第十話 陰陽師 前編
トップエージェントと呼ばれた彼は、スーツ姿で肩で息をしながら紳士靴なるものを忌々しげに見やった。
やはり走りづらいな。
彼は一概念の妖怪であった。
彼はこの任務が終わる迄――それは上司の一声を待ち望む永遠の拘留に近かったが――陰陽師に強制送還される訳にはいかなかった。
太古の昔から今の今まで鰻のようにすり抜けてきたが、40にもなるこの身体にハードな任務はきつかった。
そろそろ替えようか。
それなりに気に入ってんだけどな、このツラ。
元の黒澤夫婦の計画としては、同期的平和つまり同期という概念を使った妖怪を使い支配を行うというもので、同期という言葉に単一の意味を持たせることが重要だった。
同僚が倒されたのは、SNSにおいて「同期という言葉は古いから、同世代と呼ぼう」とムーブメントした矢先だった。
そのど直球な案からも分かるように彼は純朴で、エージェントの中で最も真っ直ぐな男だった。
彼の魂を祀るまでもなく、とっくに見限っていたらしい上層部は、テレパスと人間を介して精神を同調させる同期的平和に切り替えていた。
現在遂行中の任務――陰陽師の戦力を分散し、本来の任務から遠ざける事――が上手くいかなかった場合、第二の計画は古代アトランティスの精神同調器具を解析し使用する事らしいが、夢物語だろう。せいぜい研究者が時間稼ぎででっち上げた程度のものではなかろうか。
陰陽師。彼らは月面の富裕層が妖として悪さをするようになってからEBEROに所属し、地球外生物体による精神体投射やアトランティス計画の解明、対処などに関わっていた。バベルの塔を崩したのも彼らの先祖だった。
現在では我々に対抗するように、ポップカルチャーや学術的な界隈に紛れ、定義を霧散するような工作を行っている。これに上層部も頭を悩ませていた。
昔ながらの術のみならず、極小な痕跡を追いかけ、根本的な対策を研究する事を厭わないあくまで粘着質な、厄介な敵であった。
和紙の焼ける匂いが漂ってくる。追っ手が来たな。
トゼンは、すっくと立ち上がると、ネクタイを締め直し、人の波に姿を消した。
来ないで来ないで
来ないで‼︎
亜里沙は路地裏に駆け込む。
何でだろ、今まで視えたことなんて無かったのに。
肝試しだって行ったけど、何か起きたことなんてなかったのに!!
お願い、見逃してくださいお願い…
心臓が早鐘のように打っている。やば、うちそんな言葉知ってたっけ。
ゆびきりげんまんしよう……ゆーーびきーーり……
まじで意味わかんねぇって、来ないで来ないで。
ペプシの空き缶を蹴飛ばして、そいつがこっちに向かってくる。
ね……ぇ……けいやくしよう……?
白くて、ヒラヒラして、ぎょろっとした目がついてる。
いったんもめん……?
亜里沙はしゃがんでスマホを握りしめる。大量のチャームがシャランと揺れる。
AirPodsつけて目を閉じても、頭の中に声が響いてくる。
まじ無理まじ無理マジむりだからほんと……
突然スマホに電話がかかってくる。
驚いてスマホを取り落とす。
怖くて出られない。
ねぇほんと無理……
マツケンサンバの音楽が流れ続ける。
その瞬間、妖怪はきゅう、みたいな音を立てて、嫌がって逃げようとする。
すると、急に風が止んで、いったんもめんも何もかも空間が静止する。なにこれ、動けない。
しゅぽん、と音がして、何やら猫みたいな形をした別の妖怪が軒下からノコノコ歩いてきた。
どうも、僕はツァイガルニク効果の妖怪、人呼んでツァイガルニク先生だよ。
今起きた事を説明するね。
概念の具現化である僕らにとって、情報過多で意味が定まらないものは、概念を打ち消してしまう毒なんだ。
マツケンサンバっていう、意味不明な多義の集合みたいなものを、何となくで着信にしていたから、無意味さが魔除けになったんだよ。
例えばちいかわの発声。他にもViva La Vidaみたいな曲も、魔除けになる典型だね。だけど魔除けにしようと思った瞬間に、そこに意義が生じてしまうから、効力がなくなるんだ。
そして契約って言ってたのは、妖怪と人間が契約する事で、月面から投射せずとも人間のエネルギーを媒体に自立できるようになるからだね。
月面から遠隔操作だと色々制約が多いんだ。
概念の具現化であっても、地球上の人と絆結んで契約したら自立して一人歩きできる。
あ、僕? 僕は色々あって作者に懐柔されてるのでね……
つづく




