引けない理由があるらしい。
茂みから飛び出したゴブリンは四つん這いになりながら、全速力でこちらに迫って来る。
緑色で体の割に手足が長く、肋骨が浮き出て痩せこけている。物語で幾度となくみた雑魚モンスターのはずだが、実物は異様な迫力を纏っていた。
その血走った目はもうモンスターというより、ただの獣だった。
「ひっ……あいつだ! あいつが仲間を……!」
恐怖に引き攣った顔で男が叫んだ。メイの顔も真っ白になっている。
マズい。
逃げるか戦うか、俺たちの判断が整っていない。だがメイは男を置いて逃げる事はないだろう。
仕方ない。
俺は一歩だけ後ろに下がる。そしてそのまま勢いをつけて、メイの背中に体当たりした。
「きゃっ!? ぷ、ぷに太郎!?」
メイを見上げる。
「ぷに太郎……?」
その隙を突くようにゴブリンがナイフを振り上げて、男に飛びかかった。だが俺はそのゴブリンに目掛け、思い切り鳩尾に体当たりをした。
「ギギィィッ!?」
その気になれば振り返らなくても後ろを見れるのか。便利な身体だな。やれやれ。
「ぷに太郎!」
「うわあぁぁっ!」
錯乱した男が四つん這いになりながら逃げだした。やれやれ。二人がかりならイケるかと思ったが、どうやらそれも無理そうだな。
「ギギッ!」
ゴブリンは俺から少し距離をとってナイフを構える。ただ、視線の先は常に男だ。どうやら相当恨まれているらしい。
俺はまだその場に留まって動こうとしないメイを見て、最後に可愛くぷるぷると震えた。
「分かったわよ……」
メイは男の前に立ち、片方の手を取ると、歯の隙間から絞り出すように言った。
「……無理しないで、すぐ戻るから」
震える声に背を向けながら、俺はゴブリンと対峙を続ける。息は荒いのにまだ手を出してこない。どうやら先ほどの一撃が効いたらしい。
「うらぁーっ! おらぁーっ!」
体を大きく震わせ、声を張り上げて威嚇する。しかし、小さなプププという可愛い音が出ただけだった。相手はピクリとも動かない。
逆効果だな、やれやれ。
「……ナ……ロス……」
えっ。
「ジャマヲスルナ……! ドケ……」
さっきまでと同じ鳴き声に聞こえるが、なぜか意味が頭の中に入ってくる。
どうやら種は違えどモンスター同士、言葉が分かるらしい。
「あー、お前。俺の言葉、分かるか?」
「ドケ! コロス!」
やれやれ。意味は分かっても話が通じないぞ。
「待て。聴け。落ち着け。」
「ニンゲン! コロス!!」
駄目らしい。どうやらここまでか。
「ギィッ!」
ゴブリンが飛びかかってナイフを振り下ろす。だが、刃は俺の身体に食い込んでそのまま奥へ沈んでいくだけだった。切った先から繋がっていく。
思った通りだな。
そのままナイフに身体を絡ませる。
「ギッ!? ナンダ?!」
ゴブリンが慌ててナイフを引き抜こうとする。しかし、俺は離れない。そのままナイフを握った腕を登って徐々に顔に近づいていく。
やはり、この身体に単純な攻撃は効かないらしい。
メイに踏まれたり、木にぶつけられても何ともなかった。茂みでも木の棘や枝葉をすり抜けていたから、何となく予想はしていたぞ。
俺は腕を伝い、さらに肩まで詰め寄った。さっきまでは怒りしかなかったゴブリンの目に、今は少しだけだが恐怖が見て取れた。
「まあ落ち着けよ。なんで殺したいのか、教えてくれるだけでいいからさ」
「ギ……」
お、ようやく話を聞く気になったか?
「ギギィーッ!!!」
甘かった。突如としてゴブリンは駆け出した。そして近くの太い木の幹に、腕ごと俺を叩きつける。
俺は咄嗟に腕から身体を引く。そのせいでゴブリンの抵抗は腕を勢いよく叩きつけただけだった。
ボキッ、と嫌な音がして、それからナイフの落ちる音がした。肩の上から見下ろすと、肘から先がダランと不自然な方向にぶらついている。めちゃくちゃ痛そうだ。
「ガアッ!」
だが間髪を入れず、今度は肩で木に体当たりする。また鈍い音がした。
何をしても無駄だ。俺はゴブリンの顔を覆うように張り付いて、目と鼻と口を圧迫した。
森に入った時からずっと考えていた。もしメイが他の生き物に襲われた時、逃げられない時、俺はどうやって戦うのか。そしてこれが、一番簡単な事に気が付いた。
「…………」
ゴブリンは無事な方の手で必死に振り払おうとする。しかし俺の身体は、どうやら一ミリでも繋がっていれば自由に動かせるらしい。今は鼻の中と喉の奥まで覆っている。そんな程度では無理だぞ。
「ンンッ! ンンンッ!!」
ゴブリンが暴れる。のたうち回る。
俺を掴もうとし、自分の顔に爪を立て、血が出るほど強く引っ掻く。
それでも俺は離れない。それどころか身体の一部を細く伸ばし、鼻と口の中へ入り込ませる。
そして残っていた空気を奥へ押し出す。
「――ッ!!」
ゴブリンの身体がビクッと大きく跳ねた。
これはもう、戦闘では無い。
弱いものイジメだ。
虐待だ。
拷問だ。
のたうち回って苦しむ様を、俺はただ顔にへばりついて眺めている。
なぜか昔、学校で世話をしていたウサギを思い出した。
ゴブリンの目は飛び出るほど見開かれ、目尻に涙が滲んでいる。涙の味は多分、人間と同じだった。
手負いとはいえ、こいつは既に二人殺した。放置するのは危険だ。
メイを守るためだ。
だから仕方ない。
死んでくれ。
お願いだから、早く死んでくれ。
そしてそのまま、抵抗が止んだ。
ゴポッ
「……ッ!」
気が付くと俺は気道を開き、ゴブリンの肺に空気を押し込んでいた。
ヒューッ、と俺の側を風が通った。
「ゲホッ! ガハッ! ガハッ……!」
無理だった。殺せるわけないぞ。だって俺は昨日まで人間で、昨日まで普通に暮らしてたんだ。殺せるわけないぞ。
「ゲホッ、ゲホッ……! ゼェ、ゼェ……!」
ゴブリンが地面に倒れたまま、必死に空気を吸い込む。俺はその様子をただ眺めてるだけしか出来なかった。
頼むからもう立ち上がらないでくれ。そしてもう諦めてくれ。俺の為に、もうどこかに消えてくれ。
だが、そうはならなかった。
ゴブリンは長い時間をかけて息を整えると、身体を這わせ、身を捩りながらナイフに手を掛けた。
「もうよせ……やめろよ……」
震える手でナイフを握り込む。
負けた。そう思った。
「……何でそうなる? 理由を教えろよ、おかしいだろ!」
気が付くと叫んでいた。だからだろうか。コイツと初めてきちんと目があった。
「ゼー……ゼー………ッ! コロシタッ……!」
俺は耳を疑った。
「オトウサントオカアサンッ……! アイツラガコロシタッ……!」
誰か。
嘘だと言ってくれ。




