第63話 境界
深く昏い意識の水底に光が差し込んだ。
声がする。大切な人の声が、僕を呼んでいる。
だけどそれが誰の声なのかを、思い出すことができない。
……。
自分の境界がひどく曖昧だ。
身体が思うように動かない。かろうじて目が開けられるぐらい。その程度だ。
……あれは。
前を向くと、一人の女性がいる。
顔は見えない。だけど知っているはずだ。
たった一人。残った僕の大切な人。
僕と何かを話しているけれど、聞き取れないし分からない。
だけど女性は僕の名前を呼んでいる。なら、僕は応えなければならない。
……ル……シア。
心から零れたのは大切な人の名前。
忘れていたはずの名前。僕はそれを手掛かりに、繋がりを手繰り寄せる。
するとぼやけていた視界が少しだけクリアになった。
なぜか、僕は女性に敵意を向けている。
訳がわからない。
そしてあろうことか、剣を振るった。
なぜ大切な人を傷付けなければならないのか。
だから止めた。
そして再び、女性が僕の名前を呼ぶ。
しかし募るのは苛立ちばかり。
だけどわかっている。この苛立ちは僕のものではない。
そう思うと、境界が少しだけはっきりした。言葉が聞こえてくる。
「……答え合わせをしましょう。お祖母様の預言に介入したのは貴方ですね? 黒闢の厄災アルトワール」
境界がはっきりしていく。それと共に思い出した。
……そうだ。僕が殺したんだ。
僕が、預言の巫女の預言に干渉し、黒龍を討伐するように仕向けた。
預言の巫女が死に際だったからこそ通った一手。
アレがなければヴェルナードが死ぬことはなく、あのまま平和に暮らせていたはずだ。
あのかけがえのない生活を壊したのは僕自身だ。
再び、境界が曖昧になっていく。
「聞いていますかレン様。貴方のことです。きっと自分を責めているのでしょう。だけど違います。全ての元凶はこの厄災です。貴方のせいではありません」
ルシアの声が境界を分かつ。
そうだ。介入を行ったのは僕ではなく、オレだ。しかし、だからといって僕が悪くないとは言えない。
僕にも出来ることはあった。
分岐点はあそこだ。
ルシアが共に行こうと手を伸ばしてくれたあの日。
……そうだ。僕はあそこで間違えた。
ずっと、あの家に居たのが間違いだった。
僕にとって幸せで平和な毎日だったのは確か。
でも、本当にヴェルナードのことを想うのならば、世界を学ぶべきだった。
世界を知り、常識を知り、黒龍という存在への人々の認識を正しく理解するべきだった。
そしてヴェルナードを知っている僕が、黒龍が迫害されずに済む世界を作るべきだったんだ。
数年の別れぐらい無限の時を生きる僕たちには些細なモノ。寂しいけれど、僕は一歩を踏み出すべきだった。
きっとヴェルナードも背中を押してくれたはずだ。
だけど、僕はそれを怠った。ならば僕にも責任はある。
……うん。そうだね。
間違っていたのは、僕だ。
だからこの憎悪の向くべき先は、外ではない。
……内に対してだ。
悪いのは僕とオレだ。
ならば責任を取るべきも僕とオレでなければならない。それが道理だ。
「戻りましょうレン様。貴方には、ヴェルナード様から託された想いがあるはずです……!」
そうだ。僕にはやらなければならないことがある。
ヴェルナードから託された想い。
――次に生まれる黒龍を頼んだよ。こんな結末を迎えさせないでくれ。
世界に黒龍を迫害させないために、前を向こう。
僕が犯した過ちは、そうすることでしか清算できない。
「……ふざけるなよ。貴様に理解できるのか。オレの憎悪が。邪魔をするな」
僕とオレとの想いが乖離する。
「――理解できるよ。アルトワール」
境界が、よりはっきりと分たれた。
そうして僕の自我は、深く昏い水底から浮上する。
「レン様!」
胸に飛び込んで来たルシアを動く右腕で抱き止める。
「ごめんルシア。迷惑を掛けたね。そしてありがとう。目が覚めたよ」
「いいえ! いいえ! 私は……!」
「あとは任せて」
嗚咽の混じった声。一度頭に手を置いてから、僕は振り返った。
そこにいたのは黒龍アルトワール。
かつて黒闢の厄災と呼ばれた、ただの復讐者。
「……バカな。ありえない」
「そうだね。僕もそう思うよ」
絶句するアルトワールに同意する。
アルトワールの言う通り、僕はアルトワールであり、アルトワールは僕だ。
だから同じ空間に存在することはできない。
……だけど今は些細なことだ。
「キミの憎悪は理解できるよアルトワール。なにせ僕も同じことをしたからね」
僕がゼスマティア神王国を襲撃したのは事実。
かつてアルトワールがアルカトラムを襲撃したように。
ルシアがいなければ、僕はアルトワールと同じ道を辿っていただろう。
「……いいや。貴様は真に理解できていない。そこにいるのがその証拠だ」
「真に……か」
確かに僕はアルトワールの憎悪を理解している。
なにせ僕の身に起こったことでもある。憎悪のままに世界を滅ぼしかけたのは僕でもあるのだから。
だけど僕とアルトワールには違いがある。
「キミはずっと同じ所にいるのかもしれないね」
僕は記憶を失っていた。
だから過去の記憶に縛られず、未来へと歩いていけた。しかしアルトワールは過去に囚われたままだ。
あそこから一歩も動けていない。
それが僕とアルトワールの違い。
真に理解できていないというのならそれが理由だろう。
「ならアルトワール。僕からも聞かせてくれ。キミは僕の憎悪も正しく理解しているのか?」
「当然だ。だからこのような事態になっているのだろう?」
「逆だよ。真に理解しているのなら、このような事態になっているはずがない。キミがそこにいて、僕がここに立っている。それが証明だ」
「……」
アルトワールは答えない。否、答えられない。
過去に囚われた存在では理解ができない。
「アルトワール。僕の憎悪が向く先は僕自身、そしてアルトワール。キミだ。よくもヴェルナードを殺してくれたな」
ありったけの殺気を込めて、アルトワールを睨みつける。
対するアルトワールは不快そうに眉をひそめた。
「ハッ。もはや理解などどうでもいいな。オレは世界を滅ぼす。貴様はオレを殺す。それだけの話だ」
アルトワールが覇黒剣を握りしめるのがわかった。
「わかっているのか。貴様は今、自分自身でオレの枷を外した。貴様という枷がない今ならば、そこにいる小娘も殺せるし、世界を滅ぼすこともできる」
アルトワールの言葉は事実だ。
龍という意味ではアルトワールが上。
向こうが真龍ならば、ヴェルナードから力を受け継いだだけのボクは偽龍ってところだ。
だけどいい。もう戦いは終わっている。
「そうはならないよ」
「……戯言を。死ぬがいい」
僕はアルトワールを無視して言葉を紡ぐ。
ここから先は僕の物語じゃない。彼の物語だ。
「そうだろ? レオ。レオ=ラグナス=アルカトラム」
僕は、僕に宿ったもう一つの魂に呼びかけた。
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