傷跡すら愛しくて
白い扉の前に立つと、足が竦むようだった。体に嫌な冷や汗が浮かび身震いを起こす。でも、ここまで背中を押してくれた人たちの言葉を反芻して、私は意を決してドアをノックした。
(返事がない……)
ただ、一度だけのノックで引き下がるほど、思慮深くない私は数回ノックを繰り返す。それでも応答がないので、あと一回と決めて大きく息を吸った。
指の関節が木製のドアを叩こうとした瞬間。物音ひとつしなかった室内から、ことりと音がした。
「誰だ?」
扉が薄く開く。
「先生……!」
「吉乃……?」
現れたウールドリッジは、いつもの整えられた姿ではなく、どこかやつれているようにも見える。それが私のせいだと思うと胸が苦しくて、思わず俯いてしまった。
「……入るか?」
「え?」
「折角来てくれたから、お茶でも飲んでいくと良い」
「い、良いんですか?」
想定外に、彼は私を部屋へ入室許可が降りて、思わず俯いていた顔をパッと上げる。ウールドリッジは扉を開けたまま「入らないのか?」と尋ねてきた。
本当にいいのだろうかと躊躇いながら、私は彼の部屋へと足を踏み入れる。すると、ふわりと香った彼の匂いに高鳴りよりも安心感が勝った。
「ソファに座るといい。今、紅茶を淹れる」
そう言ってキッチンへ消えた彼の言葉に甘えてソファに腰をかける。
この部屋に来たのは随分久しぶりで、エリカを預かって疑似家族のように過ごした以来だ。
内装は大きく変わっていない。メゾネットタイプで、天井までの高さがある大窓と、深い緑の壁面に埋め込まれた本棚。その中には蔵書が詰め込まれている。今座っている赤いソファの張りも記憶のままで、そっと撫でた。
ただ、違うとすれば、少し荒れているくらいだろうか。日にち違いの新聞がリビングテーブルに置きっぱなしで、いつも整理整頓している彼らしくない。
「どうした?」
そうこうしていれば、カップを持ったウールドリッジがマグカップを片手にソファへ腰を下ろした。渡されたカップの中にはコーヒーが入れられており、そっと口をつける。
「今日は何をしに? また何かあったのか?」
その声はいつもと変わりないように思える。私を慮る優しさが滲んでいるのに、それを上回る疲労が出ていた。
(やっぱり、来ては行けなかったのかもしれない)
仕事の疲れからならいい。いや、彼が少しでも辛い思いをしているなら見て見ぬ振りはできない。その原因が私なら、それは私が解消するべきだ。
そう決心して、茶色い水面に映った情けない表情の顔をあげた。
「先生、あの」
「走ってきたのか?」
「え?」
「汗をかいている」
頬に張り付いていた細い髪に触れて耳にかけてくれた彼は、やはり元気がない。私は悲しくて眉を下げながら、カップをテーブルに置いた。彼も、私が決心した気配を悟ったのか、同じくテーブルへ白いカップを置く。
「あ、謝りたくて」
「……吉乃が気にすることじゃない」
謝りたいと言っただけなのに、すぐに勘づくのだから、やはり彼にとって嫌な思いをさせたのだろう。自分への嫌悪感でいっぱいになって、私は膝に置いていた手をぎゅっと握る。
「いいえ。ウールドリッジ先生を不快にさせたことは事実です。ごめんなさい。あなたにそんな顔をさせるなんて……」
「違う。吉乃、それは間違っている」
そっと私の手に添えられた手袋をはめた手に、きゅっと眉根が寄った。
「この手袋の下に何があるのか、私は聞きません……。知られたくない、触れられたくない物は、誰にだってありますから」
触れられた上質な皮の表面は柔らかいけれど、私はその手を握り返さない。その距離感がいいのなら従うまでだ。
こちらの言葉に安心感を抱かされるはずが、予想外に彼は悲しげだ。そして、何を逡巡しているようにも見える。
「あの時は、咄嗟に手を払ってしまった」
「わかっています。先生は悪くありません」
「いや、謝罪させてくれ。痛くはなかったか? 赤くなったりしていなかったか?」
こんな時まで私を心配する彼に小さく微笑む。安心させるように、労わるように。
「大丈夫ですよ」と頷けば、ホッと安堵した彼がぎゅっと悩ましげに眉根を寄せたと思えば、何かを決意したように目を開いた。
「……見せる」
「いえ、私は……」
「いや、お前に隠し事はしたくない」
温もりが離れていく。
ウールドリッジはゆっくりと手袋を脱いで、躊躇いがちにその素肌を見せてくれた。
私は彼の手を見て、目を小さく開く。
「……醜いだろう? 吉乃の気分を害したくなかった」
彼の手は傷だらけだった。裂傷や火傷の痕がくっきりと皮膚に沈着しており、痛々しくて触れるのを躊躇うほど。
「防衛魔法を極めるということは、多くの攻撃を受けるということだ。切り傷はその時のもの。熱傷は実験が失敗した時にできた」
完璧な彼に隠された傷に、嫌悪感は感じなかった。そんなもの感じるわけがなかった。
私は、彼の素肌に触れる。ぴくりと動揺して揺れる手を包み、甲を撫でた。
「不快感なんてとんでもないです。この傷一つ一つに、貴方の努力を思いました」
完璧な姿の裏には血が滲むような努力がある。裏打ちされた実力に、傷は付きものだ。人間味すら感じる。
そっと傷を撫で、そして彼を見上げた。
「ウールドリッジ先生を嫌うなんて、絶対にありません」
だって、私はこの人の中身を好きになったのだ。この傷だって彼を構築する証だから、愛しさすら感じる。
「気持ち悪くないのか?」
「全然」
「……そうか……」
困惑と混乱の中に喜びが滲んだ下手な笑みが、私の心を柔らかくしていく。嬉しいとこんなに不器用な表情になるのかと、新たに知った彼の一部を噛み締める。
「安心しましたか?」
「あぁ」
「よかった」
微笑みを合わせて、やっと触れることのできた彼の本当の体温は思ったよりも熱くて、離したくないほどだ。けれど、そうも言っていられない。何せ、ずっと触れていたら変態に思われる。
「えっと、コーヒー冷めちゃいましたね」
「…………」
「先生?」
「俺が、淹れ直すから、もう少しこのままで良いか?」
さらりとした手の感触が手を滑る。その心地よさに頷いた。だって、私も離したくなかったから。
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