごとに変化の時刻がずれるなら。

意味が変わる。

午前十一時五十六分。

消防から映像が届いた。

火災現場。

黒殻が炎の中を抜けている。

外殻表面は変色している。

だが動いている。

「昨日の焼損個体と比較できる?」

久世が聞く。

「温度が分からない」

「消防の推定は?」

「燃焼物が違う」

「使えない?」

「これだけでは」

榊原は映像を保留にした。

正午を過ぎても、報告は増え続けた。

拳銃弾。

小銃弾。

車両。

熱。

電気。

昨日は効いた。

今日は効きにくい。

だが、全部が同じ程度ではない。

小銃弾はまだ通る例がある。

拳銃弾も、命中部位や距離によっては深く入る。

無敵になったわけではない。

変化している。

それだけだった。

午後一時十四分。

三浦達也《みうら・たつや》一尉は、道路脇の車両の陰から黒殻を見ていた。

部下が言う。

「警察から、拳銃弾の効果低下」

「確認している」

「小銃はまだ有効です」

「だから撃つ、にはならない」

三浦は答えた。

周囲の住民は退避済み。

黒殻は歩いているだけ。

今、撃つ必要はない。

「人へ向かったら?」

「撃つ」

迷わない。

昨日と同じだ。

目の前の命を守るためなら撃つ。

研究側からは、不要な致死的攻撃を避けるよう提案が来ている。

理由はまだ仮説。

死亡時の遠隔反応。

攻撃への耐性変化。

二つがつながっている可能性。

三浦は双眼鏡を下ろした。

「記録は全部残せ。撃った時刻、距離、命中位置」

「了解」

昨日、榊原から言われたことを、今度は三浦が部下へ伝えていた。

午後二時三十七分。

榊原の机に、電力会社の事故記録が届いた。

前日の高圧設備への接触。

監視装置のログが残っている。

接触時刻。

電圧。

保護装置の作動。

黒殻が動かなくなった時刻。

さらに、今日の別地点で起きた接触事故の記録。

条件は完全には同じではない。

それでも、昨日なら致命的だった範囲の電気的負荷を受けた個体が、今日は活動を続けている。

「時刻差」

久世が計算する。

「二十三時間五十七分から二十四時間九分の範囲。どの時点を死亡と見るかで変わる」

榊原は数字を見る。

「約一日」

「やっと言った」

「一例」

「銃もある」

「銃は最初の死亡時刻が確定してない。海外まで含めれば、なおさら」

「でも八時十七分の検体と、今朝の八時十七分の発砲は比較できた」

「比較はできる。起点だとは言えない」

久世は椅子の背にもたれた。

「じゃあ、何件あれば言う?」

「件数じゃない」

榊原は答えた。

「別の説明が難しくなったら」

午後三時二十六分。

その材料が増えた。

前日の工場事故。

大型設備に挟まれ、黒殻が活動を停止した記録。

設備の作動ログが秒単位で残っていた。

今日。

別の工場で、近い条件の圧迫を受けた黒殻が活動を続けた。

外殻は変形した。

それでも起き上がった。

時刻差は、約二十四時間。

久世がホワイトボードへ線を引く。

「銃。電気。圧迫」

「熱は保留」

「車両も保留」

「そう」

「それでも三つ」

榊原は消さなかった。

昨日の死亡。

今日の耐性上昇。

同じ攻撃種別ごとに、およそ一日の間隔。

一方で、昨日の死亡直後には耐性は出ていない。

18:03:14。

相沢が黒殻を撃ち倒したあとも、別地点では銃撃による活動停止が続いていた。

つまり。

死亡情報が伝わるとしても。

身体の変化は即時ではない。

「二段階」

榊原が言った。

久世が振り返る。

「何が」

「共有と、変化」

榊原はホワイトボードへ書く。

死亡。

その直後。

遠隔個体の一時停止。

その下。

約二十四時間。

耐性変化。

「死んだ瞬間に何かを受け取る」

久世が言う。

「可能性」

「受け取ったものを使って、身体を作り替える」

「可能性」

「約二十四時間かけて」

榊原はそこで止まった。

「そこは、かなり強く疑っていい」

久世が笑った。

「珍しいな」

榊原は笑わない。

これは喜ぶ話ではない。

午後四時十二分。

暫定報告が更新された。

《黒殻において、前日に致死的であった複数の攻撃に対する耐性上昇が確認されている》

《耐性変化は、黒殻の出現から一律二十四時間後に生じたとは考えにくい》

《現時点で国内記録を比較すると、攻撃種別ごとの死亡確認時刻と、その攻撃に対する耐性上昇が確認される時間帯との間に、おおむね二十四時間の遅延を疑わせる事例がある》

《死亡時に遠隔個体が数秒間停止する現象との関連が疑われる。ただし、情報共有の範囲および起点となる死亡個体は特定できていない》

《情報共有が死亡時に生じ、その後の身体的変化に時間を要する可能性がある》

久世が最後まで読む。

「ここまで書くか」

「昨日より証拠が増えた」

「名前は?」

「何の」

「身体が変わる現象」

榊原は少し考えた。

「進化ではない」

「だろうな」

「世代交代していない。遺伝的な変化とも確認できない」

「適応?」

「それだけだと広すぎる」

榊原はホワイトボードへ向く。

「適応的再構成」

「硬い」

「仮称でいい」

榊原は書いた。

適応的再構成。

久世がその下へ数字を書く。

二十四時間。

榊原はすぐに「約」を付け足した。

約二十四時間。

「ぴったりじゃない」

「分かってる」

「死亡時刻にも誤差がある。耐性が完成した瞬間を直接見たわけでもない」

「分かってるって」

久世はペンを置いた。

榊原は数字を見る。

約二十四時間。

昨日の朝から、世界は黒殻を殺し続けた。

銃。

車。

火。

電気。

圧迫。

落下。

人間は、使えるものを使った。

その判断を責めることはできない。

目の前で人が襲われている。

止める方法がある。

なら使う。

榊原だって、自分の家族が襲われていれば同じことを望む。

だが。

一体を殺した経験が、他の個体へ渡るのだとしたら。

その死因に合わせて、約二十四時間後に身体が変わるのだとしたら。

意味が変わる。

人間が見つけた殺し方は。

一度使えば、永遠に使える武器ではない。

午後四時五十分。

榊原は、もう一度前日の映像を最初から見直した。

八時台の警察官による銃撃。

午前中の交通事故。

工場火災。

高圧設備。

午後の自衛隊による射撃。

避難所周辺での発砲。

昨日は、どれも同じ方向を向いていた。

人間が攻撃する。

黒殻が倒れる。

今日の映像は違う。

弾丸が浅い。

衝撃を受けても立つ。

電気を受けたあとに動き出す。

ただし、榊原が一番気にしているのは強さではなかった。

順番だった。

「出現から二十四時間なら、もっと単純なはず」

榊原が言った。

久世が椅子を回す。

「何が?」

「昨日の七時四十二分に最初の目撃があったとして、今日の七時四十二分に全部の耐性が一斉に上がる」

「そうはなってない」

「少なくとも記録上は」

榊原は画面を指す。

朝。

まず拳銃弾の効果低下が目立った。

その後、電気や圧迫で昨日との差が疑われる例が増えた。

熱と車両衝突は、条件差が大きくてまだ判断できない。

変化は一斉ではない。

「黒殻が現れてから一日、では説明しにくい」

久世が言った。

「そう」

「じゃあ、死んでから一日」

榊原はすぐには答えなかった。

「正確には、ある死因による死亡と、その死因に対応した耐性変化の間に約一日の遅れがある可能性。どの死亡が起点かは、まだ特定できない」

「同じだろ」

「違う。言葉を雑にすると、あとで全部ずれる」

榊原は前日の八時十七分三十六秒の記録を開く。

警察官が撃った。

三発。

黒殻が止まった。

今朝八時十七分四十一秒。

同規格の拳銃弾が、別個体の外殻を十分に抜けなかった。

五秒差。

数字だけを見れば、出来すぎている。

だが榊原は、その五秒を証明だとは考えなかった。

前日の八時十七分三十六秒より前に、別の場所で拳銃弾による活動停止が起きていた可能性がある。

それは国内とは限らない。

海外でも、昨日の朝から同じ黒い人型が確認されている。

ただし各国の記録は時刻も死因も揃っておらず、榊原たちにはまだ照合できなかった。

今朝の個体も、八時十七分より前からすでに耐性を持っていた可能性がある。

観測できた時刻と、変化が起きた時刻は同じではない。

「ここ、報告に入れて」

榊原が言った。

「何を?」

「八時十七分が起点だと誤解されないように」

久世が端末へ入力する。

《個別事例に約二十四時間の一致がみられるが、当該死亡例が同一死因の最初の事例であること、および耐性発現の瞬間を直接観測したことを意味しない。国外で先行した死亡事例の影響も現時点では除外できない》

久世が読み上げる。

「研究者しか読まない文章だな」

「現場へ出す文章は別にする」

「そっちは?」

榊原は少し考えた。

「昨日効いたからといって、今日も効くとは限らない」

「それで十分か」

「今は、それが一番大事」

午後五時十三分。

遼は住宅街の小さな交差点で、警察車両を見つけた。

赤色灯は回っている。

警察官が二人。

道路の先へ人を入れないようにしている。

遼は少し離れた場所から声をかけた。

「西へ抜けたいんですけど」

警察官が振り返る。

「この先は避けてください。対象が一体います」

「黒殻ですか」

「はい」

遼は地図を開く。

また遠回り。

昨日なら腹が立ったかもしれない。

今は、道があるだけでいい。

「ニュースで、銃が効きにくくなったって」

遼が聞くと、警察官は少し間を置いた。

「効かないと決まったわけではありません。ただ、昨日と同じだと思わないでください」

研究側から回ってきた言葉を、その警察官も使っていた。

「分かりました」

遼はすぐに引き返す。

警察官がいる。

拳銃も持っている。

それでも近づかない。

昨日なら、その判断は臆病に見えたかもしれない。

今日は違う。

生きて帰るための判断だった。

角を二つ曲がったところで、遠くから一発だけ銃声が聞こえた。

遼は足を止める。

続きはない。

倒れたのか。

倒れなかったのか。

確かめには行かない。

歩き出す。

昨日まで、人間は銃声のあとに安心していた。

今日は、その音だけでは何も分からなかった。

午後五時四十八分。

榊原は時計を見る。

17:48:12。

昨日。

交通事故で一体が活動を停止した時刻。

その一秒ほど後。

三十キロ以上離れた別個体が、約三秒停止した。

今日は、その時刻を越えた。

車両衝突への耐性を疑わせる報告はすでにある。

ただし、車は条件差が大きい。

速度。

重量。

角度。

挟まれ方。

だから、これだけでは判断しない。

午後六時三分。

相沢も時計を見ていた。

18:03。

昨日、自分が撃った黒殻を思い出す。

18:03:14。

銃撃。

活動停止。

18:03:15頃。

離れた別個体が数秒止まった。

あの時点では、何が起きたのか分からなかった。

今も全部は分からない。

だが、朝から警察には警告が回っている。

拳銃を最後の壁だと思うな。

昨日と同じ効果を前提にするな。

相沢は拳銃へ触れなかった。

「昨日、俺が撃ったやつも関係あるんですかね」

隣の警察官が聞く。

相沢は答えない。

分からない。

ただ。

もし研究側の仮説が正しいなら。

昨日の一発は、昨日だけで終わっていない。

午後六時十一分。

遼は住宅街の角で足を止めた。

遠くに黒殻が見えた。

一体。

歩いている。

遼はすぐに一つ前の角へ戻った。

別の道を探す。

戦わない。

確かめない。

昨日より強くなったのか、自分で試す必要もない。

スマートフォンが震えた。

美咲。

《今どのへん?》

遼は地図を見る。

家までの距離は、確実に縮まっている。

《昨日よりだいぶ近い》

《でもまだかかる》

少しして返事。

《待ってる》

遼は画面を消した。

昨日。

銃が効くと知った。

今日。

同じ銃が、同じようには効かなくなった。

理由を遼は知らない。

研究室では、榊原が知り始めていた。

ホワイトボードの中央。

死亡情報の共有?

その下に、一本の矢印。

約二十四時間?

さらにその下。

適応的再構成。

榊原は、その三行を長く見ていた。

少なくとも、黒殻は死んだ瞬間に強くなるわけではない。

死亡時には、離れた個体が止まる。

その後、時間を置いて身体の変化が現れる。

国内記録では、その間隔が約二十四時間に見える。

だが、どの死が時計を動かしたのかは、まだ分からない。

もしこの仮説が正しいなら。

昨日まで有効だった殺し方は、いつまでも同じようには通じない。

そして今日も、人間は黒殻を殺している。

その一つ一つが明日何を変えるのか。

榊原には、まだ答えられなかった。


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