第50話 2026年、深夜2時の話
2026年11月。
閉店後のカフェで、キョンが仕事をしていた。
ノートパソコンを広げて、次のシーズンのデザインカンプを開いている。コーヒーは3杯目。飲みすぎだと思うが、言わない。このカフェで飲みすぎるのは、キョンの権利だ。パートナーになってから8年、変わっていない。
俺はカウンターを拭きながら、その横顔を見ていた。
(落ち着けアラフォー。)
(8年経っても、まだそういう顔をするんだな、俺は。)
(どうかしてる。)
(どうかしていていい。)
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時計を見た。
1時38分だった。
(そうか。)
(今夜だ。)
元の歴史では、今夜だった。
38歳のソファ。ウイスキー3杯目。詰んだ深夜。
仕事もなく、金もなく、誰もいなかった。テレビをつけたまま寝落ちして、深夜に目が覚めた。なぜかスマートフォンを開いた。なぜかSNSのタイムラインを流した。
見覚えのあるアカウント名を見つけた。
止まった。
プロフィールを開いた。3行だった。
「服を作っています。ノンバイナリーです。東京在住。」
(橘京だった。)
(20年間、声が出なかったやつが、そこにいた。)
(震えながら電話をかけた。繋がった。声が聞こえた。)
(そして転んで、16歳に戻った。)
(全部始まった夜が、今夜だ。)
(ただし今の俺には、その夜は来ない。)
(今の俺はソファにいない。詰んでもいない。)
(今夜の俺は、ここにいる。)
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キョンが顔を上げた。
「ねえ」
「何」
「なんか今日、ぼーっとしてない?」
「そうか?」
「さっきから同じとこ拭いてる」
俺は手を止めた。
(バレてる。)
「考え事してた」
「何を?」
俺は少し考えた。
「昔のこと」
「どんな?」
「お前に会う前のこと」
キョンが少し首を傾けた。
「会う前って、小手川にいたころ?」
「そのもう少し後だ。……いや、前でもある。うまく言えない」
「変なの」
「そうだな」
キョンがパソコンを閉じた。
「話せる?」
「うまく話せないと思う」
「別にうまくなくていい」
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俺はコーヒーを淹れ直した。2人分。
カウンターの内側から出て、キョンの隣に座った。
しばらく黙っていた。
(どこから話すか。)
(21年分の話だ。)
(順番に整理できるほど、単純な話じゃない。)
(でも——今夜だ。)
(今夜話さなかったら、また先に延ばす。元の俺と同じだ。言えないまま、詰む。)
(今回は、ちゃんと言う。)
「俺さ」と俺は言った。「お前と高校で同じ電車に乗る前に、一回、別の人生を生きてた気がすることがある」
キョンが俺を見た。
「別の人生」
「うん。お前と全然違う結末になった人生。詰んで、ソファで一人でいた夜」
「……夢?」
「夢みたいなもんだ」
キョンが少し黙った。
「その人生で、私は?」
「いなかった。お前はいたけど、俺のそばにはいなかった」
「……そっか」
「その夜が、今夜だった気がして」
キョンがコーヒーカップを両手で持った。
何も言わなかった。
ただ、少し俺の方に寄った。肩が触れた。
(落ち着けアラフォー。)
(それだけで、十分すぎる。)
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2時になった。
カフェの中は静かなままだった。
「その別の人生の話、もう少し聞いていい?」
「長くなる」
「いいよ」
「信じないかもしれない」
「信じるかどうかは聞いてから決める」
俺は少し笑った。
「……そうだな」
(落ち着けアラフォー。)
(21年間、誰にも言えなかった。)
(言わなかったんじゃなくて、言える相手がいなかった。)
(お前にだけは、いつか言いたいと思っていた。)
(今夜だ。)
深夜2時のカフェで、俺は話し始めた。
2005年9月から、2026年11月まで。21年分の話を。
キョンは最後まで、黙って聞いていた。
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話し終わったとき、窓の外が少し明るくなっていた。
キョンが俺を見た。長い間があった。
「……ひとつだけ聞いていい?」
「何」
「その別の人生でも、私のことが好きだったの?」
俺は少し考えた。
「好きだったと思う。でも、声が出なかった。言えなかった」
「そっか」
また間があった。
「じゃあ——良かった」
(——。)
「何が?」
「転んで、戻ってきたこと。声が出るようになったこと」
(落ち着けアラフォー。)
(落ち着けアラフォー。)
「……俺もそう思う」
キョンがコーヒーを飲んだ。残りの冷えたやつ。
「信じた」
「本当か」
「うん。条件がひとつある」
「何だ」
「また話して。続き」
(落ち着けアラフォー。)
(お前はそういうやつだ。)
(「信じるかどうかは聞いてから決める」と言って、聞いて、信じた。)
「わかった。また話す」
「じゃあ、帰ろうか」
「そうだな」
2人でコートを着た。電気を消して、鍵を閉めた。外に出ると、11月の朝の空気が来た。
「リュウ」
「何」
「——転んでくれて、ありがとう」
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商店街を2人で歩いた。朝が来ていた。
豆腐屋のおじさんが準備を始めているのが見えた。
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家に戻ると、キョンはすぐ眠った。
俺は一人、窓の外を見た。
(ありがとう。)
(お前にそれを言われるとは、思っていなかった。)
(あの夜転んだ俺自身に、ありがとうと言おうとしていた。)
(でも——お前が先に言った。)
(また、お前が先だった。)
(落ち着けアラフォー。)
いつもと同じ朝だった。
ただ今日は、少しだけ違う朝だった。
最終話。2026年の深夜2時。元の歴史では全部始まった夜に、今の俺はキョンの隣にいた。21年分の話を、キョンは最後まで聞いた。「転んでくれて、ありがとう」——それがキョンだと思う。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
なお本作は半分ノンフィクションです。




